案山子の帝王

柚緒駆

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112 邪神堕天す

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 晴れ上がった空に穴が空いていた。黒くて丸い穴が。もはや見上げる者も居ない、ゴーストタウンと化したエリア・エージャンの上空高く。いや、見上げる者は居た。一人だけ、人の建造せし偽物のオリンポスの山頂に。

 テラスの椅子に一人腰掛け、空の穴を見つめるのはウラノス。

「メーティス」

 つぶやきに、女の声が答える。

「お呼びでしょうか、閣下」

 その声だけの存在に、ウラノスは微笑みかけた。

「おまえには世話になったな。礼を言う」
「そうおっしゃられましても、ソフトウェアである私は、お暇をいただく訳にも参りません」

「ふむ、確かにそうだ」
「ですので、最後までご一緒させていただきます」

「まあ、やむを得んか」

 ウラノスは嬉しそうに、ため息を一つついた。


「ジュピトル」

 気のせいだろうか、3Jの声に切迫感が垣間見えたのは。

「いまウラノスはどこに居る」

 問われたジュピトルはキョトンと目を丸くする。

「別荘にシェルターがあるから、そっちに向かったはずだけ……ど」

 その顔が一気に青ざめた。

「まさか」

 ジュピトル・ジュピトリスの目は大統領執務室のメインモニターに向かう。そこにはエリア・エージャンの防犯カメラの映像が映し出されていた。そそり立つグレート・オリンポスの背景に、黒い穴が拡大して行く。

「ネットワークブースター接続」

 ジュピトルは己の声が震えている事に気付いた。けれどどうしようもない。

「アキレス」

 視界の中に、青い髪の青年が現われる。

「お呼びか、主」
「お祖父様はどこに居る」

 思わず詰問するような口調になる。しかしアキレスは平然と笑顔を返した。

「無論、ウラノス翁はグレート・オリンポスの頂に」
「何故、どうしてシェルターに行かなかった」

「無論、ウラノス翁の意思である」
「何でシェルターに行くよう説得しなかったんだ」

「このアキレスは、ただの道具であるが故に」
「そんな訳があるか!」

 喉が痛い。視界が滲んでよく見えない。ジュピトルは涙声で叫んだ。

「僕がいつ、君をただの道具として扱った! そんな風に思った事なんて一度もない! 初めて会ったときからずっと! お祖父様だって、きっと!」
「主よ」

 アキレスは苦笑した。

「人であれ機械であれ、ずっと一緒には居られない。いずれ別れは来るものだ。それは誰もが乗り越えねばならぬ」
「だけど、だけどこんな形で」

「イ=ルグ=ルに並みの知恵があるのなら、主の心をくじくためにウラノス翁を狙う事は想定内と言える。もし翁がシェルターに移動したなら、そのシェルターの上空に穴が空いた事だろう」

 それは確かにアキレスの言う通り。しかし頭で理解は出来るのだが、ジュピトルの感情がそれを拒絶する。

「神の意志には抗えないって言うのか」
「否」

 アキレスは静かに告げた。

「それは断じて否だ。我が主よ、人が他の獣と何が違うか、考えた事があるか」

 その自信と信頼に満ちた笑顔に、ジュピトルは言葉を返すことが出来ない。

「それは死だ。この世界で人類のみが、己の死に意味と価値を与える事が出来る。それは神ですらなし得ない、人の持つ力だ。そして神ですら、そう、いかにイ=ルグ=ルが強大な力を誇ろうとも、決してそれを奪う事は出来ない」

 アキレスの視線は3Jに向けられた。

「主の息子にも伝えるがいい。ウラノス翁は死に場所を選んだ。それは神への挑戦だ。イ=ルグ=ルは無慈悲な死を与えるだろう。他に取るべき手段がないのだから。ウラノス翁を殺した瞬間、イ=ルグ=ルは真の意味で地上に降り立つ事になる。人間と同じ場所に」


 グレート・オリンポス上空に空いた黒い穴から、光が漏れ出す。輝く巨大質量が姿を現わした。それは黄金色の拳。グレート・オリンポスを一撃で叩き潰す事は間違いないと、誰もが信じる大きさの。

 天空の拳を見つめていたウラノスの視線が、下に降りた。テラスの端に立つ人影。何の特徴もない背格好に、何の特徴もない顔。ウラノスは落ち着いた様子で声をかけた。

「意外だな、よこしまな神よ。いまさら何か話す事でもあるのか」
「ひれ伏せ、人よ」

 怒りの波動が空間を押し包む。

「ひれ伏して泣きわめけ。不遜の許しを請い、助けてくれと懇願しろ」
「何のために」

「それが道理であり、正義であり、あるべき姿だからだ。ただの人の分際で、神に挑むなど傲岸極まりない」
「それは挑まれる貴様に問題があるのだ」

 不敵に微笑むウラノスを、イ=ルグ=ルはにらみつけて言った。

「己の意思で決めた死など、神の前で選べるはずもなかろう」
「選ぶのは貴様だ。嫌なら殺さねば良いのだ、誰も困りはしない」

「救世主になったつもりか。人の罪を背負うとでも言う気か」
「何を怯えている、邪な神よ。殺すのなら、さっさと殺せ」

 イ=ルグ=ルの目が輝いた。ウラノスの心に恐怖が湧き出す。世界が無残に崩壊し、ジュピトル・ジュピトリスが無意味に死に果てるイメージが脳裏をよぎった。けれど、ウラノスは笑った。

