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第32話 第六回戦・4

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 いつも通りの部屋に、いつも通りの萌音。
 まじめに勉強する萌音の姿に、京平は見とれてしまう。
 京平だけの特権を前に酔いしれる。
 
 しかし、楽しい時間はいつか終わる。
 
 ――ん……! 暗くなってきたし、今日はここまでにしよっか!
 
 ――ああ、そうだな。
 
 萌音は立ち上がり、肘を抱えて背中を伸ばす。
 京平はもっと一緒にいたいと願うものの、萌音を止める理由も思いつかず、また明日も教室で会えることを言い訳に萌音の言葉に相槌を打つ。
 萌音はテーブルに広げていたノートや筆記用具を鞄にしまっていき、京平はクッキーの入っていたお皿とオレンジジュースの入っていたコップをひとまとめにする。
 
 ――復習はちゃんとやるんだよー?
 
 ――わかってる。
 
 見送りも、いつもの行動だ。
 京平がお皿とコップを持って、二人で一階に降りる。
 京平が台所にお皿とコップを持って行けば、京平の母親が萌音の帰宅を知り、台所からさよならを叫ぶ。
 廊下で待っていた萌音に京平が合流し、二人で玄関まで。
 
 ――真っ暗!
 
 誰も歩いていない家の前の道に立って、萌音は自分の家がある方向へと体を向ける。
 とはいえ、隣の家だ。
 帰路というほど長くもない。
 
 ――じゃあね京平! また明日!
 
 ――うん、また明日!
 
 ズキン。ズキン。ズキン。
 何度も何度も、痛みが京平の体を叩いてくる。
 このまま別れていいのかと、心が何度も叫んでくる。
 
 京平は考える。
 萌音とは、どうせ明日も学校で会う。
 明日でなくとも、萌音の家のインターフォンを押せば十分後にも会える。
 このまま別れていいのかという問いには、はい以外の回答がない。
 
 萌音が体を翻し、京平に背を向ける。
 萌音の顔が、見えなくなる。
 
 ――え?
 
 瞬間、京平は途方もない恐怖感に襲われ、助けを求めるように萌音の腕を掴んだ。
 京平は、驚いた表情で萌音を見る。
 萌音もまた振り返り、驚いた表情の京平と、京平が掴んでいる自身の腕を交互に見て、何が何だかわからないといった表情を浮かべる。
 
 ――京平? どうしたの?
 
 ――また、会えるよな?
 
 京平の頭の中になかった言葉が、京平の口からポンと出た。
 あまりにも脈絡のない言葉に、萌音はポカンとした表情を浮かべた後、悪夢にうなされる子供を慰めるような優しい表情で、京平の頭に手を伸ばした。
 
 ――会えるよ。どうしたの?
 
 ――わからない
 
 ――わからないって?
 
 ――わからないけど、本当に会えるのか不安になって。
 
 ――会えるって。
 
 ――本当に?
 
 ――本当本当。
 
 萌音の手が、京平の頭を撫でる。
 実にニ十センチメートルの身長差があるため、萌音の腕はピンと伸びている。
 
 ――そう、だよな
 
 京平も、頭では理解していた。
 しかし、恐怖はぬぐえない。
 何か恐ろしい記憶が頭の中で渦巻いている気配を感じていた。
 
 明日は来る。
 当たり前だ。
 萌音はいる。
 当たり前だ。
 
 ――当たり前の物が、いつまでも当たり前にあると思っちゃ駄目……。
 
 ふいに、数時間前の萌音の言葉が、京平の脳裏をよぎる。
 その声は、間違いなく萌音の声だった。
 しかし、京平は奇妙な違和感を感じていた。
 まるで、萌音の声を別の誰かが発したような、
 
 ――じゃあ、帰るね。
 
 京平の頭から、萌音の手が離れる。
 萌音は笑顔で、京平に手を振る。
 
 明日は来る。
 当たり前だ。
 萌音はいる。
 当たり前だ。
 
 萌音は、明日も笑顔で京平を見てくれるだろう。
 明日も、当たり前の日ならば。
 
 当たり前の物が、いつまでも当たり前にある保証はない。
 
 ――萌音、俺、萌音のことが好きだ!!
 
