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失われた味を求めて
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三色旗柄の電光看板を見上げて、一人の女がその店の前に佇んでいる。女はしばらくそこで逡巡していたが、やがて意を決して店の自動ドアへと近づいた。店内へ足を踏み入れるやいなや、その足元からジューン…と赤い矢印が伸長し、フローリングの上を滑って店の奥の方に消えていった。女はそれを辿ってテーブルやソファの合間を縫っていき、着いたのは窓際のテーブル席だった。腰を下ろすまもなく、女のもとにキャタピラ駆動の白いロボットが接近してくる。火星探査機を流用したと一目で判るそのロボットは、眼玉の形の小型カメラがある以外、人間性のかけらも感じさせないような外見であるが、頭の上には忘れずにしっかりとトックブランシェが乗っかっていた。女はロボットの顔についている二つのボタンのうちの右側を押して、額を小型カメラへ近づける。しばししてロボットの両眼が赤く光ったのを確認すると、女は心底眩しそうに顔を背けた。それだけで、ロボットはくるりと回転して厨房に去っていった。
女は一息ついて店内を見回し、他の客のテーブルに置かれた様々の料理を観察し始める。白い皿の上に建つオレンジ色のクリスマスツリーの断面に、雛あられがぎっしりと詰まっている。真っ青のピザには、ハムスターの形のいちごがふんだんに盛られている。猪の頭をした魚の煮つけが、ビールのような液体の中に漬けられている。
かつてビュッフェに使われていた大円卓が、女の目に留まった。天板から太い柱が上に向かって伸びていて、その先に取り付けられた大きなモニターが、柱を軸に緩慢なスピードで回転している。モニターには実験室のような簡素な暗室が映し出され、先ほどのロボットが、その部屋の壁に固定された幅のある機械の前にいた。機械に設けられた無数の窓のうちのいくつかが発光したところを、女は食い入るように見つめていた。
モニターからは、機械音声のナレーションが流れている。
〈人工知能を利用して食材の相性を研究するフードペアリング理論は、味覚の体系化を完成させた頃からさらなる応用へ飛躍しました。それぞれの味覚は、その味だけを持つ液体である「テイスト」として具現化され、各テイストの調合と成形が、それまでの料理の概念に取って代わったのです。
美味しい飲食物を作るためには、必要なテイストを選び出し、ピコグラム単位まで分量を計算してそれらを混合し、3Dプリンターによって塗色や凝固を施すだけでいい。「だけでいい」というのも、これらの作業は全て人工知能が行うため、人間の料理人はもはや必要ないのです。モニターに映っている機械はこの「調理器具」であり、暗室はさしずめ「厨房」であります。テイストの容器は機械の中に格納されていますが、機械には容器の側面が見えるように、テイストの数だけ窓が開いています〉
複数の窓の奥で流れ出したテイストは、それぞれ機械の中を通って3Dプリンターで合流する。3Dプリンター内に置かれているティーカップに各液体が注がれて、加熱と同時に液体への塗装が始まる。凝固の工程はなく、加熱が終了して3Dプリンターの内部が暗転すると、すかさずロボットがティーカップを取り出して走り出した。
女はモニターから目を離し、ティーカップを持ってやってくるロボットを迎えた。ロボットのアームからカップを持ち上げてテーブルに置き直し、液体の表面を覗きこむ。そして深淵に吸われるように、紅樺色の液体を口にした。女は少しの間その味を確かめていたが、手元のボタンを押して店員を呼びつけたので、周りの客達がぎょっとした様子で振り返った。
「何かお困りでしょうか?」
店員はおどおどした目つきで女を見上げた。女は液体で喉を濡らしているので、いささか声の通りがよかった。
「いえ、大したことじゃないんです…。わたし、さっきこのトマトティーを注文したんです。注文、と言っていいのかしら…」
「ええ、ええ、もちろん。トマトティーを想像なさった、と」
「ええ。それで、大変申し上げにくいんですけれど、わたし、子供の時に飲んだトマトティーがまた飲みたくなって。それで家の近くにもテイストレストランがオープンしたって聞いて、ここならそれを再現して頂けるかもしれないと思って…」
「なるほど、そういうことでございますか」
周囲の客達は二人の会話を盗み聞きして、時折「今時、再現だなんて」「物好きな人もいるもんだ」と囁き合っている。
「でも、なんていうか、この飲み物は、あの時のトマトティーとは違う感じがするんです。何かが、違うんです。うまく説明できないのですけれど…」
店員はそれを聞いて、あからさまに困った顔つきをした。
〈テイスト技術の実現によって、食材を自然界に求めることはなくなりました。テイストの使い方次第で無数の食品を作ることができるので、動植物に由来する従来の食材、およびそれらを使った料理も既にテイストで再現されており、現在の食文化は、未知の料理の創作の段階に入っているのです。
しかしテイスト調理機は未だ高価であり、一般家庭への普及は当面先となる見通しです。飲食店は、わたしたち農林水産省の定めた規格に従ってテイスト料理を提供する「テイストレストラン」に画一化され、味の保証は確実なものとなりました。店は皆様の希望する料理を提供するために、ウェイターロボットを使い始めました。客が来店すると、ロボットが客の脳を調べて、客の望む料理をデータ化して記録します。そのままロボットは「厨房」に行って機械にデータを送信し、機械はそのデータに従って「料理」を始めるのです。このため客は自身が考案した料理を自身が希望する味で注文することができ、皆様の飲食店の利用は、テイスト料理研究の後押しに繋がります。もちろん、想像を形にするのですから、過去に食した料理を想起して注文することも可能です〉
「では、もう一度ご注文されたらいかがでしょう?
