案山子の帝王

柚緒駆

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43 いま、降り立つ

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 高さ四千メートルの壁の向こうに太陽が昇る。デルファイに朝が来た。ダランガンの教会には、いつものあの音が響く。麺棒でフライパンを叩く音が。

「ハイ、起きて起きて、朝ですよ! 当番の子は朝食の用意して、それ以外の子は掃除を始めましょう! 急いで急いで!」

 良く通る、クリアの明るい声。だが子供の一人が眠そうに目を擦りながら、小さな声で文句を垂れる。

「何か用事があるじゃなし、急いでもしゃあないじゃんかよ」

 別の子供が笑いながら言う。

「どうせまた昨日、3Jが帰って来なかったんだぜ」

 さらに別の子供はため息。

「まったく、八つ当たりは勘弁して欲しいよ」

 その三人の耳元で、フライパンがガンガン音を立てた。

「聞こえてます!」
「ひーっ」

 子供らは慌てて寝室から飛び出して行った。

「ホントにもう」

 そう言いながら、クリアは窓の外の空を見上げる。彼方にいる誰かを探すように。しかしその口が、む、と力強く結ばれた。そして修道服を腕まくりする。

「さて、今日も頑張らないとね」


 酷く落ち込んでいた。聖域サンクチュアリ迷宮ラビリンス、リキキマの鳥籠の中で、プロミスは両手で顔を覆ったまま、立ち上がる事すら出来ないで居た。ドラクルは困ったような笑顔を浮かべている。

「何とか壊れずにマトモにはなったようだけどね、ずっとこんな感じさ」

 リキキマは心底面倒臭いという顔である。

「おい、どうするんだよ、コレ」

 視線を向けられた部屋の隅、椅子に座る3Jは、いつもの通り感情のこもらぬ抑揚のない声で、こうたずねた。

「血への渇望はコントロール出来ているのか」
「手当たり次第に血を吸いまくるような事はないと思うよ。絶対はないけどね」

 ドラクルが平然とそう答えると、3Jは言った。

「ならば構わん。引き取ろう」

 リキキマがドラクルを振り返る。

「日光に当たったら灰になるとか、そういうのはないのか」
「さすがにそこまで欠陥生物じゃないからね。ニンニクは嫌いかも知れないけど」

 笑うドラクルは、まるで他人事である。鳥籠は崩れるように変形し、一本の紐となってリキキマのドレスの中へと流れ込んだ。しかしプロミスはまだ両手で顔を覆ったままだ。

「……どうして」

 それは絞り出すような悲しい声。

「どうして、あのまま死なせてくれなかったの」

 3Jは立ち上がった。

「そんなに死にたければ、俺を殺そうとすればいい。灰も残さず消し去ってやる」

 そしてドアへと向かった。

「ついて来い」


 もう朝か。窓から光が差し込んでいる。いや、時計を見れば、そろそろランチの事を考えねばならん時刻だ。そんな事にも気付かなかった。テーブルの上のグラスには琥珀色の液体が残り、足下には酒瓶がいくつも転がっている。

 何とくだらない。何と情けない。これが、この程度の男が、あのネプトニスなのか。自分が自分でない感覚。酷く矮小でみっともない。このまま消え去ってしまえば良いのだ。そう、ジュピトルにすら及ばぬというのなら、もはや生きている価値はない。ただの地方のまとめ役しか出来ない無能など、誰でも代わりが務まるはずだ。

 そのときネプトニスはようやく気付いた。コール音が鳴っている。どれくらい前から鳴っていたのだろう。それすらわからない程、憔悴しきっていた。

 出る必要はなかったはずだ。いまの彼の言葉には、何の意味も値打ちもないのだから。しかし長年の癖なのか、ついモニターの通話ボタンを押してしまった。

「やれやれ、やっと通じたか」

 誰だろう。聞こえて来るこの声に、聞き覚えはあった。なのに誰だったかすぐ思い出せない。

「どうした。返事も出来ないほど落ち込んでるってか」

 嘲笑された。けれど、もう腹も立たない。立てる理由もない。所詮自分など、この程度である。だがそのネプトニスに対し、モニターの向こうの声はこう言った。

「おまえに本当の価値を与えてやろう」
「……何だと」

 相手の言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。なのに体が反応した。口が動いた。そしてようやく気が付いた。この声の主が誰なのか。声は言う。