「人類を舐めるな、イ=ルグ=ル。もう諦めろ、貴様に出来るのは殺す事だけ。他の選択肢など存在しないのだ。全知全能でない存在ものにはな!」

 その瞬間、巨大な拳は天空から放たれた。


 それは世界中の、あらゆるモニターに流されていた。黄金に輝く拳が、まるでスローモーションのようにグレート・オリンポスを押し潰して行く映像。ミニチュアセットを破壊する、大昔の特撮映画のようにも見えた。

 信じ難い、しかし信じざるを得ない現実。一つの時代が、いや一つの世界がここに終了した事を人々は感じた。

 そこに重なるように切り替わる映像。ジュピトル・ジュピトリスの顔のアップ。赤く泣き腫らした目の意味を誰もが理解した。しばし無言でカメラを見つめた後、重大な宣告を下すが如く、ジュピトルは口を開いた。

「世界中の皆さんにお伝えします。いま、イ=ルグ=ルは堕天しました。人の世界に墜落したのです。かつてのイ=ルグ=ルは、邪ではあっても神でした。でも、もう違います。我々の敵は、ただ殺戮を繰り返すだけのモンスターです。畏怖する必要はありません」

 家から逃れシェルターに駆け込んだ人々、そしてそのシェルターからも逃げ出した人々に、ジュピトルは語りかける。

「恐怖してください。憎むべき怪物を恐れてください。そしてその恐怖を敵意に変えてください。相手は超常的な宇宙意思ではなく、ただの悪意の塊です。我々に手の届く、叩き潰せる醜い存在なのです。人類は決して敗北しません。我々は知っているからです。この胸の中に、勇気という名の本当の神が居る事を」

 その力強い眼差しの中に、人々は希望を見た。一瞬の静寂の後、誰かが拳を突き上げた。誰かが声を上げた。それは周囲に飛び火し、世界に飛び火した。すべてのエリアで湧き上がる歓声。地球が一丸となった瞬間だった。


「百人だけ助けてやる、と邪神ヌ=ルマナは約束した」

 ネットワークの掲示板に書き込まれた言葉。だがタイミングが悪かった。グレート・オリンポスの崩壊と、その後のジュピトル・ジュピトリスの演説に関する大量の書き込みで、誰の目にも留まらないうちに流れ去ってしまった。


 夕焼け空に穴が空く。世界政府庁舎上空に、黒い大きな穴が。中から姿を見せる巨大質量。それは黄金色に輝く、足だった。見上げたムサシが呆れた声を漏らす。

「これでは芸があるのかないのか、よくわからんのう」

 何の警告もなく、問答無用で巨大な足は落下した。だがその下、空の穴と世界政府庁舎の間に、別の黒い空間が発生し、足はそこに飲み込まれる。

「ひょーっ、大丈夫とわかっておっても心臓に悪いわい」

 おどけた口調のムサシの視線は、中庭に立つ人影へと向けられた。庁舎の外、寒風吹き荒ぶ中でムサシと対峙するのは、何の特徴もない背格好に、何の特徴もない顔。ムサシは嗤う。

「堂々と正面玄関から来ればいいものを、何でこっちに回った。気後れでもしたか」
「なるほど、この惑星の人類は、どれもこれも滅ぼすべき資質を備えている」

 イ=ルグ=ルが不愉快げにそう言ったとき、上空から落ちてくる黒い影。地響きと共に着地したのは、八本のクモの脚を持つ巨大な老婆。

「待たせたね。怖かったかい、坊や」

 ダラニ・ダラの言葉に、ムサシは呆気に取られた。

「坊やじゃと」
「おまえ何ぞ、アタシから見れば坊やさね。気に入らないかい」

「いいや。たまには良かろう。頼りにしてるぞ、婆さん」
「レディに向かって婆さんはやめな」

「どっちなんじゃ」

 そんな空気を一切読まず、イ=ルグ=ルは二人に両手を向けた。ダラニ・ダラもイ=ルグ=ルに向かって手を向ける。空間が震動し、三人の姿はぼやけた。下から上に何本も稲妻が走り、何かが弾ける音がしたかと思うと、震動は止まった。

「こりゃ地味にキツいね」

 ダラニ・ダラが浮かべた笑顔は強がりである。ムサシはその背に回りながら言う。

「あんまり地味ではなかったがな」
「残念だけど、この先こんなもんじゃ済まないよ」

「なるほど、頑張って逃げ回らんといかんのう」

 しかしイ=ルグ=ルは、やはり空気を読まない。

「すべてはすでに聞こえている。姑息な」

 そう言って上に手を向けると、何もない空間に亀裂が走った。そして割れ砕け、大きな何かが落ちて来る。だがその巨体は、ほとんど音を立てずに地面に降り立ち、そのままイ=ルグ=ルに向かって飛んだ。岩のような拳が、唸りを上げて襲いかかる。

 そのガルアムの一撃を、イ=ルグ=ルは片手で跳ね上げた。勢い余ったガルアムは、建物に頭から突っ込む。そう、ここは中庭。ガルアムやダラニ・ダラの巨体が動き回るには狭いのだ。そこまで読んでここに出て来たのだろうか、考えるムサシの背筋に冷たいものが走った。
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