1 / 1
山吹色のお菓子
しおりを挟む
認知症で要介護になっても、若いときのことを記憶している者もいる。ピアノを嗜んだ人はショパンを弾いてみたり、寿司屋の大将だった人は行事飯に文句を付けたりする。
しかし……。何処の世界にも、困った奴は居るものである。
今井貞夫。学校の校長をしていた所為か、他人を見下す傾向にある。しかも、要介護度が進むに連れて、振舞いも酷くなっている。
規則や決め事は守らないし、気に入らないことがあればすぐに自棄を起こす。施設の職員ばかりか、他の入居者の家族も、困り果てていた。
寝たきりなら、他の大きな施設に移すことも出来る。ただ……。足腰がしっかりしているだけに、余計に質が悪い。
深夜……。入居者は、眠らないにしても、おとなしく部屋に入っている時間である。しかし……。貞夫だけは、施設内を徘徊している。本人は見廻りのつもりかも知れないが、職員にとっては迷惑この上無い。
「今井さん。お部屋に戻って下さい。そろそろ、寝ないと……」
職員が注意するが……。
「うるさい!」
そう怒鳴り返し、聞く耳を持たない。当然に、野放しにも出来ず、職員の疲弊も余計になる。
職員たちで、会議が行なわれた。議題は、もちろん今井貞夫の扱い方である。しかし……。良い対処法は、なかなか出ない。シフトを組み替えるしかなさそう。そう思われたとき。
「あ……、あのぅ」
ひとりの若い女性職員が、恐る恐る手を挙げた。
「わ……、私に、考えがあるんですが」
私のような若造が、意見をしていいんですか? そんな雰囲気を醸し出しながら訊いた彼女に、園長を務める婦人は笑顔で返す。
「何かしら? 遠慮しないで、言ってみて」
「古い新聞の記事なんですが……」
若い女性職員は、一枚の紙を机の上に置いた。
翌日……。貞夫は、この日もあちらこちらに迷惑を掛けていた。職員の淹れてくれたお茶がぬるい。そんな文句は、まだマシなほうである。
他の入居者と視線が合っただけで。
「何だ? きさま。私に、文句でもあるのか?」
そんな難癖を付けることも、一度や二度ではない。まるで……。周りは、みんな自分の太鼓持ちだ……と言わんばかり。
夜……。就寝の時間になり、入居者たちが部屋に戻り、職員たちが巡回を始める。
案の定……。貞夫は、まだ部屋に戻っていなかった。自分が、この施設内で一番偉いんだ。そう言わんばかりに、胸を張って廊下を歩いている。
「校長先生。今井校長先生」
「ん?」
背後からそう呼ばれた貞夫は、立ち止まって振り向いた。
「何だ?」
いつもとは違い、ひとりの職員がニコニコしながら立っている。その違和感に、貞夫は訝しげな表情で返した。
「そろそろ、お休みになって頂かないと。私どもも、他の入居者さんも、とても困るんですが」
畏まって訴えた職員に、貞夫は。
「私に、命令するのか?」
不愉快さを剥き出しにして返した。しかし……。職員は、それを待っていたかのように、笑顔で話す。
「もちろん、タダで……とは言いません。どうぞ、こちらへ」
職員は、貞夫を園長室に招き入れた。
「なんだ? こんなところに、私を連れ込んで」
「ちょっと、他の入居者さんには、内密にしたいものでして。まあ。どうぞ、お掛け下さい」
訝しげな表情の貞夫の問いに笑顔で返した職員は、ソファーに掛けるよう促した。
貞夫が掛けたのを確認して、自分もテーブルを挟んで向かい合いのソファーに掛けた職員。笑顔で口を開く。
「実は……。前々から、申しておりますが。今井校長に、ここの規則をちゃんと守って欲しい。そう、一部の入居者さんたちから、不満の声が出ておりまして」
「何だ? また、その話か? いい加減にしろ!」
不愉快さを剥き出しにして、怒鳴り返した貞夫。しかし……。職員は、笑顔で続ける。
「もちろん、タダで……とは、申しません」
職員が、悪代官と密約をする商人の如く、パンパンと手を叩いた。すると……。若い女性職員が入ってきて、テーブルの上にあるものを置いて下がった。それは、紫色の袱紗に包まれた何かである。
「今井校長先生。どうか……。これで、他の入居者のお願いを、聞いて頂けませんでしょうか?」
