一寸先は闇 春夏の特別編

北瓜 彪

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茶柱

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 多少の風では音も立てない木訥の茂みの緑の中に、擬態するかの如くその茶室はあった。
 よく茶室は小宇宙に喩えられるが、それはつまり自らと自らの周りのもの全てが茶室という狭い空間に押し込められ、凝縮されているように感じることでもあり、その窮屈さと無縁ではないだろう。カマタはこの緊張の中、そんな思索に身を委ねていた。
 窮屈さ、そして緊張感の濫觴は明らかであり、而るにそれはこの茶室ではなく、今、カマタの目の前に座っているオンダ部長であった。取引先の部長といえど、取引先の部長である。あちらにとっては若くて趣味に誘いやすい小僧なのかもしれないが、こちらにとっては大事な取引先様様その部長様様である。「2人で侘茶」なんて、正直カマタはほとほと迷惑していた。「人付き合いも仕事の内」、そう思って我慢するしかないのかなァ。
 「おい君、茶碗は、時計回りに回すものだ」
 ボーッとしていたら、すかさずオンダ部長の指摘が入った。
 驚いて茶碗を落としそうになるのをとっさに受け止め、少し遅れてひやりとした感触がカマタの体をはい上がる。
 いかんいかん。震える唇で小さく唱えるのがやっとで、カマタはこの全宇宙の大気圧に押し潰されそうな気持ちになった。
 あぁ、早くこの溢れんばかりの緊張感を湛えた茶室から逃げ出したい。しかし茶室の戸は、正に今の自分の状況を体現するかのように、小さく、ちいさくあるのみである。
 カマタは、ゴクリと唾を飲み込んでから、茶碗の中へ目を向けた。そこにーーするとーー何とも信じがたいものが沈んでいた。
 いや、沈んでいたのではない。立っていたのだ。そこには、抹茶の緑よりさらに濃い色をした、ミニチュアのエッフェル塔が、先端を液面の外に出してしっかりと直立していたのである。
 「おいカマタくん、どうかしたのかね。お茶は嫌いかね?」
今さら聞いても遅いだろ、と思いながら、カマタはしかし茶碗の中のエッフェル塔に目が釘付けになっていた。何だこれは。こんな非日常的なモノがこの場にあってはいけない。という本能的な部長への思慮がはたらいて、カマタはすぐさま茶碗を傾け茶をすすった。
 「お、おいしいです……」
「そうかそうか。良かった良かった。私も君とこういう場で共に時間を過ごせてとても嬉しいよ」
はにかみながら、いや、苦笑しながらカマタは自分の茶碗を見た。やはりエッフェル塔はまだ中にある。少し飲み口に近づいた気がする。茶碗を傾ければそちらに動く。つまりこれは、夢ではないのだ。
 あぁ、このエッフェル塔のみならず、今自分がここにいるという事実さえも、全て夢だったらいいのに。
 そう考えたそのさなか、この状況を思い直して、場の空気を変えられるやもしれないことに気がついた。
 カマタはおそるおそるの心持ちで、久方ぶりに自らすすんで声を発した。
 「あの、部長、僕の茶碗の中なんですが……」
 「ん?どうした。何か変なモノでも入っていたか」
 「はい、それが……」
 そう言ってカマタは思い切って自分の茶碗を部長の方へ傾けた。
 部長は初め、訝しげな表情で中を覗いていたが、突然はっとそれを見つけた。
 「何か……何か沈んでいるな……。
 いや、これは大きい……東京タワーか……エッフェル塔……?」
 「そう、そうなんです! これはエッフェル塔の形をした茶柱なんです!」
 カマタはそこでとっさにそう言った。部長に奇跡が起こったことにして、さらに幸運を呼ぶ茶柱にこじつけることで、部長をご機嫌にすることが、今の自分にはできると思い当たったのである。
 「エッフェル塔の形の茶柱……?」
「そうです、そうなんです!茶道にエッフェル塔なんて不似合いかもしれませんが、これはきっと何かの幸運の兆しですよ、きっと!」
言ってから、「エッフェル塔」、ではなく「東京タワー」の方が良かったのかもしれないと思った。それからこれが自分ではなく、部長の茶碗で起こればもっと良かったのかもしれないとも思った。いずれもかすかな思いつきだった。前言はもう部長の耳の中で、翻すことはできなかった。
 「エッフェル塔の形の茶柱? 
 いやぁ、私はそんなことは信じられないよ。
 玉虫厨子の形の茶柱や、銀閣の形の茶柱ならともかく、エッフェル塔だなんて……」
君、私は信じられないよ。そう言うと部長は自分から切り上げて、さっきまであんなに固く閉じていた茶室の戸をするりと開けて外へ出ていってしまった。

 呆気にとられていたカマタが、どっと聞こえてきた風の音に我に返って茶碗を見やると、傾け過ぎた茶碗の中で、エッフェル塔が形を崩していた。恐らく茶碗の側面に当たったため壊れてしまったのだろう。
 根元のみ原形を留めたそれは、もはやエッフェル塔にも東京タワーにもまるで似つかず、その足下で揺れる深緑の塵芥をぼんやり眺めながら、やはりこれは茶柱ではなかったのかもしれないと思った。しかし今の彼には、こう言うことしかできなかった。
「せっかく立っていた茶柱を倒したから、幸せが逃げていったんだ……」
 とはいえ彼にとって、部長が機嫌を損ねてから茶柱が倒れたのか、茶柱が倒れてから部長が機嫌を損ねたのかは、もう問題ではなかったのだが。



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