今ウェイターを連れてきますんで」
「でも、待ってください」
店員はロボットのリモコンを取り出しかけたまま、制止させられた。
「ウェイターロボットは、客の想像している料理を一度でデータ化できるはずです。たとえ完璧な記憶でなくても、見た目と味がちぐはぐでも、これだけの創作料理を問題なく作っている…。だから店には人間の店員が一人しかいなくて、それも機械の故障を直すためにいらっしゃるのだと…」
女は再び他の客達の皿を見渡した。
「ですからなぜ、まして飲んだことのあるトマトティーが再現されないのか、不思議でならないんです」
店員はせわしく目を泳がせて、それから嫌に丁重な笑顔を作った。
「それはお客様、味覚というのはそもそもからして曖昧なものでございます。全く同じものを食べたからといって、それらを違うものだと認識してしまうことがないとは言えない。逆に、違うものを食べても同じものだと思う方はいらっしゃいます。そこにはまた様々な要因があるわけで…」
「あくまでわたしのせいにするのね…。
分かりました、他を当たります」
女は席を立つと、身を翻して店を後にした。
雷紋の電光看板を見上げて、女はその店の前に立った。中の様子を伺っていると、自動ドアが女を感知して開いてしまい、矢印の映像が入口付近の床に投影されている。店に入ることに決めて、矢印についていくと、誘導されたのはまたしても窓側の席だった。そこへ赤い衣裳をつけたロボットがせかせかと近づいてきたので、右側のボタンを押して眼球に顔を寄せ、注文を認識したことを確認して返した。
周りの人間は皆、見たこともない食べ物を食べ、奇異な飲み物を飲んでいた。墨色の刺身を頬ばりながら、細長い林檎のようなものをかじる者がいた。二層の液体がプルームのように対流するサイダーが見えた。なじみのサプリメントに似た球体を、三つだけ乗せた皿もあった。
壁際のターンテーブルは使われておらず、天板から生えた柱の先にモニターが取り付けられている。それは店内に、さきほどの店と同じナレーションを垂れ流していた。女はやはりそれを真剣に見つめた。
やがてロボットが、茶碗を支えて移動してきた。女はロボットのアームからそれを受け取って、紅樺色の湖面を覗きこむ。先ほどの店で出されたものと、同じ色だった。当たり前である。同じメーカーの機械の、同じ位置の窓が光るところを、モニターで見たばかりなのだ。女は茶碗の中身を一口すすって、虚空を眺めた。そのまま茶碗をテーブルにゆっくりと置いていたが、店内を歩いている店員を発見すると、すぐに手を挙げてつかまえた。
「わたし、このトマトティーを注文したんです。昔ハイキングの途中で飲んだ、思い出の味…それをまた飲みたくて、あのトマトティーを思い浮かべたんです。祖母と一緒に、ビュッフェのあるレストランで飲んだんです。でも、これはあの時の味とは少し違うような気がするんです…」
店員は身を乗り出して女の話を聞いていた。
「さっきも違う店に行ったんです。あのトマトティーを飲んだお店と同じような、ビュッフェのあるレストランで、あのトマトティーを注文したんです。まるであの日に還ったみたいだった…。
でも、なぜか同じ味がしなかったんです。色も香りも全く同じ液体だったのに、どこかが違うんです。どうしてなんでしょう…」
女の言葉がひと段落したのを聞いて、店員ははきはきとしゃべり出した。
「そうねえ。それはきっと、あなたの中に『これはわたしの思い出の味じゃない!』っていう思い込みがあるからじゃないかしら」
「どういうことですか?」
「つまりね…あなた、さっきモニターをじいっと見てたでしょう? 確かにあれは料理のできる過程をお客様にお見せするための物だけど、外から画面越しに機械を眺めるだけじゃ、そんなの分かるはずもないわ。あれはただのアトラクションよ。でもあなたはそれを熱心に見ていた。本当に自分の想像する料理が作られているのか、うたぐってたんでしょう?」
「え…いや、それは……」
「いいのよ。でもね、あなたのそのうたぐりの心が、あなた自身をだましているということはない?」
「わたし自身を、だましている?」
「そう。こんなエタイの知れない液体を組み合わせても、本物の料理が生まれるわけがない。もっと自然に還って、古き良き食事をすべきだ、って。そういう思い込みが、あなたにテイスト食を受け入れなくさせているんじゃないかしら」
「だから、再現することができない…」
「そのお茶碗に入っている飲み物は、本当はあなたの記憶のトマトティーなの。あなたの脳は、それを理解しているはず。でも、あなたの中の別の意識が、それを感情の形にしてくれないのよ。満足することを妨げてる」
女は茶碗の方にぼうっと目を落とし、こくこくと首を揺らしていた。
花盛りの丘を登り切って、藁ぶき屋根を見上げた。古民家風の店の外観はかつてと変わらずそこにあって、その足元をくさむらが取り囲んでいる。女が木戸の入口を押すのに手間取っていると、中から店員が開けてくれた。
「すみません」
「いえ、一名様ですね」
店員は女を席に誘導しようとしていた。
「あの、ここはプロジェクションはないんですか? 矢印の…」
「ああ、うちは昔ながらの飲食店のスタイルをテーマにしていましてね。お客様の誘導も私が行っているんです」
「そうなんですか」
女の席は、女が祖母とトマトティーを飲んだ時と同じ、窓側のテーブルだった。そこへどこからか茶色のイヌがかけてきて、女の胸に跳び込んだ。
「あら、かわいいイヌ」
イヌは女にくしゃくしゃなでられて、頭を振っている。店員はそれを見て、素の笑顔を浮かべて言った。
「その子は私のペットなんです」
しかしイヌはすぐに、来た時と同じように突然女のひざから降りて、向こうへ行ってしまった。
女はそこで店員に向き直って、ぽつぽつと語り始めた。
「わたし、前にも一度、ここへ来たことがあるんです…」
