案山子の帝王

柚緒駆

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35 心の傷

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 聖域サンクチュアリの隅にある繁華街。その夜の裏通りを歩く、低いがよく通る男の声。

「研ぎ屋、研ぎ屋、研ぎ屋でござい。刃物研ぎから振動子の交換、アクチュエーターの調整まで何でもお任せ。研ぎ屋、研ぎ屋、研ぎ屋でござい」

 リヤカーに仕事道具を詰め込んで、引いて歩くのは白い頭を短く刈り上げた壮年の男。そして後ろからリヤカーを押すのは、Tシャツにボロボロのジーンズを穿いた黒い髪の少女。

「あら親方、今日も元気そうね」

 男が顔を向けると、バー『銀貨一枚』のドアが開き、マダムが顔を見せていた。男はシワの深い顔をほころばせると、頭を下げた。

「ああ、こりゃどうも、マダム。その節は大変お世話になりました」

 その隣に駆け寄って来た少女。勢いよく頭を下げたかと思うと、満面の笑顔を上げる。

「あのときはありがとうございました!」

 マダムも笑顔でうなずいた。

「あなたも元気そうで何よりだわ。親方は優しいでしょ?」
「はい! とっても親切にしてもらってます」

「こ、こら、余計な事を言わんでもいい」

 いかにも不器用そうな男は、困ったような顔を浮かべた。それを見たマダムはまた笑う。

「でもちょっと惜しかったわね。さっきまで3Jたちが居たんだけど」
「あ、それは残念です」

 少女は本当に残念そうな顔を見せた。

「ご挨拶したかったな」
「どうせまた来るわよ。あの子たちは逃げはしないし、死にもしないわ」

 マダムの言葉に、少女はうなずく。

「そうですよね。また今度お会いしたら、直接お礼を言わないと」
「あなたが元気で居てくれたら喜ぶわよ、きっと。もっとも、3Jは嬉しそうな顔なんてしないでしょうけどね」

 マダムは声を上げて笑い、少女も笑った。あのとき、ウッドマン・ジャックの森でズマに助けられ、その後3Jに聖域へ連れて来られたときからは想像もつかないほどの明るい顔で。


 獣人には夜行性の者も多い。故に夜のウルフェンは賑やかである。しかしその賑わいも、石造りの建物の中までは届かない。ダラニ・ダラは3Jを、ジンライを、ギアンを、そしてケレケレをガルアムの部屋の前に出現させた。いきなり部屋の内側に放り出さなかったのは、ダラニ・ダラなりに気を遣ったのかも知れない。

 ギアンは部屋の巨大な扉をノックすると、静かに押し開けた。

 こんな時間に何用だ

 静かな、しかし物理的な圧力を感じる思念の波動。巨大な大理石の椅子に座り眠る、オオカミの頭の巨人。

「父上、実は、これはその」

 説明に困るギアンに向かって、ガルアムは意外な言葉をぶつけて来た。

 何故ズマを連れて来ない

「……は? いやそれは」

 まだ下らぬ事にこだわっているのか

「いえ、私は決して」
「ズマを連れて来なかったのは、俺の判断だ」

 抑揚のない、感情のこもらぬ声で3Jが割って入る。

「今日は面倒事を片付けに来た。おまえたちの感情的な問題に興味はない」

 ガルアムの意識は3Jに向き、ジンライに向き、そしてようやくケレケレに向いた。

 それは誰だ

「想像以上に重態のようだ」3Jは言う。「ケレケレ、何度目だ」
「六度目だな」

 ケレケレは笑顔で一歩前に出た。

「我はケレケレ。ケルケルルガの化身の一つであって本体ではない」

 そして感心した様子でこう言った。

「ふうむ。さっきの空間圧縮の使い手といい、この獣人といい、必ずしも計算して作り上げた訳ではないのだろうが、イ=ルグ=ルの断片から、こうも強大な怪物を生み出すとは、なるほど、この惑星を滅ぼすべきとしたイ=ルグ=ルの判断も理解出来なくはない」

