名神累人のとある日常

桜部ヤスキ

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1年生編

窓際の愁い

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 5月下旬。
 放課後。
 窓から入ってくる風が気持ちいい。
 入学当初は教室のある最上階への階段往復がとにかく億劫おっくうで、5階建て校舎に設計したどこぞの何某を恨んだりもした。だが2ヶ月近くも経つと慣れてくるもので、今はこの高所からの眺めを割と気に入っている。
 窓枠に肘を置いて立つ。
 傾いた日差しが室内に入り込み、ランニング中らしき運動部のかけ声が聞こえてくる。
「名神、部活はいいのか」
「顧問の都合で今日は休みだって部長から連絡がきた。理由は分かんないけど」
「ならさっさと帰ればいいだろ。わざわざ教室に残るとは物好きだな」
「それは柳も同じだろ」
 すぐ横には窓際最後尾の席。そこに座る黒髪で目つきの鋭い男子生徒。

 柳一夜やなぎいちや。1年3組の、俺のクラスメイト。

「お前にだけはそう言われたくない」
「ひどいな。帰ろうかと思って教室に戻ったら柳1人だけだったから、ちょっと話でもしようと思ってさ」
「雑談なら1人でしろ」
「それただの独り言じゃん」
「だから、喋りたいなら勝手に喋ってればいい」
 やれやれというように机に頬杖をつく。
 その不機嫌な横顔は相変わらずだが、大して嫌そうでもないように見える。以前は話そうと近寄っても帰れの一点張りだったからな。これは大きな進展だ。
 話題は、そうだな…………部活の話でもするか。
「俺高校で初めて吹奏楽部入ったんだけどさ、同学年で初心者俺だけだったんだよ。みんな中学からの経験者でさ。なんか1人だけ大きく置いていかれてる感じがしてる。でもそれは当たり前のことだし、やりたくて入ったからには全力でやるつもりだよ」
「…………」
「でもやっぱり難しいことが多くて。この前初めて合奏したけど、基礎合奏でいきなりB durとかC durとかやれって言われてわけ分かんなかった。教えるの忘れてた、って後で先輩に言われたけど」
「……そのベーとかツェーってのは何だ」
「ドイツ語の音名。イタリア語だとシとドになる。durは音階、スケールのことで、C durはドから始まる__」
「そこまで詳しい説明は求めてない」
「まぁ、俺も正直まだよく分かってないけど。勉強しないとね」
「…………大した奴だな。未経験の分野に踏み入るのは勇気がいるだろ」
「そうかもね。でも、別に普通だよ。楽器演奏できたら楽しいんじゃないかなって、何となくそう思って始めたことだから」
「普通、か。確かにそうかもな。俺と関わりさえしなければ…………」
 途端に強い風が窓から入り込んできた。
 少し長い黒髪がなびき、俯き加減の横顔を隠す。
 一瞬だけ目元が見えた。まるで透き通るような緑玉。硬く、温もりのない無機物。
「…………まだそんなこと言うのか、柳」
「お前にとって、俺の存在が異常であることに変わりはないはずだ」
「そんな言い方やめろよ。確かに4月からこのよく分からない状況は続いてる。でも、それを解決できるかもしれない手がかりを掴んだんだろ。だったらすぐ行動を起こして__」
「その話は保留だと言っただろ。何度も言わせるな」
 刃物を突きつけるような鋭い言葉に、思わず口をつぐむ。

 …………何で、そうやって突き放すんだよ。
 隣にいるのに、間を巨大な裂け目によって断絶されているかのよう。
 手を伸ばしても、届かない。

「…………だったら、せめて理由を言えよ。何も教えられないままただ待ってろって言われて、それで納得できるかよ」
「…………」
「俺はな、柳、お前と一緒に普通の高校生活を送りたいんだ。クラスで授業受けて、休憩時間に遊んで、学校行事をやって。その輪の中に、お前もいてほしいんだよ」
 声が震えそうになる。胸に熱い何かがこみ上げてくる。
 これが俺の願いなんだ。分かってくれよ。
「だから、一刻も早くこの不可解な状態を何とかしたい。この学校で、俺だけがお前を__」
「あれ、累人君じゃん。やっほー」
 突然、教室のドアの方から声がした。
 顔を向けると、アホ毛の飛び出た茶色い頭が廊下からひょっこり覗いている。
「あ、ああ、佐々蔵か。まだ帰ってなかったのか」
「先生とちょっと話し込んでてねー。気付いたら30分以上経ってた」
 立ち話は疲れるねーと伸びをしながら教室に入ってくる。…………もしかして、さっきの俺の声は廊下まで響いていたのだろうか。喋るうち無意識に声量が上がってしまったかも__