その時はまだ、女の祖母は存命だった。その上、かくしゃくとしていた。おばあちゃんっ子だった女は、祖母に連れられてこの丘にハイキングに出かけ、このレストランで好きな物を何でも食べさせてもらった。今は撤去されている店の中心の大テーブルは、ビュッフェのメニューがぎゅうぎゅうに敷きつめられていて、二人は種々雑多に料理をプレートに盛っていった。席に戻って来た祖母のプレートを見て、女はその中のアクアパッツァに興味を示した。祖母はカトラリーを不器用に使って、白身魚や小えびをいくつか、女のプレートに移してくれた。ところが、ミニトマトをすくっている最中にナイフがゆれて、トマトは祖母の紅茶の中にとぷんと落ちてしまったのだ。二人はそれを見てどっと笑い、女が提案して、紅茶をそのまま飲んでみようということになった。女は嫌がる祖母を前に駄々をこねて、祖母に紅茶を飲ませた。すると祖母は思いのほか美味しいと言って、女も半信半疑に飲んだところ、フルーティーな味がして、驚かされた。二人は「トマトティーの発明だ」と、その場で手を叩いて喜び合った。
「トマトティー……懐かしい響きですね…」
「はい。
…あの頃からなんですよね、人工知能が食文化を変えてしまったのは」
「テイスト調理機の第一号で最初に再現されたのが、トマトティーでした。もともと人工知能を用いたフードペアリング研究で、トマトと紅茶のマリアージュは早くから知られていたんです」
「でも、わたしにとっては、トマトティーは祖母とわたしの共同開発なんです。先端科学なんて知らない、幼いわたしと祖母の、偶然の産物です。機械なんかには頼ってない。そう思ってるから、テイストを受け入れられないのかもしれない…というようなことを、さきほど言われてしまって」
「あなたはそのトマトティーをもう一度飲むために、ここへいらっしゃったんですね」
「そうです。本当は近場の店で飲もうと思っていたのですけれど、そこのは味が違ったんです。次の店も、何かがしっくり来なかった…。けれどここなら、あの日と同じ場所で、あの日と同じ席で飲めば、きっと同じ味がするんじゃないか、って…。
あれが祖母との一番の思い出なんです。無理を申し上げているのは分かっていますの。でも、またあの紅茶と、あのアクアパッツァを作ってくだされば…」
その時、厨房の方で電子レンジのタイマーのような音がして、店員は店の奥に引っ込んでいった。少ししてまた現れた店員は、紅茶を淹れたマグカップを手にしていた。
「できますよ。この通りです」
女は目を丸くして、テーブルに置かれたカップを覗きこんだ。
店内には落ち着いたバラッドが、ふわふわと流れている。
「……これ…まさか、テイストで作ったの?」
「もちろんですとも。今やテイストを使わないレストランはありえません。もともと専門店だったところも、外・内装はさておき料理に関しては、他店と同じ機能を持つ同一の施設です。うちも『昔ながら』と申し上げましたが、お客様が行かれた二軒のお店と違ったことは、何一つできないんです。私はアクアパッツァを作ることも、紅茶を淹れることもできません。飲食店は人が料理を作る場所ではなくなったのです。
あのイヌは、せめて親しみやすいウェイターロボットをということで、知り合いのエンジニアに作ってもらったものです。お客様がイヌと触れ合っている間に、注文が済んでしまう仕組みになっています」
「いえ、分かっていたんです…それは…。
でも、あなたの話を聞いているうちに、ここはまだそうなっていないような気がしていたんです。ここは、まだ…」
女はばつが悪そうに俯いた。白磁のカップに入った紅樺色の混合液は、テーブルに置かれた時の衝撃でまだ揺れているかに見えた。
「お客様がいらっしゃった頃のスタッフは、皆もう散り散りになっているはずです。当時の店長も亡くなっており、その息子さんは家庭用テイスト調理機の開発プロジェクトに携わっていると、聞いたことがあります」
黒塗りの直方体を見下ろして、女は男の話に耳を傾けていた。
「いや、これはまだ試作品なんですけどね。
現在世の中に出回っている機械って、業者用でしょう。あれを例えばラーメン屋の券売機みたいに、客がセルフサービスで使えるようにしてしまうと、色んなデータが送られちゃうんですよ。機械の前に集まった客が想像したものが、何でも作られてっちゃう。それだとさすがにアナーキーなことになっちゃうだろうってことで、ウェイターロボットがあるんですよ。客の想像を確定する段階で、ワンクッション置くんです。だからあの機械って、ウェイターが送信したデータしか受け付けないんですよ。ほんとは技術的には、ウェイターロボットの想像認識機能を調理機に組み込むことはできるんですけどね。こういうふうに」
女は、男が指し示した箱型の突起に額を寄せる。それは直方体の機械の想像認識部位であり、認識が完了すると赤く光るという点は、ウェイターロボットと同じだった。
「こっちは食を豊かにすると思って研究しているわけですから、ご希望に沿えない製品があったと聞いて黙ってはいられませんよ。その最初の店の店員の方の言葉は無視してください。今日、味覚は科学的に体系化されたものなんです。曖昧なはずがない」
その男――女の思い出の店の元店長の息子が携わるプロジェクトチームに所属する科学者――は憤った。
「結局あのお店で出されたトマトティーも、私の記憶の味とは違いました……。同じお店の同じ席で、同じものを飲んだはずなのに。やっぱり、テイスト料理だと知ってしまったのがいけなかったのでしょうか…」
「確かに心理的要因という可能性はあるでしょうが、我々も業務用製品の実用化の前に、何度も検証実験を重ねてますからねえ。そんなことで味覚が変化するというのは、正直考えられません。この家庭用調理機は、こうして事前に登録した人に関しては『セルフサービス』ができるようにするということで、ロボットを介さないわけですけど、別にそれが違いを生むことはないですし」
直方体の中で頻繁に、液体のはねる音がする。窓がついていないのは改良中の段階だからだと、男が言い添える。
「すみませんね、お目当ての方じゃなくて。彼は研究職じゃなくてただの料理人ですから、いつもこの大学にいるわけじゃないんですよ」
「いえ、構いません。その息子さんが当時の料理を再現できる保証もありませんもの」
「弱気になってはいけませんよ。
…しかし、なぜ今になってそのトマトティーを飲みたいとお思いに?」
男は家庭用調理機をいじりながらたずねた。
「一つのドリンクのために、三軒も練り歩いたんでしょう?