 ガルアムの全身に緊張が走る。

 3J、そなた何を連れて来た

「大いなる厄災だ」

 3Jの言葉にケレケレもうなずく。

「ケルケルルガは『宇宙の口』。すべてを飲み込む者。おまえたちの視点に立てば、イ=ルグ=ルに近しい存在と見えるだろう」

 ガルアムの目が開く。月光のように輝く目。口が開く。炎のような赤い舌。

「どういうつもりか、3J!」

 雷鳴のような声。しかし見つめる3Jに一切の動揺はない。

「ケレケレ、おまえは記憶が食える」
「うむ、食べられるぞ」

「ガルアムの記憶の一部を削除できるか」
「もちろん可能だ」

 ガルアムは立ち上がり、吠えた。

「侮るな、小僧!」

 そのとき、光がすべてを包んだ。


 光
 暖かい太陽の光

 牧草の香り
 風に揺れる栗色の髪
 タニア

 タニアは気が強くて
 そのくせ涙もろくて
 いつも白衣で走り回って

 言葉を教えてくれた
 文字を教えてくれた
 そして、心を教えてくれた

 けれどあの日
 燃える空
 キノコ雲

 真っ黒な、蠕動ぜんどうする球体
 イ=ルグ=ル

 タニアは涙で別れを告げた
 白衣ではなく軍服姿で

 知っていた
 わかっていた
 それが我が力を引き出すための『餌』である事を

 それでもタニアは飛び込んで行った
 燃えさかる炎の中に

 国を守るため
 人間を守るため
 世界を守るため

 そして消えた
 タニアは消えた
 イ=ルグ=ルの気配の中に

 口に広がる血の味
 タニアの死の味
 それにより我が力は解放された


 燃え落ちる街。キノコ雲の中に走る稲妻。ウネウネと蠢くイ=ルグ=ルの表面。丘の上にガルアムは立っていた。隣に立つ3Jがたずねる。

「憎いか」
「憎い」

 ガルアムは答える。

「イ=ルグ=ルが憎い。人間が憎い。世界が憎い。タニアを奪ったすべてが憎い」

 今度はガルアムが3Jにたずねる。

「それでも、人間と共に戦えと言うのか」
「そうだ」

 3Jは答えた。

「おまえには人間と協力してイ=ルグ=ルと戦ってもらわねばならない。そのためにこの記憶が邪魔ならば、削除する」

 ガルアムは冷たい目で見つめると、ポツリとつぶやく。

「そなたは、あのときの人間たちと同じだ」
「ああ、同じだ」

「そなたに正義があるとは思えない」
「正義があるのはイ=ルグ=ルだ。ヤツには神の正義がある。人類に正義などない」

「それがわかっていて戦うのか」
「正義がなくても、俺たちは生き残らねばならない」

「何故だ。何のためにそこまでして生き残ろうとする」
「その問いには、この問いで返そう」

 3Jはガルアムに問うた。

「どうして、おまえはいま生きている」
「……何だと」

「あのときおまえには、自ら死を選ぶ道もあった。イ=ルグ=ルとの戦いの中で、それは難しい選択肢ではなかったはずだ。だがおまえは死ななかった。生き残った。何故だ」

「それは……それは」
「それは、おまえが理解していたからだ。自分がタニアから『託された』のだという事を」

 ガルアムは混乱した顔で見つめている。3Jは続けた

「おまえは託された。俺も託されている。その重みを理解するなら、誰かにそれを託すまで、何としても生き残らねばならない。それは命にとって、正義より神の意志より重い事だ」

「しかし」
「おまえがもし、命を賭して憎しみを選ぶと言うのなら、ギアンとズマにすべてを託せ。それは俺には止められない」

「逃げ出せと言うのか。息子たちに放り投げて、尻尾を巻いて逃げ出せと」

 目を血走らせ、怒るガルアムに3Jは言う。

「選ぶのはおまえだ」
「我は獣王ガルアム。逃げ出しはしない。イ=ルグ=ルとは戦う。だが人間と共闘はしない」

「ならば、俺はおまえの記憶を消す。タニアの記憶と心の傷を消し去る」

 抑揚のない、感情のこもらぬ声。

「そうは行かぬ。タニアの記憶は我の物だ。心の傷も我の物だ。それを守るためなら、すべての人間を敵に回しても構わん」
「そうして息子たちがイ=ルグ=ルに食い殺されるのを眺めているつもりか。ウルフェンが滅亡するのを指を咥えて見ているつもりか」

「黙れ! 我は、我は」
「まだ気付かないのか」

「何をだ!」
「おまえに未来を託したのは、タニアだけではない」

 ガルアムの脳裏に顔がよぎる。様々な顔。明るい顔、暗い顔。苦しい顔、楽しい顔。子供の顔や大人の顔。ウルフェンに暮らす者たちの顔。死んだ妻の顔。そして息子たちの顔。

「獣王ガルアム、もう一度問う」

 3Jは言った。

「どうして、おまえはいま生きている」
「それは、タニアが……いや、そうか、違うのだな」

 ガルアムは息をついた。深く、深く。胸の内の澱をすべて吐き出すかのように。

「いいだろう、3J」

 ガルアムは言った。

「それがどうしても必要とあらば、人間と共に戦おう。ただし、我はそなた以外の者の命令はきかぬ。それだけは覚えておけ」
「わかった」


「結局、記憶は消さんで良かったのか」

 ケレケレは不思議そうにたずねた。

「消す理由がなくなった」

 3Jは抑揚のない声で答えた。ジンライを加えた三人は、パンドラのフロートディスクに乗り、星空へと浮き上がって行く。

「帰りは空間圧縮ではないのだな」

 これまた不思議そうなケレケレに、3Jは言う。

「年寄りは夜が早い」
「ほう、おまえでも気を遣う事があるのか。これは意外だ」

「そうか」

 相変わらず感情のこもらぬ言葉に、だがジンライは微妙な揺らぎを感じ取っていた。もちろん口には出さないが。

 上空にパンドラの白い姿が迫って来る。ズマが首を長くして待っているだろう。3Jがムッとした、などと言ったらどんな顔をする事か。それが楽しみなジンライであった。
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