「ところで累人君、教室で1人で何してたの?」

 佐々蔵は真っ直ぐ俺を見てそう言った。
 一瞬、胸に針を刺されたような気がした。

「あ…………いや…………ちょっと、風に当たろうと思って」
「ふぅん?確かに今日は風強いねー。伊志も砂埃やばそうって嘆いてたっけ」
 あぁ、伊志森いしもりはサッカー部か。今グランドで練習してるんだな。
「それはそうと、累人君今帰り?なら途中まで一緒に行かない?君いつも遅くまで部活あってなかなか機会ないからさー」
「そう、だね…………えっと…………」
 恐る恐る隣へ目を向ける。窓際最後尾の席。
 そこに座っている黒髪の男子生徒。
 確かにそこにいる。
「構うな。行け」
 辛うじて聞き取れる程の小声で柳が言う。表情は見えない。
 だが何となく、今にも泣きそうになっているんじゃないのか、そんな考えが頭をよぎった。
 それはあいつがか。それとも俺か。
「ん?どうかしたのー?」
 無邪気な顔でそう尋ねてくる。
 佐々蔵に悪気がないのは分かってる。それでも、口に出してしまいそうになる。

 何でここにいるのに、見えないんだ。

「い、いや、何でもない。佐々蔵は電車通学だよな。俺途中まで自転車押してくよ」
「おっけー。じゃあ行こー」
 自分の席に置いてあったリュックを背負い、佐々蔵に続いて廊下に出る。直前に一度室内を振り返ったが、柳と目が合うことはなかった。
 階段を下りていく。一歩下る度に体に重りがぶら下がっていくような感覚。重い。苦しい。
 あのまま、柳を置いてきてよかったのか。
「来月は文化祭だねー。吹奏楽部は体育館で演奏会やるんでしょ?僕絶対聞きに行くから。伊志も引っ張ってくから」
「ああ…………まだまだ素人の域を出ないけど」
「毎朝君のトロンボーンの音はしっかり聞こえてくるよ。練習を十分頑張ってるんだから自信持ちなって」
「ああ、そうだね…………」
 上の空で相槌を打つ。言葉が右から左へ通過していく。
 あんな場面は今まで何度もあった。柳と初めて会った時もそうだった。教室に1人、ぼんやりと宙を眺める姿。いつも独り、憂鬱げな顔をしている。
 またあんな顔させてしまったのか、俺は。

 気が付けば、体が動いていた。

「佐々蔵、先行ってて。忘れ物取りに行ってくる」
 そう叫びつつ階段を駆け上がる。二段飛ばしで一気に二階分を上り、無人の廊下を走る。
 何やってんだ。何がしたいんだ。何ができるんだ。
 分からない。でも、何もしないではいられない。
 だって、今柳のために何かできるのは、きっと俺しかいないから。
「ハァ、ハァ…………柳!」
 1-3のプレートがかけられた教室。
 走ってきた勢いのまま駆け込み、入口付近にあった机に手をついて止まる。
 目線の先は、教室の隅。

 そこに、探している姿はなかった。
 窓は開いたまま。席の椅子は戻され、机の横にかかった鞄もない。
 最初から、そこには誰もいなかったかのように。

「…………また明日、くらい言わせろよ……」
 小さく吐き出した言葉をかき消すように、室内を風が通り抜ける。行き場を失った衝動の塊が体の内側でぐるぐると渦巻いている。

 …………柳、俺にはお前のことが分からない。
 俺にとって、お前は1年3組のクラスメイトだ。柳一夜という実在する1人の人間だ。
 でも、周囲の人間の目にお前の姿は映ってない。声も聞こえてない。
 まるで幽霊だ。
 お前は望んでそんな状況になったわけじゃないんだろ。どうにかして脱したいと思ってるんだろ。誰にも存在を認識されないなんて、いないことと同じだから。
 だから、この場で唯一お前を認識できる俺が力になりたいんだ。何ができるかなんて分からないけど、独りじゃないって思えることはとても大切だ。
 なのに。拒絶するような態度。少し離れた間に忽然と消える姿。
 まるで、俺にまで存在を忘れてほしいみたいじゃないか。
 このまま本当に消えてしまいたいと、思ってるみたいじゃないか。

「本当にそう思ってたら許さねぇぞ…………」
 拳をぎゅっと握り締め、教室を出る。
 怒りとも悲しみともとれない感情に急き立てられ、歩調が速くなる。
 明日会ったら柳を説得する。何が何でも絶対に暴いてやるんだ。

 事の元凶、“呪い”とやらの正体を。
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