近場に店ができたから、というだけなんですか」
女ははにかんだ。
「…むしろ、行きたくないという気持ちの方が強かったのだと思います。意地を張っていたんです。でも、いざテイストレストランが自宅の目と鼻の先にオープンしたら、ここに来ればまたあれが飲めるんだ、と余計に意識してしまって…」
スプレー塗装の、さらさらとした音が鳴っている。
天井の空調はオンになっているはずだが、動きが止まっているようだった。
「そう…きっと、期待というよりも、期待はずれであることを望んでいたんです。うまく再現されなければ、それはそれで、思い出を守ることができますから…。
それなのに、実際に期待はずれだったことが分かった瞬間、今度は逆に、強烈なさびしさが襲ってきたんです。もうトマトティーを飲むことはできない。風船のしぼむように…虚しかったんです……。
たぶん、理不尽にも心のどこかで、テイストがトマトティーを再現してくれることを確信していたんです、わたし……」
その時、調理機の引き出しが飛び出してきて、紅樺色に染まったビーカーが現れた。
「さあ、できました…」
男が女を促して立ち上がる。色水は上背のある容器に溜められ、今までの三軒のものの半分の量も入っていないかに見える。女はビーカーを両手で包んで、注ぎ口にくちびるをつけてそれを傾けた。透明の壁をなぞりながら、液体は鮮やかに自らを照らしている。女が、一度も来たことのない大学の研究室で、壁際に置かれた機械の方を向き、食器でもない物に入った、トマトティーを飲んだ。
「いかがですか?」
ビーカーを持ったまま、女はしばらくじっとしていた。
「………」
空調の稼働音が、いつのまにか復活している。女の手の中で、ビーカーがふるえていた。
「…これです…この味です………」
女は、唇を開いたままで、そう声を発した。
その手指は互いの隙間をうめるように閉じていき、てのひらが、ビーカーに強く圧着している。
女の目は部屋の壁ではなく、もっと遠くのどこかを見ていた。
「実はですね、タネも仕掛けもあるんですよ、それ」
男が机の中から、一本のプラスチック容器を取り出した。
女はいまだに信じられない様子で、そちらにゆっくりと、顔を向ける。
【一日サプリ】
容器の側面にそう書いてあった。
「これは…」
女の口がさらに大きく開く。
「機械を作動させた後、ビーカーの中にこっそりこれを入れさせていただきました。ああ、一錠を粉末にして、それもごくごく少量混ぜただけですからご安心ください」
女の耳に、最初の二軒の店のモニターから流れていたアナウンスの一部が反響した。
〈かつては個々の食材の栄養価が注目されていましたが、テイストで飲食物を作るようになってからは、そのようなことはなくなりました。全ての料理がテイストから生まれる以上、何を飲食したとしても、テイストしか摂取することができません。ここでテイストに栄養素が含まれていた場合、全ての料理の栄養価が同質ということになります。すると食事の積み重ねの結果として、ある栄養素は過剰に摂取し、ある栄養素は不足するという事態が、容易に起こり得るのです〉
「丘を登ってハイキングをしたというお話を聞いて、もしやと思ったんです。歩いて疲労した身体に、栄養のある飲み物は沁みたでしょうから。それで味が変わることはないとされていますが、身体的感覚に訴えるところとしては、大きな要因です」
〈ですからテイストには、栄養素が全く含まれておりません。
その代わり国民は、国の支給する栄養サプリを一日一粒摂取することが義務付けられています。この「一日サプリ」は、一粒で一日分の栄養が全て賄える食品で、サプリ以外からの栄養摂取は原則禁止されています。
テイスト食は舌を肥やすための嗜好であり、生命維持とは一切関係ないことにご留意ください〉
「どうしてこんな、簡単なことに気づかなかったの…」
女は呆然として呟いた。
そう、目の前にあるのは、今朝も口に入れてきたはずのサプリなのだ。毎朝仕事に出かける前に、あるいは休日ならジムに行く前に、何の気なしに戸棚を開けてフタを回し、一粒取って口に放りこんでいる物。美味しい味のするものだけを食べ物だと思っていた女にとって、それは食品の範疇どころか、意識の内にすらなかった。その事実は、女がテイストを拒否していたのではなかっただけでなく、女自身が懐かしんでいた従来の食の形をすでに脱却してしまっていることを、意味しているのだ。
女は、店々をはしごしてきた自分の両脚が木の枝のように硬化して、痛むのを感じた。そして初めて、自分がこの日、サプリで摂取した以上のエネルギーを使っていたことを知った。
「テイスト食の時代において、栄養摂取はその程度の行為だということなんですなあ」
放心している女の横で、男が天井を見上げて言った。