そう言いながら、職員は袱紗を開く。中から出てきたのは、紙の帯に括られた一万円札の束である。
それを見た貞夫は、これが先程まで訝しげな顔を見せていた老人と同じ人間か……と思えるくらいの、恵比寿顔になる。
「分かっているじゃないか?」
職員がどうぞ……と言うよりも早く、札束を鷲掴みにした貞夫。
「う~ん。いい感触だなぁ」
そんなことを呟きながら、触り心地を確かめる。頬擦りをしてみたり、端をパラパラと弾いて指先の感触を楽しんだり。
「あのぅ。そろそろ、お部屋に戻って、お休みになられては? 他の入居者に知られると不味いので、それは私どもが保管しておきます」
「うん。そうだな」
先程とは打って変わって、素直に頷いた貞夫。札束を袱紗の上に置いて立ち上がり、園長室を出ていった。
貞夫と話をした職員が職員室に戻ると、少し遅れて若い女性職員が入ってきた。
「ちゃんと、お部屋に入りましたよ」
どうやら、貞夫が部屋に戻るのを確認してきたらしい。
「それは、良かった。しかし……。あんな古い新聞記事、よく見付けてきたね」
その言葉に、若い女性職員は笑って返す。
「フフフ。母親に、ちょっと愚痴ってしまったんです。そうしたら……。伯母さんが、今井さんが校長をしていたときの、小学校の卒業生で。あの事件のことを、教えて貰ったんです。記事を探すのは、ちょっと苦労しましたけれど」
「ありがとう。園長に、話を通しておくよ。特別ボーナスは、無理だけど。金一封くらいは、お願いしておくよ」
その言葉に、若い女性職員は真っ赤になって返す。
「よして下さい! そんなつもりじゃ、ありません」
今井貞夫。とある小学校の校長をしていたとき、汚職事件を起こしている。校舎の改築に絡み、特定の建設業者から賄賂を受け取り、便宜を図っていたのである。
しかも……、捜査の結果。そういった贈収賄は、複数の業者と常習的に行なわれていたことが分かった。
ただ……。甘い汁を吸わせた相手が多かったのか、保釈金も罰金もすぐに支払われた。
前科が付いたため、校長を辞めた。しかし……。貞夫は、別に構わなかった。甘い汁を吸わせた連中が、いろいろ面倒を看てくれたからである。
しかし……。何処の世界にも、困った奴は居るものである。
今井貞夫。学校の校長をしていた所為か、他人を見下す傾向にある。しかも、要介護度が進むに連れて、振舞いも酷くなっている。
規則や決め事は守らないし、気に入らないことがあればすぐに自棄を起こす。施設の職員ばかりか、他の入居者の家族も、困り果てていた。
寝たきりなら、他の大きな施設に移すことも出来る。ただ……。足腰がしっかりしているだけに、余計に質が悪い。
深夜……。入居者は、眠らないにしても、おとなしく部屋に入っている時間である。しかし……。貞夫だけは、施設内を徘徊している。本人は見廻りのつもりかも知れないが、職員にとっては迷惑この上無い。
「今井さん。お部屋に戻って下さい。そろそろ、寝ないと……」
職員が注意するが……。
「うるさい!」
そう怒鳴り返し、聞く耳を持たない。当然に、野放しにも出来ず、職員の疲弊も余計になる。
職員たちで、会議が行なわれた。議題は、もちろん今井貞夫の扱い方である。しかし……。良い対処法は、なかなか出ない。シフトを組み替えるしかなさそう。そう思われたとき。
「あ……、あのぅ」
ひとりの若い女性職員が、恐る恐る手を挙げた。
「わ……、私に、考えがあるんですが」
私のような若造が、意見をしていいんですか? そんな雰囲気を醸し出しながら訊いた彼女に、園長を務める婦人は笑顔で返す。
「何かしら? 遠慮しないで、言ってみて」
「古い新聞の記事なんですが……」
若い女性職員は、一枚の紙を机の上に置いた。
翌日……。貞夫は、この日もあちらこちらに迷惑を掛けていた。職員の淹れてくれたお茶がぬるい。そんな文句は、まだマシなほうである。
他の入居者と視線が合っただけで。
「何だ? きさま。私に、文句でもあるのか?」
そんな難癖を付けることも、一度や二度ではない。まるで……。周りは、みんな自分の太鼓持ちだ……と言わんばかり。
夜……。就寝の時間になり、入居者たちが部屋に戻り、職員たちが巡回を始める。
