切り捨てられた世界で

柚緒駆

文字の大きさ
10 / 23

第10話 決意

しおりを挟む
 エレベーターを一階に下りると、五十坂は受付をのぞき込んだ。中にはあの日焼けの少年カンジが座ってスマホに熱中している。五十坂が窓を三回ノックすれば、慌てて顔を上げた。

「う、うわっ。あ、何ですか」

「悪いな忙しいとこ。ちょっと聞きたいんだが」

「八科先生ならオーナーと一緒に病院に行ったけど」

 そいつは都合がいい、五十坂の笑顔はそう言いたげだった。そして次に出て来た言葉に、式村憲明は目をみはる。

「二〇一号室の狭庭さん、まだ戻ってないのか」

 これにカンジは困ったような顔を浮かべた。

「たぶん。俺の見てる前は通ってないと思うけど、結構見過ごしちゃうから」

「そんなに結構見過ごすもんなのか」

「うん、さっきも狭庭さんが俺たちの部屋の前通ったからコーヒー持って行ったのに、部屋にいなかった。たぶん俺が見過ごしたか見間違えたかしたんだと思う」

「そうか、まあうっかりミスは誰にでもある、気にすんな」

 振り返った五十坂の視線の先には、困惑している式村の顔が。

「狭庭? どういうことだ。説明してくれないか」

 と、そこに玄関から聞こえたのは神経質そうな鶴樹警部補の声。

「何をしているのですか」

 部下の刑事を二人引き連れ、迷惑げな顔で近付いて来る。

「もうすぐ鑑識が到着しますのでね。現場を荒らさないでいただきたい」

「いえいえ、もう用事は終わりましたんで、部屋でおとなしくしてますよ」

 蛙の面に何とやら、五十坂は平然とエレベーターに向かい、ボタンを押した。ドアが開き乗り込めば、式村も慌てて後に続く。五十坂が無言で二階のボタンを押すと、エレベーターはドアを閉じ上昇を始めた。

 そこで式村の我慢は限界を迎える。

「どういうことだ、狭庭って狭庭真一郎か? あんた何を知ってる。何に気付いたんだ」

 早口でたずねる式村憲明を前に、五十坂は突然目をみはった。

「聞いたか、いまの音」

「音? 何のことだよ」

 エレベーターは二階に到着しドアが開く。だが五十坂は天井を見つめたまま降りない。そしてまた一階のボタンを押してドアを閉じた。エレベーターは一階に到着し、ドアが開く。目の前で苛立たしげな顔を浮かべているのは鶴樹。

「あなたたちねえ」

 その鶴樹に素早く近づくと、五十坂は腕を取ってエレベーターに引っ張り込んだ。

「ちょっと来てくれ」

「な、何ですか、おいコラ!」

 腕を振り払い怒り心頭の鶴樹に向かって、口の前で人差し指を立てると、五十坂はまた二階のボタンを押す。

「とにかく音を聞いてくれ」

 エレベーターは再びゆっくりと上昇を始め、五十坂は天井を指さした。そのとき。ゴトリ、確かに天井から何かが叩くような音がする。鶴樹も式村も困惑している。エレベーターが二階に到着し、ドアが開いても降りる者は誰もいない。五十坂はまた一階ボタンを押した。

 エレベーターは下りて行く。しかし。

「下りるときには音がしない」

 真剣な顔の五十坂に、鶴樹は苛立ちを見せた。

「だから何だというのです。こっちはねえ」

「エレベーターのカゴの上に、『何か』がぶら下がってるんじゃないかと思うんですがね」

 エレベーターは一階に到着し、またドアを開く。部下の刑事たちが駆け寄ってきたが、鶴樹はそれを手で制し、五十坂を探るようににらみつけた。

「『何か』とは何ですか」

 五十坂は一瞬躊躇ちゅうちょするような表情を浮かべたが、すぐに不敵な笑みを見せる。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