女は一息ついて店内を見回し、他の客のテーブルに置かれた様々の料理を観察し始める。白い皿の上に建つオレンジ色のクリスマスツリーの断面に、雛あられがぎっしりと詰まっている。真っ青のピザには、ハムスターの形のいちごがふんだんに盛られている。猪の頭をした魚の煮つけが、ビールのような液体の中に漬けられている。
かつてビュッフェに使われていた大円卓が、女の目に留まった。天板から太い柱が上に向かって伸びていて、その先に取り付けられた大きなモニターが、柱を軸に緩慢なスピードで回転している。モニターには実験室のような簡素な暗室が映し出され、先ほどのロボットが、その部屋の壁に固定された幅のある機械の前にいた。機械に設けられた無数の窓のうちのいくつかが発光したところを、女は食い入るように見つめていた。
モニターからは、機械音声のナレーションが流れている。
〈人工知能を利用して食材の相性を研究するフードペアリング理論は、味覚の体系化を完成させた頃からさらなる応用へ飛躍しました。それぞれの味覚は、その味だけを持つ液体である「テイスト」として具現化され、各テイストの調合と成形が、それまでの料理の概念に取って代わったのです。
美味しい飲食物を作るためには、必要なテイストを選び出し、ピコグラム単位まで分量を計算してそれらを混合し、3Dプリンターによって塗色や凝固を施すだけでいい。「だけでいい」というのも、これらの作業は全て人工知能が行うため、人間の料理人はもはや必要ないのです。モニターに映っている機械はこの「調理器具」であり、暗室はさしずめ「厨房」であります。テイストの容器は機械の中に格納されていますが、機械には容器の側面が見えるように、テイストの数だけ窓が開いています〉
複数の窓の奥で流れ出したテイストは、それぞれ機械の中を通って3Dプリンターで合流する。3Dプリンター内に置かれているティーカップに各液体が注がれて、加熱と同時に液体への塗装が始まる。凝固の工程はなく、加熱が終了して3Dプリンターの内部が暗転すると、すかさずロボットがティーカップを取り出して走り出した。
女はモニターから目を離し、ティーカップを持ってやってくるロボットを迎えた。ロボットのアームからカップを持ち上げてテーブルに置き直し、液体の表面を覗きこむ。そして深淵に吸われるように、紅樺色の液体を口にした。女は少しの間その味を確かめていたが、手元のボタンを押して店員を呼びつけたので、周りの客達がぎょっとした様子で振り返った。
「何かお困りでしょうか?」
店員はおどおどした目つきで女を見上げた。女は液体で喉を濡らしているので、いささか声の通りがよかった。
「いえ、大したことじゃないんです…。わたし、さっきこのトマトティーを注文したんです。注文、と言っていいのかしら…」
「ええ、ええ、もちろん。トマトティーを想像なさった、と」
「ええ。それで、大変申し上げにくいんですけれど、わたし、子供の時に飲んだトマトティーがまた飲みたくなって。それで家の近くにもテイストレストランがオープンしたって聞いて、ここならそれを再現して頂けるかもしれないと思って…」
「なるほど、そういうことでございますか」
周囲の客達は二人の会話を盗み聞きして、時折「今時、再現だなんて」「物好きな人もいるもんだ」と囁き合っている。
「でも、なんていうか、この飲み物は、あの時のトマトティーとは違う感じがするんです。何かが、違うんです。うまく説明できないのですけれど…」
店員はそれを聞いて、あからさまに困った顔つきをした。
〈テイスト技術の実現によって、食材を自然界に求めることはなくなりました。テイストの使い方次第で無数の食品を作ることができるので、動植物に由来する従来の食材、およびそれらを使った料理も既にテイストで再現されており、現在の食文化は、未知の料理の創作の段階に入っているのです。
しかしテイスト調理機は未だ高価であり、一般家庭への普及は当面先となる見通しです。飲食店は、わたしたち農林水産省の定めた規格に従ってテイスト料理を提供する「テイストレストラン」に画一化され、味の保証は確実なものとなりました。店は皆様の希望する料理を提供するために、ウェイターロボットを使い始めました。客が来店すると、ロボットが客の脳を調べて、客の望む料理をデータ化して記録します。そのままロボットは「厨房」に行って機械にデータを送信し、機械はそのデータに従って「料理」を始めるのです。このため客は自身が考案した料理を自身が希望する味で注文することができ、皆様の飲食店の利用は、テイスト料理研究の後押しに繋がります。もちろん、想像を形にするのですから、過去に食した料理を想起して注文することも可能です〉
「では、もう一度ご注文されたらいかがでしょう?
