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しおりを挟むそれから陽翔と慶の一時的な同居生活が始まった。両親には慶の受験が終わるまでの間、慶のマンションへと泊まらせてもらうという話は済んでいた。理由付けにかなり悩んだが、受験生である慶のために身の回りの事をしてあげたいからという少々強引な理由を話し、無事両親からの承諾を得た。
そして始まった二人の共同生活、家事全般を担うと意気込んでいた陽翔だったが、如何せん不器用な為かなり苦戦していた。掃除、洗濯などは普段は母親に任せているため勝手もわからずもたもたとしてしまう。そしてなんといっても料理が壊滅的だった。
包丁の使い方すらまともに理解していなかった陽翔にとって、料理は難関であり終始失敗続きであった。全国の母はこんなにも大変な事を毎日やっているのかと思うと本当に頭が上がらない。
それでも慶は、陽翔がいくら失敗しても笑いながらも励ましの言葉をかけてくれる。「大丈夫、食えないほどじゃねぇよ」と優しく陽翔に微笑んでくれるのだ。慶と生活することで、以前よりも慶の優しさに触れる機会が増えた。慶の優しさに触れる度、以前抱いていた罪悪感よりも別の感情に包まれていく。慶に本心を打ち明けたおかげだろうか、最近は慶の優しさを素直に受け止められ、慶といると温かい気持ちに包まれるようなのだ。
「僕買い物に行ってきますね」
「ああ、気をつけてな」
起きたばかりの慶は寝起きの目を擦りながら、陽翔の頭に手を乗せた。陽翔の好きな慶の大きな手、陽翔は緩く口角を上げ「はい」と口にした。
買い出しのためスーパーへ向かう陽翔の足取りはとても軽かった。空音の事があったというのに、とても心が安定している。写真の件だって数日経った今では生徒たちの記憶から薄れているようで、特にこれといって話題となることもなかった。
慶のおかげだ、陽翔は改めて実感するようだった。陽翔の冷えきった心を温めてくれた慶の優しさは、ジリジリと肌が焼けるような暑すぎる光ではなく、ぽかぽか柔らかくとても心地の良い温もりであった。
最寄りのスーパーへと入った陽翔は、今日の夕飯はどうしようかと頭を悩ませる。時間もかなり掛かるうえにまだ簡単なものしか作れないが、料理にも少しは慣れてきた。野菜売り場へ足を運び、今日はカレーにしようかなとじゃがいもに手を伸ばすと「陽翔?」と誰かに声をかけられる。
「神童先輩…?!」
「まさかこんな場所で会うなんて奇遇だな」
陽翔が振り向くと、そこにはカゴを片手にした彰人が立っていた。陽翔と同じく夕飯の買い出しだろうか、カゴの中をチラッと見ると、にんじんや玉ねぎなどが入っていた。
「夕飯の買い物か?」
陽翔同様にじゃがいもを手に取った彰人に「はい、今夜はカレーにしようと思って」と陽翔は口にした。
「おお、奇遇だな。俺達も今夜はカレーなんだ」
「え!そうなんですか!」
「ああ。そうだ陽翔、この後って時間あるか?お前さえ良ければ少し話がしたくてな」
彰人からの誘いに、特に断る理由もなかったため「はい、大丈夫ですよ」と陽翔は頷いた。
買い物が済んだ二人は近くのカフェへと入った。陽翔は紅茶、彰人は珈琲を注文すると、数分も経たないうちに湯気を立てたカップが目の前へと置かれる。
「この前は悪かったな」
カップを口元へ運ぼうとした陽翔の手が止まる。第一声に謝罪を口にした彰人に、陽翔は目を丸くした。
「なんの事ですか…?」
「この前お前が悠哉の家に来た時、悠哉にお前を暫く家に泊めたいと言われて俺は否定しただろ?」
「いや、それは僕も予想してましたし、悠哉に対して気がある僕みたいな男を泊めたく無い気持ちは理解できますよ」
「そういう事じゃないんだ、俺はあの時お前を少し試したんだ」
真剣な表情でそう口にした彰人の青い瞳を前に「試した…?」と陽翔は首を捻る。彰人は何を試したというのだろうか、陽翔はただ彰人の言葉を待つしか無かった。彰人は一度カップに口につけると、ふぅと息を吐いた。
「正直俺はお前と悠哉が二人で泊まろうが反対するつもりはそもそもなかった」
彰人のその一言に、陽翔は驚きのあまり言葉が出てこなかった。
