一寸先は闇

北瓜 彪

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第1章 赤い世界

赤い世界

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 朝起きたら、世界は赤くなっていた。
 それくらい、何気ないものだった。
 ある日突然、視界が真っ赤になったら、誰しもパニックに陥り、自分は病気なのだと思って病院に行くだろう。しかし僕は、さほどの違和感も感じなかった。まるで物心ついた時からこの世界は赤かったかのように落ち着き払っていた。
 と、こう冷静だと、誰も僕の言うことを信じてくれないかもしれない。だが僕の視界は一面赤に染まっており、それでいてそれを受け入れていたのである。何か赤いフィルターのようなものを通して見えているのなら、変なのが分かるから、僕は絶対に慌てふためいているだろう。天井を通り越した視線が捕らえた電気スタンドも、勉強机も、クローゼットも、もちろん掛け布団も、何もかも赤だった。
 とはいえ、赤い部屋を見回していると、だんだんとおかしな感じがしてきた。
 そして少しして、その正体が分かった。
 この部屋のあちこちに、赤い蛇がいたのだ。「赤い」蛇、と表現したが、よく考えてみれば、もとからこの世界は赤いのであり、であれば蛇が赤いのは当然である。蛇はどれもとぐろを巻いて、小さくなっていた。微動だにしない蛇たちの様子は、まるで周囲の水分を全部吸った漬物石のようだった。固まった蛇たちが舌を出しているのを見て、僕は恐怖を感じたが、ゆっくりとベッドを降りて、そして部屋を出た。蛇が怖いのは昨日までと同じだと思った。

 とりあえずリビングへ出てみたが、何せ色が赤一色なので、何が何だか分かったもんじゃない。朝ごはんでもと冷蔵庫を開けると、飲み物は全てケチャップに見えるし、食べ物はいよいよ見分けがつかない。ここでビンに入ったものでもあればイチゴジャムに見えるのかもしれないが、中にあるのはタッパーと皿に入った残り物と未開封の袋だけだ。おまけに、また当然のことながら、冷蔵庫自体も赤いため、今度は冷蔵庫がケチャップに見えてきた。こんな調子では、食う気が失せてきてしまった。行動する気ごと削がれたような気がする。

 試しに外に出てみると、一歩歩いてツンと血の匂いがした。外には空が広がっているわけだが、視界が赤いということは空気が赤いようなものだから、血の匂いがしてもおかしくない感じがした。しかしやっぱり終始血の匂いがするというのは気分の良いものではない。家を出て散歩をしてしまったが、もう帰ることにして、引き返そうとした、その時だった。
 前から一人の男が歩いてきた。その男はがっちりした体で、着ている警備員風の服の肩がイノシシの牙のごとく突出していた。僕は何となく不安を覚えて、声をかけてみた。
「あのぉ、ここの空気は、こんなに汚いものでしたかねぇ。」          
男は僕に気がついて、青い帽子の下からヘッドライトのような眼光を光らせた。そう、その時男の帽子は確かに青く見えたのである。今まで何もかも赤かったのに、だ。男はその見た目とは裏腹に、どこにでもいる男の声で答えた。
 「…汚い?空気がですか?何故?」
「いえ、何となくこう、血の匂いがするものですから…。」
「血の匂い?これがですか?……いえいえ、空気はもともとこういう匂いがするものですよ。何なら、私が今ここで血を流してみましょうか?」
 こう言われたので、さすがに断わろうとしたが、男は懐からさっと小刀を取り出して、あっという間に自分の腕を切りつけてしまった。
 赤い世界でまだ青く見える気がする警備員の制服が、ドバドバと流れているのが辛うじて分かる血で濡れていくのが見て取れた。
 「どうですか、私の血の匂いは。本来血というのは匂いなどしないものなんですよ。」
語りかける男に僕はいくらかの狂気を感じた。しかし男がせっかく自分の腕を傷つけて流してくれた血をそのままにするわけにもいかず、おそるおそる男の腕に顔を近づけてみた。
「どうです、血の匂いは?」
匂いを嗅いでみたが、やはり血の匂いがする。
「ええ、しますよ、血の匂いが。僕の知っている血の匂いがしますよ。」
「それはあなた、空気の匂いではありませんか?空気の匂いを、私の血の匂いと勘違いしているんですよ。」
血の匂いのする空気の中で血の匂いを嗅いでも、それが血と空気とどっちの匂いかなんて分からないじゃないか。僕はそう思ったが、特段男の腕の周りだけが血なまぐさいわけではないので、反論はできなかった。
 男は満足したようで、まだ腕から溢れる流血を止めようともしないで、どこかに去ってしまった。

 ふと辺りを見渡して、だいぶ人も増えてきたことに気づいた。誰もがあの男と同じ警備員の制服を着ている。よくよく考えてみれば、警備員なんてずっと前から、そこら中にいたではないか。こうして見ると、まだ朝で人通りも少ないからか、そこまで異様な風景ではないように思えてきた。
 彼らがいからせた肩でがっちゃがっちゃと鳴らす制服の擦れる音を聞いて、僕は何だか居ても立っても居られなくなってくる。
 ヨウシ、早速家へ帰ろう。真っ赤なクローゼットの中で、もう青くない警備員の制服が待っているはずだ。


 
  
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