今ウェイターを連れてきますんで」
「でも、待ってください」
店員はロボットのリモコンを取り出しかけたまま、制止させられた。
「ウェイターロボットは、客の想像している料理を一度でデータ化できるはずです。たとえ完璧な記憶でなくても、見た目と味がちぐはぐでも、これだけの創作料理を問題なく作っている…。だから店には人間の店員が一人しかいなくて、それも機械の故障を直すためにいらっしゃるのだと…」
女は再び他の客達の皿を見渡した。
「ですからなぜ、まして飲んだことのあるトマトティーが再現されないのか、不思議でならないんです」
店員はせわしく目を泳がせて、それから嫌に丁重な笑顔を作った。
「それはお客様、味覚というのはそもそもからして曖昧なものでございます。全く同じものを食べたからといって、それらを違うものだと認識してしまうことがないとは言えない。逆に、違うものを食べても同じものだと思う方はいらっしゃいます。そこにはまた様々な要因があるわけで…」
「あくまでわたしのせいにするのね…。
分かりました、他を当たります」
女は席を立つと、身を翻して店を後にした。
雷紋の電光看板を見上げて、女はその店の前に立った。中の様子を伺っていると、自動ドアが女を感知して開いてしまい、矢印の映像が入口付近の床に投影されている。店に入ることに決めて、矢印についていくと、誘導されたのはまたしても窓側の席だった。そこへ赤い衣裳をつけたロボットがせかせかと近づいてきたので、右側のボタンを押して眼球に顔を寄せ、注文を認識したことを確認して返した。
周りの人間は皆、見たこともない食べ物を食べ、奇異な飲み物を飲んでいた。墨色の刺身を頬ばりながら、細長い林檎のようなものをかじる者がいた。二層の液体がプルームのように対流するサイダーが見えた。なじみのサプリメントに似た球体を、三つだけ乗せた皿もあった。
壁際のターンテーブルは使われておらず、天板から生えた柱の先にモニターが取り付けられている。それは店内に、さきほどの店と同じナレーションを垂れ流していた。女はやはりそれを真剣に見つめた。
やがてロボットが、茶碗を支えて移動してきた。女はロボットのアームからそれを受け取って、紅樺色の湖面を覗きこむ。先ほどの店で出されたものと、同じ色だった。当たり前である。同じメーカーの機械の、同じ位置の窓が光るところを、モニターで見たばかりなのだ。女は茶碗の中身を一口すすって、虚空を眺めた。そのまま茶碗をテーブルにゆっくりと置いていたが、店内を歩いている店員を発見すると、すぐに手を挙げてつかまえた。
「わたし、このトマトティーを注文したんです。昔ハイキングの途中で飲んだ、思い出の味…それをまた飲みたくて、あのトマトティーを思い浮かべたんです。祖母と一緒に、ビュッフェのあるレストランで飲んだんです。でも、これはあの時の味とは少し違うような気がするんです…」
店員は身を乗り出して女の話を聞いていた。
「さっきも違う店に行ったんです。あのトマトティーを飲んだお店と同じような、ビュッフェのあるレストランで、あのトマトティーを注文したんです。まるであの日に還ったみたいだった…。
でも、なぜか同じ味がしなかったんです。色も香りも全く同じ液体だったのに、どこかが違うんです。どうしてなんでしょう…」
女の言葉がひと段落したのを聞いて、店員ははきはきとしゃべり出した。
「そうねえ。それはきっと、あなたの中に『これはわたしの思い出の味じゃない!』っていう思い込みがあるからじゃないかしら」
「どういうことですか?」
「つまりね…あなた、さっきモニターをじいっと見てたでしょう? 確かにあれは料理のできる過程をお客様にお見せするための物だけど、外から画面越しに機械を眺めるだけじゃ、そんなの分かるはずもないわ。あれはただのアトラクションよ。でもあなたはそれを熱心に見ていた。本当に自分の想像する料理が作られているのか、うたぐってたんでしょう?」
「え…いや、それは……」
「いいのよ。でもね、あなたのそのうたぐりの心が、あなた自身をだましているということはない?」
「わたし自身を、だましている?」
「そう。こんなエタイの知れない液体を組み合わせても、本物の料理が生まれるわけがない。もっと自然に還って、古き良き食事をすべきだ、って。そういう思い込みが、あなたにテイスト食を受け入れなくさせているんじゃないかしら」
「だから、再現することができない…」
「そのお茶碗に入っている飲み物は、本当はあなたの記憶のトマトティーなの。あなたの脳は、それを理解しているはず。でも、あなたの中の別の意識が、それを感情の形にしてくれないのよ。満足することを妨げてる」
女は茶碗の方にぼうっと目を落とし、こくこくと首を揺らしていた。
花盛りの丘を登り切って、藁ぶき屋根を見上げた。古民家風の店の外観はかつてと変わらずそこにあって、その足元をくさむらが取り囲んでいる。女が木戸の入口を押すのに手間取っていると、中から店員が開けてくれた。
「すみません」
「いえ、一名様ですね」
店員は女を席に誘導しようとしていた。
「あの、ここはプロジェクションはないんですか? 矢印の…」
「ああ、うちは昔ながらの飲食店のスタイルをテーマにしていましてね。お客様の誘導も私が行っているんです」
「そうなんですか」
女の席は、女が祖母とトマトティーを飲んだ時と同じ、窓側のテーブルだった。そこへどこからか茶色のイヌがかけてきて、女の胸に跳び込んだ。
「あら、かわいいイヌ」
イヌは女にくしゃくしゃなでられて、頭を振っている。店員はそれを見て、素の笑顔を浮かべて言った。
「その子は私のペットなんです」
しかしイヌはすぐに、来た時と同じように突然女のひざから降りて、向こうへ行ってしまった。
女はそこで店員に向き直って、ぽつぽつと語り始めた。
「わたし、前にも一度、ここへ来たことがあるんです…」
その時はまだ、女の祖母は存命だった。その上、かくしゃくとしていた。おばあちゃんっ子だった女は、祖母に連れられてこの丘にハイキングに出かけ、このレストランで好きな物を何でも食べさせてもらった。今は撤去されている店の中心の大テーブルは、ビュッフェのメニューがぎゅうぎゅうに敷きつめられていて、二人は種々雑多に料理をプレートに盛っていった。席に戻って来た祖母のプレートを見て、女はその中のアクアパッツァに興味を示した。祖母はカトラリーを不器用に使って、白身魚や小えびをいくつか、女のプレートに移してくれた。ところが、ミニトマトをすくっている最中にナイフがゆれて、トマトは祖母の紅茶の中にとぷんと落ちてしまったのだ。二人はそれを見てどっと笑い、女が提案して、紅茶をそのまま飲んでみようということになった。女は嫌がる祖母を前に駄々をこねて、祖母に紅茶を飲ませた。すると祖母は思いのほか美味しいと言って、女も半信半疑に飲んだところ、フルーティーな味がして、驚かされた。二人は「トマトティーの発明だ」と、その場で手を叩いて喜び合った。
「トマトティー……懐かしい響きですね…」
「はい。
…あの頃からなんですよね、人工知能が食文化を変えてしまったのは」
「テイスト調理機の第一号で最初に再現されたのが、トマトティーでした。もともと人工知能を用いたフードペアリング研究で、トマトと紅茶のマリアージュは早くから知られていたんです」
「でも、わたしにとっては、トマトティーは祖母とわたしの共同開発なんです。先端科学なんて知らない、幼いわたしと祖母の、偶然の産物です。機械なんかには頼ってない。そう思ってるから、テイストを受け入れられないのかもしれない…というようなことを、さきほど言われてしまって」
「あなたはそのトマトティーをもう一度飲むために、ここへいらっしゃったんですね」
「そうです。本当は近場の店で飲もうと思っていたのですけれど、そこのは味が違ったんです。次の店も、何かがしっくり来なかった…。けれどここなら、あの日と同じ場所で、あの日と同じ席で飲めば、きっと同じ味がするんじゃないか、って…。
あれが祖母との一番の思い出なんです。無理を申し上げているのは分かっていますの。でも、またあの紅茶と、あのアクアパッツァを作ってくだされば…」
その時、厨房の方で電子レンジのタイマーのような音がして、店員は店の奥に引っ込んでいった。少ししてまた現れた店員は、紅茶を淹れたマグカップを手にしていた。
「できますよ。この通りです」
女は目を丸くして、テーブルに置かれたカップを覗きこんだ。
店内には落ち着いたバラッドが、ふわふわと流れている。
「……これ…まさか、テイストで作ったの?」
「もちろんですとも。今やテイストを使わないレストランはありえません。もともと専門店だったところも、外・内装はさておき料理に関しては、他店と同じ機能を持つ同一の施設です。うちも『昔ながら』と申し上げましたが、お客様が行かれた二軒のお店と違ったことは、何一つできないんです。私はアクアパッツァを作ることも、紅茶を淹れることもできません。飲食店は人が料理を作る場所ではなくなったのです。
あのイヌは、せめて親しみやすいウェイターロボットをということで、知り合いのエンジニアに作ってもらったものです。お客様がイヌと触れ合っている間に、注文が済んでしまう仕組みになっています」
「いえ、分かっていたんです…それは…。
でも、あなたの話を聞いているうちに、ここはまだそうなっていないような気がしていたんです。ここは、まだ…」
女はばつが悪そうに俯いた。白磁のカップに入った紅樺色の混合液は、テーブルに置かれた時の衝撃でまだ揺れているかに見えた。
「お客様がいらっしゃった頃のスタッフは、皆もう散り散りになっているはずです。当時の店長も亡くなっており、その息子さんは家庭用テイスト調理機の開発プロジェクトに携わっていると、聞いたことがあります」
黒塗りの直方体を見下ろして、女は男の話に耳を傾けていた。
「いや、これはまだ試作品なんですけどね。
現在世の中に出回っている機械って、業者用でしょう。あれを例えばラーメン屋の券売機みたいに、客がセルフサービスで使えるようにしてしまうと、色んなデータが送られちゃうんですよ。機械の前に集まった客が想像したものが、何でも作られてっちゃう。それだとさすがにアナーキーなことになっちゃうだろうってことで、ウェイターロボットがあるんですよ。客の想像を確定する段階で、ワンクッション置くんです。だからあの機械って、ウェイターが送信したデータしか受け付けないんですよ。ほんとは技術的には、ウェイターロボットの想像認識機能を調理機に組み込むことはできるんですけどね。こういうふうに」
女は、男が指し示した箱型の突起に額を寄せる。それは直方体の機械の想像認識部位であり、認識が完了すると赤く光るという点は、ウェイターロボットと同じだった。
「こっちは食を豊かにすると思って研究しているわけですから、ご希望に沿えない製品があったと聞いて黙ってはいられませんよ。その最初の店の店員の方の言葉は無視してください。今日、味覚は科学的に体系化されたものなんです。曖昧なはずがない」
その男――女の思い出の店の元店長の息子が携わるプロジェクトチームに所属する科学者――は憤った。
「結局あのお店で出されたトマトティーも、私の記憶の味とは違いました……。同じお店の同じ席で、同じものを飲んだはずなのに。やっぱり、テイスト料理だと知ってしまったのがいけなかったのでしょうか…」
「確かに心理的要因という可能性はあるでしょうが、我々も業務用製品の実用化の前に、何度も検証実験を重ねてますからねえ。そんなことで味覚が変化するというのは、正直考えられません。この家庭用調理機は、こうして事前に登録した人に関しては『セルフサービス』ができるようにするということで、ロボットを介さないわけですけど、別にそれが違いを生むことはないですし」
直方体の中で頻繁に、液体のはねる音がする。窓がついていないのは改良中の段階だからだと、男が言い添える。
「すみませんね、お目当ての方じゃなくて。彼は研究職じゃなくてただの料理人ですから、いつもこの大学にいるわけじゃないんですよ」
「いえ、構いません。その息子さんが当時の料理を再現できる保証もありませんもの」
「弱気になってはいけませんよ。
…しかし、なぜ今になってそのトマトティーを飲みたいとお思いに?」
男は家庭用調理機をいじりながらたずねた。
「一つのドリンクのために、三軒も練り歩いたんでしょう?