 京平は、叫んだ。
 今この瞬間を失えば、二度と言う機会が訪れない、そんな気がして。
 
 ――え?
 
 萌音の手は止まり、京平の顔をじっと見る。
 京平の顔は真っ赤に染まり、しかし瞳は真っすぐに萌音の瞳を捉えている。
 萌音は、しばらく京平の瞳をじっと見続けた。
 そして目を瞑り、頭を下げた。
 
 ――ごめんなさい。私、好きな人がいるの。
 
 ――会長?
 
 萌音の返事に対し、京平は恐ろしいほどスムーズに、正解を口にした。
 萌音は驚いて顔を上げ、みるみる顔を赤くする。
 頬をポリポリと掻きながら、照れくさそうに笑う。
 
 ――あ、あはは。さすが幼馴染。……誰にもバレないように隠してたつもりだったんだけど、気づいてたんだ。
 
 萌音は、少しだけ顔を俯かせる。
 赤い顔を京平から隠す、せめてもの抵抗。
 
 ――どうして。
 
 ――え?
 
 ――どうして、会長なんだ。
 
 ――京平?
 
 が、頭上から降り注ぐ京平の言葉を聞いて、すぐに顔を上げる。
 
 京平の表情は、絶望で染まっていた。
 失恋した絶望、なんて生易しい言葉では表せないほどの絶望。
 まるで、今すぐにでも萌音の好きな人を殺してしまいそうなほど、殺意と狂気の混ざる絶望。
 
 ――どうして会長なんだ! たった、たった一年しか一緒にいないのに!
 
 ――京平。
 
 ――俺と萌音は! ずっと! 十六年も!
 
 ――……。
 
 ――どうして!!
 
 萌音は黙って京平の前に立ち、再び京平の頭を撫でた。
 言葉を選びながら、ゆっくりと、愛を持って、萌音は言葉を紡ぐ。
 
 ――私も、京平のことは好きだよ。大切な、幼馴染として。
 
 ――俺は、萌音のことを……。
 
 ――それで、京平も私のことを、幼馴染として好きなんだよ。
 
 ――違う! 俺は、一人の女として、お前のことを!
 
 ――じゃあ、なんで私の事、好きになったの?
 
 ――それは……。
 
 
 
 京平の過去が開かれる。
 子供の頃の、遠い遠い日の記憶。
 
 京平は、萌音のことが子供の頃からずっと好きだった。
 では、子供の頃とはいつか。
 ずっと、の始まりはいつか。
 
 始まりは、一つの約束。
 
 ――大人になったら結婚しようね!
 
 ――うん、約束!
 
 約束を結んだ瞬間、京平は萌音のことが好きになった。
 大切な幼馴染を悲しませないために、大切な幼馴染との約束を破らないために、京平は萌音のことが好きになった。
 
 
 
 ――あれ?
 
 京平の目から、涙が零れ落ちる。
 まるで、京平の目を曇らせていた憑き物が堕ちたように。
 
 ――ごめんね、京平。私、昔の約束で京平を縛り付けてたんだね。
 
 萌音は、指で京平の目をなぞり、涙をぬぐった。
 涙はひんやりと冷たく、京平の抱いていた感情がどれだけ辛いものだったかを理解した。
 萌音は京平を抱きしめない。
 恋人ではない幼馴染の距離から、京平を見る。
 
 ――俺は、誰よりも萌音のことを知ってる。
 
 ――そうだね。私も、京平のことを誰よりも知ってるよ。
 
 ――だから、俺は萌音のことが好きで。
 
 ――違うよ。誰よりも知ってるから好きなんじゃなくて、誰よりも知りたいって思うから、好きってことなんだよ。
 
 京平は、萌音のことを誰よりも知っている。
 世界中の誰よりも知っている。
 世界中の誰よりも一緒にいた時間が長いから。
 
 いつの間にか京平の家族の中には萌音がいて、京平は家族の中にいる萌音に好きな人というラベルを貼っていた。
 他に、適切な言葉を知らなかったから。
 落ちた涙がラベルを濡らし、ペロッと剥がれ落ちる。
 ラベルの下には、幼馴染と書かれていた。
 