「だから陽翔から悠哉の家に泊めらせてくれともう一度頼まれていたら否定せずに受け入れていた」
「…でもっ僕は悠哉に気があったんですよ?そんな男を悠哉の家に泊めることをあなたが許すはずない…」
すると「ふっ」と彰人は吹き出すと「お前は俺の事をよく知っているな」と笑って見せた。
「確かに俺以外の男と悠哉が寝泊まりする事に対して想像するだけで嫌だし許せないだろうな。ただ陽翔、お前は別なんだ。今更お前には嫉妬しない」
「え…っ?だけど僕は悠哉の事が好きだったんですよ…?それなのになんで…」
「お前は悠哉に付き合おうと言われてもその誘いには乗らずに断っただろ?」
彰人はあの日のことを言っているのだろうと陽翔は察する。悠哉に付き合おうと言われたが陽翔は断った、だってそんな情で悠哉と付き合えてもちっとも嬉しくないから。どんな状況であっても、陽翔が悠哉の誘いを受けることは無かっただろう。
「確かに僕は悠哉の誘いを断りました、だけどその事と何が関係あるんですか…?」
「つまりお前はもう完全に悠哉のことを諦めた、そう捉えることが出来るだろ?」
彰人は陽翔が悠哉への恋心を完全に絶ったのだと断言した。しかし納得のいかなった陽翔は「それだけでは断言出来ないですよ」と訴える。
「悠哉の誘いを断っただけでまだ未練があるかもしれないですし、たったそれだけの事で神童先輩が僕を信用するのは早いと思います」
陽翔の考えを受け、一度目を細めた彰人は「確かにその通りだ」と言った。
「だから俺は確かめたんだ、俺が悠哉の家にお前が泊まることを嫌がったら陽翔はどんな反応をするのか。悠哉の事が好きで未だに未練が残っていたら俺に対して少しでも嫌そうな態度を見せるものだろ?だけどお前はちっともそんな態度を見せていなかった、むしろ俺と悠哉のキスを見て嫉妬するどころか顔を赤くしていただろ?」
陽翔はハッとする。もしやあのキスでさえ陽翔の反応を見るためにわざとやったのだろうか。そこまでした彰人の周到さに関心さえしてしまうほどだった。
「先輩の言う通り、僕はもう悠哉と恋人になろうとは思っていませんし今更未練もありません。今はとにかく悠哉と神童先輩が幸せな恋人関係を築いてくれることを心から願っています」
嘘偽りのない本音を陽翔は口にする。実際随分と前から悠哉への恋心には諦めがついていた。それこそ彰人と再会してからは完全に二人の行く末を見守ろうという強い意志があり、悠哉と恋仲になろうという考えさえなくなっていた。
ただ今までは、悠哉への恋心を悠哉本人に隠しているという罪悪感から解放されず、その事が気がかりでどこかぎこちない節があったのかもしれない。そのため悠哉に全てを打ち明けた今の陽翔はとても清々しい気持ちだった。悠哉の親友という立場を、今なら堂々と名乗ることだって可能であった。
「そうか」
「でも…それだとしても悠哉が自分以外の人と二人きりで泊まることは嫌じゃないんですか…?」
確かあの時彰人は、悠哉と二人きりで泊まる相手が悠哉の実の兄でさえ嫌だと明言していたはずだ。あの言葉も嘘の可能性だってあるが、嫉妬深い彰人の事だから誰であっても恋人と一夜を共にさせたくないのだろうと陽翔は認識していた。
「ふっ、本当にお前は俺の事をよく理解しているな」
そう言って笑みを浮かべた彰人に、陽翔は怪訝な表情しか出来なかった。すると「お前は特別なんだ」と彰人が口にした。
「悠哉にとって陽翔が特別なように、俺にとっても陽翔が特別だという気持ちは同じだ」
陽翔は困惑する。彰人の口にした特別という言葉には、どのような意味が込められているというのだろうか。
「お前は悠哉を孤独から救ってくれた、俺がやり得なかった事をお前は実現してくれたんだ。悠哉にとって陽翔の存在がどれほど大切なものなのかあいつを見ればひと目でわかるさ。お前たちの間には俺なんかが嫉妬出来ない程の愛がある、だから今更陽翔にくだらない嫉妬心なんか抱かないんだ」
ひと通り話し終えた彰人は、カップを口元へと持っていき傾けた。彰人の上下する喉仏を見つめながら、陽翔は胸の内側がじわじわと火照っていくような感覚に陥る。