近場に店ができたから、というだけなんですか」
女ははにかんだ。
「…むしろ、行きたくないという気持ちの方が強かったのだと思います。意地を張っていたんです。でも、いざテイストレストランが自宅の目と鼻の先にオープンしたら、ここに来ればまたあれが飲めるんだ、と余計に意識してしまって…」
スプレー塗装の、さらさらとした音が鳴っている。
天井の空調はオンになっているはずだが、動きが止まっているようだった。
「そう…きっと、期待というよりも、期待はずれであることを望んでいたんです。うまく再現されなければ、それはそれで、思い出を守ることができますから…。
それなのに、実際に期待はずれだったことが分かった瞬間、今度は逆に、強烈なさびしさが襲ってきたんです。もうトマトティーを飲むことはできない。風船のしぼむように…虚しかったんです……。
たぶん、理不尽にも心のどこかで、テイストがトマトティーを再現してくれることを確信していたんです、わたし……」
その時、調理機の引き出しが飛び出してきて、紅樺色に染まったビーカーが現れた。
「さあ、できました…」
男が女を促して立ち上がる。色水は上背のある容器に溜められ、今までの三軒のものの半分の量も入っていないかに見える。女はビーカーを両手で包んで、注ぎ口にくちびるをつけてそれを傾けた。透明の壁をなぞりながら、液体は鮮やかに自らを照らしている。女が、一度も来たことのない大学の研究室で、壁際に置かれた機械の方を向き、食器でもない物に入った、トマトティーを飲んだ。
「いかがですか?」
ビーカーを持ったまま、女はしばらくじっとしていた。
「………」
空調の稼働音が、いつのまにか復活している。女の手の中で、ビーカーがふるえていた。
「…これです…この味です………」
女は、唇を開いたままで、そう声を発した。
その手指は互いの隙間をうめるように閉じていき、てのひらが、ビーカーに強く圧着している。
女の目は部屋の壁ではなく、もっと遠くのどこかを見ていた。
「実はですね、タネも仕掛けもあるんですよ、それ」
男が机の中から、一本のプラスチック容器を取り出した。
女はいまだに信じられない様子で、そちらにゆっくりと、顔を向ける。
【一日サプリ】
容器の側面にそう書いてあった。
「これは…」
女の口がさらに大きく開く。
「機械を作動させた後、ビーカーの中にこっそりこれを入れさせていただきました。ああ、一錠を粉末にして、それもごくごく少量混ぜただけですからご安心ください」
女の耳に、最初の二軒の店のモニターから流れていたアナウンスの一部が反響した。
〈かつては個々の食材の栄養価が注目されていましたが、テイストで飲食物を作るようになってからは、そのようなことはなくなりました。全ての料理がテイストから生まれる以上、何を飲食したとしても、テイストしか摂取することができません。ここでテイストに栄養素が含まれていた場合、全ての料理の栄養価が同質ということになります。すると食事の積み重ねの結果として、ある栄養素は過剰に摂取し、ある栄養素は不足するという事態が、容易に起こり得るのです〉
「丘を登ってハイキングをしたというお話を聞いて、もしやと思ったんです。歩いて疲労した身体に、栄養のある飲み物は沁みたでしょうから。それで味が変わることはないとされていますが、身体的感覚に訴えるところとしては、大きな要因です」
〈ですからテイストには、栄養素が全く含まれておりません。
その代わり国民は、国の支給する栄養サプリを一日一粒摂取することが義務付けられています。この「一日サプリ」は、一粒で一日分の栄養が全て賄える食品で、サプリ以外からの栄養摂取は原則禁止されています。
テイスト食は舌を肥やすための嗜好であり、生命維持とは一切関係ないことにご留意ください〉
「どうしてこんな、簡単なことに気づかなかったの…」
女は呆然として呟いた。
そう、目の前にあるのは、今朝も口に入れてきたはずのサプリなのだ。毎朝仕事に出かける前に、あるいは休日ならジムに行く前に、何の気なしに戸棚を開けてフタを回し、一粒取って口に放りこんでいる物。美味しい味のするものだけを食べ物だと思っていた女にとって、それは食品の範疇どころか、意識の内にすらなかった。その事実は、女がテイストを拒否していたのではなかっただけでなく、女自身が懐かしんでいた従来の食の形をすでに脱却してしまっていることを、意味しているのだ。
女は、店々をはしごしてきた自分の両脚が木の枝のように硬化して、痛むのを感じた。そして初めて、自分がこの日、サプリで摂取した以上のエネルギーを使っていたことを知った。
「テイスト食の時代において、栄養摂取はその程度の行為だということなんですなあ」
放心している女の横で、男が天井を見上げて言った。
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