 ――ああ、そうか。俺は、萌音が好きなんだな。
 
 恋人としてではなく、幼馴染として。
 正しい気持ちを自覚した瞬間、京平の心はいっそ晴れやかになった。
 十六年。
 長い長い偽りの気持ちは、溶けて消えた。
 
 ――ごめんね、気づいてあげられなくて。
 
 ――いいや、俺の方こそごめん。もっと早く、言葉にするべきだった。
 
 ――そんなこと言ったら、私だってそうだよ。幼馴染だからわかってるって、勝手に思い込んじゃってたよ。
 
 京平と萌音は何度も頭を下げ合って、最後には顔を見合わせて笑った。
 大切な幼馴染同士だからこそできるコミュニケーション。
 
 ――結局、全部知ったつもりになって、知ろうとしてしなかったんだろうな。
 
 ――お互いにね。
 
 大切な幼馴染同士だからこそできなかったコミュニケーション。
 事実を理解した今、京平と萌音の絆はより深まって、より双方の存在の大切さを確認した。
 
 ――で、会長にはいつ告白すんの?
 
 ――イツコクハクスンノ!?
 
 ――自分でさっき言ったんだろ? もっと早く、言葉にするべきだったって。
 
 ――言ってないよ!?
 
 ――でも、俺の言葉に同調はしたでしょ? なら、言ったと同じだろ。
 
 ――むぐぐ。
 
 萌音は湯気が出るほど顔を赤くして、腕を組んで首を傾げる。
 
 ――言ったほうがいいよ。俺みたいに、後悔しないように。
 
 京平の言葉を前に、萌音は目と口を思いっきり閉じて、目と口の周辺がシワシワになってから、ゆっくりと目を開ける。
 
 ――……わかった。明日、する。
 
 ――そうこなくっちゃ!
 
 ――振られたら、慰めてね。
 
 ――絶対大丈夫だよ!
 
 ――何を根拠にぃ。
 
 不安そうに言う萌音とは対照的に、京平の表情は晴れ晴れとしている。
 京平の脳の片隅には、萌音と生徒会長が交際する未来がある。
 生徒会長の萌音への気持ちも知っている。
 だからこそ、萌音の告白の成功に、疑いの余地はなかった。
 
 ――信じろ。誰よりも萌音を知ってる、俺の言葉だ。
 
 ――それ根拠じゃない……けど、わかった。信じる。
 
 先程までとは打って変わって、今度は京平が萌音の頭を撫でる。
 萌音はそれを、静かに受け入れる。
 
 ――まあ、告白が成功しても失敗しても、会長のことは一発殴るけど。
 
 ――なんで!?
 
 ――大切な幼馴染を預けるんだ。それくらいして当然だろう。
 
 ――私、全力で会長を守るからね?
 
 ――ああ。それでこそ、萌音だ。
 
 京平と萌音は穏やかな表情で離れ、萌音は自分の家に向かって一歩歩く。
 
 ――私、頑張るから。京平も頑張りなよ。
 
 ――頑張るって?
 
 ――好きな人。今度こそ、本当に好きな人を見つけるんだよ?
 
 ――難しいな。ずっと、萌音しか見てなかったから。
 
 ――それで、私と会長、京平と恋人さんで、一緒にデートをするんだ。
 
 ――ダブルデート!?
 
 ――きっと、楽しいよ!
 
 ――そうかあ?
 
 ――そうだよ! だって、私が選んだ人と、京平が選んだ人だよ! 絶対いい人に決まってるじゃん!
 
 ――そうか、そうだな。じゃあ、俺も少し頑張ってみるか。
 
 ――うん、頑張れ! 私は……明日頑張ってくる!
 
 萌音はくるっと体を回転させて、自宅へと向く。
 首だけ振り向いき京平の方を見て、とびきりの笑顔で手を振る。
 
 ――じゃあ、またね!
 
 ――うん。また、明日!
 
 
 
 
 
 
 当たり前は、残酷だ。
 死者は生き返らない。
 妄想では現実を上書きできない。
 過去には戻れない。
 当たり前は、当たり前にやってくる。
 
 
 
 
 
 
 しかし確かに、京平の脳は満たされた。
 逆流してきた過去の記憶は元の場所に収まって、現実を正しく受け入れ始めた。
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