「おまえは力を持っている。だが今のままでは仮初めの力でしかない。それを本物にしてやろう」
「何故だ。どうして私にそんな事を言う。あんたは私の事が」

「そうだ。オレはおまえが嫌いだ」

 プルートスは低く笑った。

「だが自分にとって何が都合が良くて何が困るか、判断出来ないほど馬鹿でもないんでな」

 そして最後の一言に、ネプトニスは思わず立ち上がった。

「おまえのために、オレのために、ジュピトルを殺せ」


 暑い。いや熱い。もしくは痛い。晴天の太陽の紫外線が肌を焼く。それをプロミスは痛みとして感じていた。さすがに灰にはなりそうにないが、軽い拷問と言える。あまり長い時間日光を浴びると、頭がおかしくなるかも知れない。

 3Jは前を歩いている。聖域の大通り。どこへ向かうのだろう。いや、この方向なら決まっている。考えるまでもない。おそらく十分と歩かないはずだ。

 果たしてその通り、3Jは裏通りに入ってしばらく歩くと立ち止まった。バー『銀貨一枚』の前で。何も言わずに店のドアを開ける。プロミスはどうしようか迷ったが、このまま太陽の下に居続ける苦痛には耐えられなかった。

 暗い店内に入ると、カウンターでマダムが酒を飲んでいた。3Jは言う。

「開店準備はしないのか」

 マダムは苦笑すると、グラスの氷をカラカラと鳴らした。

「従業員が二人とも居なくなったのよ。とてもじゃないけど、一人で準備なんてやってられないわ」
「以前の状態に戻っただけだろう」

「人間はね、一度楽をしたら元の生活には戻れないものなの」

「そういうものか」
「そういうものよ」

 マダムはそこでようやくプロミスに視線を向けた。蛇のような視線を。

「初めまして、新しいお嬢さん」
「あ、あの、私」

 もしかして自分は見た目も変わってしまったのだろうか。プロミスは鏡が見たくてたまらなかった。3Jは知らぬ顔でカウンター席に腰掛けた。

「こいつを雇って欲しい」
「無茶言わないで」

 マダムは笑顔で断った。

「ここは聖域、腐っても人間の世界よ。強化人間やサイボーグならともかく、吸血鬼は困るわ」

 その言葉は、プロミスにとって悲しかった。惨めだった。だが涙が浮かんでこない。ああ、自分は本当に人間じゃなくなってしまったのだと痛感した。

「給料の代わりに合成血液でいい」

 けれど3Jは勝手に話を進めようとする。さすがのマダムもムッとした。

「あのね、こっちは断ってるの」
「用心棒に使える。この店にもメリットはあるはずだ」

「はあ? イ=ルグ=ルが出て来たら、用心棒だ何だ言ってられないでしょうが」
「イ=ルグ=ルを倒した後も人間は生き残る。この店も残るかも知れない」

「それ本気で言ってる訳?」
「この地球の上に人間を残すために俺は戦う。少なくともそれは嘘ではない」

「……そこまでする値打ちはあるの」
「ある事を信じている」

 マダムはやれやれといった風に大きなため息をついた。そしてプロミスを見つめる。

「とりあえず人間を殺すのは禁止ね、プロミス」
「は、はい!」

 プロミスは何度もうなずいた。

「あとね、3J」

 グラスに手酌で酒を注ぎ、面白くなさそうにマダムは言った。

「人間の世界を守りたいなら、急いだ方がいいわよ」

 3Jはこう返す。

「何か来るのか」
「あら、それは知ってるのね。その正体まで私にはわからないけど、イヤなモノが来るわよ。とてもとてもイヤなモノが」

 そう言うと、マダムは一気に酒をあおった。


「素晴らしいモノがやって来ます。とてもとても素晴らしいモノが。それは世界の流れを我らに引き寄せるでしょう」

 闇の中、恍惚の表情でそう告げるヴェヌの後ろに立ち、オーシャン・ターンは力強くうなずいた。

「いまこそ反撃のときだ。我らが聖神イ=ルグ=ルのために」


 闇の中、星の海を進む二つの意思

 一つはヌ=ルマナ、宇宙の目
 一つはハルハンガイ、宇宙の耳

 イ=ルグ=ルが待つ場所へ
 イ=ルグ=ルが呼ぶ場所へ

 いま、降り立つべし
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