【BL/短編】赤に酔う。

ちの

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水島大樹の調書

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1990年、9月20日 
水島大樹たいきの調書


――僕が話す話がどこまで信憑性も持つのか、もはや自分でもわかりません。愚かな男のたわごとだと思ってください。でもそれが多分、僕の本音……今まで抱えていたものなんだと思います。



――兄が男友達を家に連れてくるのは昔からよくあったことで、一昨年まで、特に目立った変化はありませんでした。ええ、二年前からです。極端に外出することが多くなりました。兄は大学入学当初から進路は院に行くと決めていたみたいなので、学費を稼ぐためにアルバイトをしていましたが、必ず毎日帰宅していました。夜中に遊びに出掛けたまま朝帰りなんて、その時は考えられませんでした。彼女でもできたのかと思いましたよ、兄がそんなにハメを外すなんてあり得ないんです。ただでさえ、消極的でインドアで、休日は一日中部屋にこもりきりなんてよくあることでした。性格も明るいとは言えず、自分の意見を押し殺すような感じで……中学生のときはけっこう女子に人気あったりもしていたんですけど、……とにかく夜中に遊び歩くような人ではなかったんです。それが急に。何日も家に帰らない日が続くようになりました。携帯も繋がりません。時々、誰もいない時間をねらって戻ってくるときがあるみたいでしたが、……着替えとかが洗濯機の中に入れてあったり、冷蔵庫の中身が減っていることがあったので……鉢合わせになることはありませんでした。なにかあったんです。間違いなく。兄を変化させる何か、いや誰かがいて、それで兄は変わってしまいました。僕たち家族の知らないうちに……。兄は突然アルバイトを辞めてから、ほぼ毎夜都心のほうへ出かけていたみたいです。出かけた先でなにをしていたのか、僕にも、兄の知り合いにもわかりません。大学も頻繁に欠席していたようです。教務課の人から連絡が来て初めて、事態の大きさに気づいたんです。去年の夏でした。



――兄がどこでなにをしていたのか、僕は知りたかった。母はもともと病気がちな体質でもあり、心理的な負担がたたって入院してしまいました。僕は兄の部屋になにか手がかりがないか探し始めました。そのころにはもう、兄はほとんど帰ってきた形跡を残していませんでした。部屋にはなんの手がかりもなかった。せめて日記ぐらいあれば少しはなにかがわかるかもしれなかったのに……。警察に捜査願いを出そうかとも考えました。だけど最後まで出さなかったのは……いや、出したくなかったのは、僕の兄が犯罪なんかするはずないと思っていたからです。いいえ、信じていたんじゃありません。兄は強盗とか殺人とか、そういうことができる人間じゃない。そういう勇気はない人です。だから納得しているのかもしれません。兄が、僕の考えていた範疇はんちゅうを超えていなかったことが、嬉しかったのかも知れません。



――そう、なので、実際のところ、兄がなにをしていていたのかは結局わからなかったんです。僕には想像し、憶測することしかできません。そしてその憶測の先には一人の男がいました。顔はよく覚えていません。その人はいつも目深まぶかに帽子をかぶっていて、左手首のあたりにとかげの刺青がありました。始めて見たのは学校からの帰りの電車の中。向かいのホームで兄を見つけたときに、その男は隣に立っていました。兄は楽しそうに会話をしていた。僕にはそう見えました。二回目は兄がその人を家に連れて来た時です。玄関先ですれ違ったときに、左手首の入れ墨に気づきました。その時僕は出かける用事があったので、彼と兄が家でなにをしていたのかは知りません。でもわかりますよね?あの手紙が見つかった後では、こう憶測するしかない。兄はその男と肉体関係があった。しかも何度も。そして複数と。その中で、男しか愛せない自分に嫌悪感を抱いていたことも。僕はこのとき、自分の兄がどんな顔をしているのかもわからなくなっていた。兄であってほしくないと思った。女ならまだしも、男に溺れるなんて冗談じゃないと思った。同時に失望したんです。目立たない、地味な兄でした。決して自我を誇示しない、つまらない男でした。それに安堵していました。優越感を持ってました。憎いと思ったのは初めてでした。そんなに辛いならさっさと縁を切ってしまえばいい。まともな、ノーマルな人間として生きていけばいいじゃないか。きっとあの男が関係しているんです。玄関ですれ違ったとき、兄は確か男を「たかさき」と呼んでいました。そうです、手紙に書いてあった名前も「高碕」ですよね。つまり、兄は高碕と肉体関係や恋愛関係のようなものがあり、その関係を不道徳を感じながらも断ち切れず、罪の意識にさいなまれて自ら手首を切った……自分が消えていく道を選んだのは兄らしいと思うんです。……変ですか?でも、本当にそう思ったんです。



――その日は家に帰ると、玄関の鍵が開いていました。変だなと直感しました。兄しかいないとも思いました。風呂場のほうから水の音がしたのですぐ向かいました。扉を開けて僕は赤い世界を見ました。バスタブにもたれる兄の姿ではなく、目に飛び込んできた色と鼻を壊すほどの錆びついた匂いの印象が強かった。なにが起きているのかわかりませんでした。たぶん、僕はその赤い匂いに酔ったのです。今まで兄のどこにも惹かれたことはなかったのに、感動したことはなかったのに、その時はなぜか兄の流した血液に心を奪われました。そんなに死にたかったのか……そんなに解放されたかったのか。高碕から?それとも僕から?後者であるならば、僕はさらにその傷を深く、深くえぐらなければなりませんでした。兄は男しか愛せない。愛する対象は、僕だけでよかったのに。



――やめるんですか?僕は狂ってなんかないですよ。虚言ですか?確かにそう聞こえるかもしれませんよね。でも最初に言ったでしょう。僕の話す話が真実かどうかなんて僕にもわからないんです。兄は誰を愛していたんですか?結局誰を、最後は思って死んだんですか?僕にはそれだけが必要なんだ。兄の答えが、僕の望むものと違うなら、その時僕は発狂してしまうのでしょうね。あの日、僕はなにもかも用意していた。計算外を生み出したのは兄でした。だから憎んでいるんです今でも。死んだ兄を、もう一度殺してやりたいくらい、憎んでいます。
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