「はあ? いったい何を言って……」

「人間の死体かも知れない、って言ったらどうします」

 これには鶴樹警部補も式村憲明も息を呑んだ。

「誰の死体がこんなところに」

 鶴樹の問いに、五十坂は一度式村を振り返る。

「狭庭真一郎じゃないかと」

「えぇっ!」

 愕然とする式村と、対照的に冷静な五十坂を見比べた鶴樹は、若い部下の刑事に向き直った。

「雁沢」

「は、はい」

「車から脚立を持ってこい。急げ!」

「はっ!」

 雁沢刑事が玄関に向かって走って行くのを確認して、鶴樹は再度五十坂に向き直った。

「知ってることを話してもらいますよ、フリーライターさん」

「ええ、そりゃもちろんです」

 五十坂はやれやれといった風に肩をすくめているが、式村憲明はただただ混乱していた。いったい何が起こっているのだろう、自分は何に巻き込まれているのだろうかと。



 山間部の土の下に埋まった鉄筋コンクリート建築である秋嶺山荘は、夏は非常に涼しく過ごしやすい。ただし冬の底冷えは想像以上、そのため山荘内部には灯油ボイラー式のセントラルヒーティングが張り巡らされている。

 階段の下に設置されている燃料タンクには、常に灯油が蓄えられていた。燃料タンク室の鍵はオーナーである日和義人の管理。すなわち、日和義人は常に大量の灯油を自由に取り出すことができるのだ。



 日和義人は本懐を遂げた。狭庭真一郎を殺害し、唐島源治を処分したのである、もはや思い残すことはないだろう。いや、最後の願いが残っているか。自らに金を支払い子どもたちを託した、親連中の希望を叩き潰すことが。

 幸福な未来など許さない。すべてをまとめて地獄に引きずり込んでやる、それが日和に残された最後の望みのはず。

 いま日和は県立総合医療センターで緊急の縫合手術を受けている。さすがに今夜は帰宅できまい。行動に移すとしたら明日以降。ならば私の行動するチャンスは今夜しかないのではないか。子どもたちを守るためには。

 おそらく日和は秋嶺山荘で火災を起こすつもりだ。子どもたちを炎で焼き、しかし命を奪わない程度で抑える面倒な火災を。子どもたちを殺さず、火傷と炎の記憶という二つの傷を与えて親元に戻す。そうなれば親の金銭的、そして精神的負担は一気に増大し、大半の家族が崩壊するに違いない。それを日和は監獄の中から笑って見つめるつもりなのだ。

 それを防げる者があるとすれば、私以外に居ないのではないか。私が日和を止めれば、これ以上の惨劇は起こらないはず。いま、今夜、私がこの手で。

「八科さん」

 名を呼ぶ声に顔を上げれば、刑事の国下が大きな右手に缶コーヒーを二つ持って立っている。

「少し息を抜きませんか。疲れたでしょう」

 そう言って右手を差し出す。どちらかの缶コーヒーを選べというのだ。私はどちらでも良かったのだが、白い缶のカフェオレをとりあえず選んだ。国下は残った黒いブラックコーヒーを開けながら私の隣に座る。

「傷は深いみたいですが、とにかく急所は外れてたのが良かった」

 安堵した声で国下は話す。私は何だか可笑しくなり、口元に笑みを浮かべた。

「ええ、縫合処置だけで戻れるのですからラッキーですね」

「明日には戻れるといいですな」

「戻れるでしょう、身体だけは若い人ですし」

 その言い方が何か琴線に触れたのか、国下刑事は頬を赤らめうつむいてしまった。

 と、そこへナースステーションから事務員が一人、国下のところに駆け寄って来る。

「あの、警察の国下さんですか」

「はい、私が国下ですが何か」

「T県警からお電話がかかっていまして」

「県警から? ありがとうございます、すみません」

 国下は立ち上がると、私に小さく頭を下げて「それじゃ」と言い残しナースステーションへ速足で去って行った。

 もしや「アレ」に警察が気付いたのか。想定より随分早いが、そうならばもう猶予はない。日和義人の、いや葦河宏和の身柄が拘束されないうちに、私が、この手で。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。 人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。 防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。 どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件

遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。 一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた! 宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!? ※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。

処理中です...