世紀末のアソート

北瓜 彪

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 「ピンポーン。ピンポーン。」
 「ピンポーン。ピンポーン。」

 待っていました。
 私は洗濯機の前で、その音が止むのを待っていました。
 朝っぱらから相手の都合も考えずに訪ねてくる宅配便。じっと辛抱して、配達員が帰るのを待っていました。
 仕方がないのです。誰しもの人間生活はオンとオフによって成り立っていて、家の中というのはそのオフの生活を過ごすための場所であるはずです。外の世界に出る準備として、公の場の住人に変身するために、プライベートなことをするための、デリケートな空間でもあるはずです。それを、まだ洗濯機も回し始めていないというのに玄関を越えるなんて、あり得ないのです。私にはまだ朝の支度がたくさん残っていて、それを全部済ませるまでは、外の世界の住人の前に姿を見せることなど、できないのです。
 この窓から眺めるテレビ塔の、なんと平面的なこと。この窓から見下ろすコンビニの、なんと小さなこと。玄関の扉を一枚挟んでいるだけで、壁や窓を挟んだだけの外の世界の全てと距離を置いているような気がして、堪らなく晴れやかな心地がするのです。家というのは、そういう場所でなければいけません。
 ドアホンが鳴り止んでから、私は大理石の土間に立って、この黒い玄関ドアの向こうに行ってしまった配達員のことを想像しました。私の生活に、平穏が戻ってきたようです。

 その日の昼のことでした。
 靴箱の整理をしていた時、私の耳に水の跳ねるような高い音が響きました。小鳥がマンションの中に迷い込んで鳴いているのだと、そう直感しました。私はまずドアアイから外の様子を観察して、誰もいないことを確認すると、掌一枚分の隙間をつくるように、そっとドアを開いてみました。ええ、ほんの好奇心です。人間が相手だったら決してこんなことしなかったでしょうが、動物相手ということで、化粧もしないで扉を開いたのです。
 突然くるぶしがくすぐったくなって、気づくと一羽の雀が玄関の天井近くを旋回していました。雀が私の足元から中に入ってきてしまったのです。その雀は急降下して、白磁の花瓶の造花にとまりました。その時、私は強い嫌悪感を覚えたのです。ええ、雀の体には、一抹の埃がついていました。外の世界の馬の骨が、私の空間に侵入した決定的瞬間でした。
 絶叫する必要はありませんでした。大家さんが果物をおすそ分けしにきてくれた時も、お隣さんが回覧板を届けにきた時も、容易にあのドアを開けてはいけないと信じ込んできました。あのドアが、私の平穏な私生活の唯一にして絶対の砦であると。そしてそれは正しかったのです。
 雀が一鳴きして身を震わせた時、その埃はフローリングに着地するや否や、一本の苗木を生じました。緑の苗木はみるみるうちに天井近くまで伸び上がり、肌色の地肌を見せつけてきました。私は我に返って雀に腕を伸ばしましたが、雀は一瞬早く飛び立って、廊下の方へ突き進んでいきました。
 雀の体からは、それはもうたくさんの泥やらごみやら汚れが落ちました。雀の羽も落下したと思います。それらもまた床に触れると同時に違うものへと変わっていきました。あるものは幼児くらいの大きさの自販機に、あるものはくたびれた会社員に、あるものは狡猾そうな野良猫に、あるものは硬く粗暴な四輪駆動車のタイヤに、そしてあるものはもとよりももっと見苦しい汚物へと変わりました。私はそれらを見境なく押しのけて奥へ奥へと進んでいきました。雀が闖入したクローゼットや台所は外の世界の異物で溢れ返りました。それからハンガーからネオンの光が発せられ、便器が吠えながら駆け回り、テレビは石塀になってしまいました。見れば食卓の風景がどろりと溶けてテレビ塔が接近し、その横で大家さんが鼻のあたりを通行止めの標識に埋没させていました。ここは和室だったか、地面の一区画ごとにメーターが生えて車が停まっているので分かりません。それから澄んだ青空が注ぎ込んできて、フローリングの茶色が流れ出ていき、壁は雑踏を映したままほうぼうに歪んでいきました。そのうちに私は、全てを失い、全てを手に入れたことを理解しました。隔ててきたものは受け入れるべきものとなり、異物は同胞、同胞は異物となりました。私は底なしの絶望に身を融いてゆきました。それは即ち、青天井の希望のことです。

 だからお願いです。もうその苔むしたドアホンの遺骸を鳴らさないで下さい。私がその玄関を越えることはもうあり得ないのです。もう私があなたの前に姿を見せることなどできないのです。仕方ありません。今、私は確かに世界の全てとつながっていて、堪らなく晴れやかな心地でいるのですから。
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