彰人にはあまり好かれていないと思っていた。悠哉からも自分の気持ちからも逃げた臆病な自分は、彰人のような男から軽蔑されているものだと思っていたのだ。無理に好かれようとも思っていなかったため、むしろ彰人に好かれることなど諦めていたほどだった。しかしどうやら陽翔の考えは的はずれであったようで、彰人は陽翔の事を特別だと表現した。まさか彰人からこんなにも好意的に認められていたなんて、陽翔は思ってもみなかったのだ。
「純粋に嬉しいです、僕は先輩から良いイメージを持たれていないと思ってたから…神童先輩に認めてもらえたような気がしてすごく嬉しいです」
大きな安堵感に、陽翔は肩をゆっくり落とした。
「何言ってるんだ、お前の方が悠哉との付き合いも長いんだから、むしろ俺の方が認められる立場じゃないか。お前は悠哉の母親のようなものだろ?」
「母親ですか?!」と陽翔は笑い混じりに返す。そんな冗談を彰人が自分に対して口にするなんて想像もしていなかったため、新鮮な気持ちが笑いを催促する。
「悠哉にとって、お前は家族も同然だ」
彰人のその一言に、陽翔の心は大きく揺れた。陽翔は思わず両手で顔を隠し、深く息を吐いた。「どうした?」と少し戸惑いの瞳を向けた彰人に「ありがとうございます、これ以上の言葉はないです」と陽翔は微笑んだ。
「ところで、慶とは上手くやってるのか?」
「へ…っ?」
彰人の質問に、陽翔は咄嗟に言葉が出てこず慌てて「あっ…はい!お陰様でっ!」と答える。
「そうか、お前が慶の家へ暫く泊まると知った途端悠哉の奴すごく不満そうでな。お前があの時変に否定したせいで陽翔が難波の家に泊まる羽目になっただろって俺が悠哉に怒られたんだ」
彰人はやれやれというように息を吐いた。
「慶は大丈夫そうか?」
彰人の見透かすような瞳が陽翔を見つめている。大丈夫、この言葉に込められた意図を陽翔は予想出来なかった。
「慶先輩の様子に何かおかしなところでもあったんですか…?」
「いや、特におかしなところは見られない。だけどあいつはなんでもソツなくこなすいわば完璧人間だろ?自分でなんでも出来てしまうから人に頼ろうとしないんだ、それがあいつの唯一の欠点かもな。こう見えても俺は結構心配してるんだ、近々受験も控えてるし詰め込みすぎてないかと」
完璧人間、彰人の言う通り難波慶という男表すのなら完璧という言葉がぴったりであろう。学校でも誰からも好かれており、皆から尊敬されていた。陽翔がそんな慶の弱い部分に触れたのは、初めて会話したあの時だけだ。それからというもの慶は常に陽翔を支える立場にいてくれた。そんな慶だからこそ、こんなにも甘えてしまっていたのだ。
「慶先輩は神童先輩にも弱い部分を見せないんですか?」
「まぁそうだな、愚痴程度ならたまに聞くが、あいつは俺と違って常に前向きだからな」
陽翔は思わず黙り込む。今日まで慶に甘えるばかりで、慶から甘えられた事などほとんどなかった。親友である彰人にも前向きな姿勢を崩さないということは、慶が甘えられる相手はいるのだろうか。陽翔は慶の優しい笑顔を思い出し、ふとある事を考える。
「僕は…慶先輩が甘えられるような…そんな存在になりたいです」
そう言って陽翔は自身の想いを自然と口にしていた。慶は陽翔の言葉を受け止めるように薄く唇を上げ「何故そうなりたいと思ったんだ?」と問いかけた。
「何故…」
しばらく考えてみたが、言葉として表すことがどうしても出来なかった。慶のためになりたいから、今までの恩返しとして慶になにかしてあげたいから、そういう気持ちももちろんあったが、そんな単純なものでは無いような気がする。
「なんでだろう…僕にも理由が分からないんです」
「まぁ、今はまだ分からなくてもいいんじゃないか」
「そうなんですかね…?」
「俺としては慶にとってお前がそういう存在になってくれたらすごく嬉しいな」
何かを諭すような彰人の瞳に、陽翔の心は震える。どうしたものか、一刻も早く慶の顔が見たくなってしまった。彰人には悪いが、早く帰ろうと思い立った陽翔はカップの中の紅茶をごくりと飲み干した。
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