案の定……。貞夫は、まだ部屋に戻っていなかった。自分が、この施設内で一番偉いんだ。そう言わんばかりに、胸を張って廊下を歩いている。
「校長先生。今井校長先生」
「ん?」
背後からそう呼ばれた貞夫は、立ち止まって振り向いた。
「何だ?」
いつもとは違い、ひとりの職員がニコニコしながら立っている。その違和感に、貞夫は訝しげな表情で返した。
「そろそろ、お休みになって頂かないと。私どもも、他の入居者さんも、とても困るんですが」
畏まって訴えた職員に、貞夫は。
「私に、命令するのか?」
不愉快さを剥き出しにして返した。しかし……。職員は、それを待っていたかのように、笑顔で話す。
「もちろん、タダで……とは言いません。どうぞ、こちらへ」
職員は、貞夫を園長室に招き入れた。
「なんだ? こんなところに、私を連れ込んで」
「ちょっと、他の入居者さんには、内密にしたいものでして。まあ。どうぞ、お掛け下さい」
訝しげな表情の貞夫の問いに笑顔で返した職員は、ソファーに掛けるよう促した。
貞夫が掛けたのを確認して、自分もテーブルを挟んで向かい合いのソファーに掛けた職員。笑顔で口を開く。
「実は……。前々から、申しておりますが。今井校長に、ここの規則をちゃんと守って欲しい。そう、一部の入居者さんたちから、不満の声が出ておりまして」
「何だ? また、その話か? いい加減にしろ!」
不愉快さを剥き出しにして、怒鳴り返した貞夫。しかし……。職員は、笑顔で続ける。
「もちろん、タダで……とは、申しません」
職員が、悪代官と密約をする商人の如く、パンパンと手を叩いた。すると……。若い女性職員が入ってきて、テーブルの上にあるものを置いて下がった。それは、紫色の袱紗に包まれた何かである。
「今井校長先生。どうか……。これで、他の入居者のお願いを、聞いて頂けませんでしょうか?」
そう言いながら、職員は袱紗を開く。中から出てきたのは、紙の帯に括られた一万円札の束である。
それを見た貞夫は、これが先程まで訝しげな顔を見せていた老人と同じ人間か……と思えるくらいの、恵比寿顔になる。
「分かっているじゃないか?」
職員がどうぞ……と言うよりも早く、札束を鷲掴みにした貞夫。
「う~ん。いい感触だなぁ」
そんなことを呟きながら、触り心地を確かめる。頬擦りをしてみたり、端をパラパラと弾いて指先の感触を楽しんだり。
「あのぅ。そろそろ、お部屋に戻って、お休みになられては? 他の入居者に知られると不味いので、それは私どもが保管しておきます」
「うん。そうだな」
先程とは打って変わって、素直に頷いた貞夫。札束を袱紗の上に置いて立ち上がり、園長室を出ていった。
貞夫と話をした職員が職員室に戻ると、少し遅れて若い女性職員が入ってきた。
「ちゃんと、お部屋に入りましたよ」
どうやら、貞夫が部屋に戻るのを確認してきたらしい。
「それは、良かった。しかし……。あんな古い新聞記事、よく見付けてきたね」
その言葉に、若い女性職員は笑って返す。
「フフフ。母親に、ちょっと愚痴ってしまったんです。そうしたら……。伯母さんが、今井さんが校長をしていたときの、小学校の卒業生で。あの事件のことを、教えて貰ったんです。記事を探すのは、ちょっと苦労しましたけれど」
「ありがとう。園長に、話を通しておくよ。特別ボーナスは、無理だけど。金一封くらいは、お願いしておくよ」
その言葉に、若い女性職員は真っ赤になって返す。
「よして下さい! そんなつもりじゃ、ありません」
今井貞夫。とある小学校の校長をしていたとき、汚職事件を起こしている。校舎の改築に絡み、特定の建設業者から賄賂を受け取り、便宜を図っていたのである。
しかも……、捜査の結果。そういった贈収賄は、複数の業者と常習的に行なわれていたことが分かった。
ただ……。甘い汁を吸わせた相手が多かったのか、保釈金も罰金もすぐに支払われた。
前科が付いたため、校長を辞めた。しかし……。貞夫は、別に構わなかった。甘い汁を吸わせた連中が、いろいろ面倒を看てくれたからである。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる