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「わ、すごい」
小さな感嘆の声を上げてから、陽子が安藤の隣に座った。
「これ、今戦争中の国のことでしょ?」
顔をテレビの画面に向けたまま、人差し指の先も向けた。
「ああ」
安藤はうなずく。
一ヶ月ほど前、ヨーロッパで戦争が始まった。突然のことだった。いや、両国の間では、以前からくすぶりがあったのかもしれない。でも、当事者以外の国々にとっては、何の前触れもなく唐突に起こった、予期せぬ交通事故のような印象があった。
火だねから煙が上がっていることに気がついていたのは、それぞれの国のお偉い方だけで、一般の国民にとっては、やはり青天の霹靂に近かったのだろう。逃げる暇もなく、爆弾がいくつも落とされ、罪のないたくさんの命が奪われた。
突然の争いに世界中が戸惑い、怒り、嘆いた。各国のメディアは連日、終わる兆しの見えない戦地の悲惨な状況を伝えていたのだった。
ただ、陽子が指し示した画面に映るものは、戦地ではない。国内の、とあるボランティア団体の事務所だ。
「この冷たそうな人、代表者?」
「そうみたいだな」
「へぇ、意外。たった一人でも爆弾が飛び交う戦地に入りたい、なんて言い出すタイプには見えないけど」
「それも、ケガをした犬の治療や保護のためにな」
「戦地への渡航って、禁止されているんじゃなかったっけ」
「詳しくは知らないけど、難しいんじゃねぇかな。まぁ、ジャーナリストはどうあれ、一般人は普通、行こうとも思わないだろうけど」
カメラを向けられながらも落ち着き払った代表者の男の、その表情に懐かしさを噛み殺しつつ、安藤は言う。
「あいつ、俺の高校の時のクラスメイトなんだ」
陽子は目をむいた。
「え、本当に? ちょっと、止めたほうがいいんじゃ?」
「連絡先を知らない。卒業してから会っていないし、元より、そんなに仲良くもない」
「あぁ」
口をぽっかり開けたかと思うと、陽子はにやにやし出した。
「タイプがぜんぜん違うもんね。かたや燃える使命を内に秘めた、愛護団体代表のクールガイ。かたやメジャーリーグに挑戦するも一年で挫折して帰ってきた、崖っぷちの一軍打者」
「崖っぷち言うなよ」
安藤が口を尖らせると、陽子はけらけらと笑う。
「ドラフト一位で入団して、世間を騒がせていた頃が懐かしい」
「家の鍵を一緒に探したんだ」
「代表者さんの? どこかで落としちゃったんだ」
「雨が降っていてさ、あいつは愛犬の散歩中で」
「おお、やっぱり犬が絡む」
安藤は噴き出した。
「あいつ、本当に変わっているんだ。服とかレインスーツがストレスだとか言って」
「レインスーツはわかる気がする。動きづらいし。でも、服はねぇ」
「変わってはいるけど、大切な存在のためなら、ストレスは苦じゃないって男なんだ」
「あぁ」
陽子はテレビに視線を戻して、清々しく笑った。
「わかる気がするねぇ」
「だろ?」
「で、鍵は見つかったの?」
「見つかった」
安藤はまた噴き出す。
とっぷりと暗くなるまで、二人と一匹で散歩コースをうろうろしたが、鍵は出てこなかった。そろそろ親が帰ってくるというので、諦めて自宅に向かえば、玄関を出たところに落ちていた。
「冴えない結末だろ」
「確かに」
それ以降、谷坂との関係が変わったかと言えば、そうではなかった。谷坂のほうが安藤を避けているきらいがあり、結局、卒業までほとんど喋らなかった。
今思えば、谷坂は罪悪感を覚えていたのかもしれない。
「よし」
安藤はスマホを手に取った。操作し始める。
「何を検索しているの?」
手元を覗き込む陽子にかまわず、スクロールしていくと、案外それは簡単に見つかった。
「そんなに難しくなさそうだな。俺でもやれそうだ」
「クラウドファンディング?」
陽子が目をしばたたく。
安藤はソファーから立ち上がった。
「俺はこれからの試合、できるだけヒットを出す。ヒットで援助金を募るんだ」
「え、まさか、ヒット一本打てたらいくらって設定して、お金を支援してもらおうとしているの? 仲良くもない元クラスメイトを援助するために?」
陽子は驚きを隠せないようだ。無理もない。
「もう何年もまともに、バットに当てられてすらいないのに?」
「そこなのかよ。おかげで崖っぷちに、手だけでようやくぶら下がっている状態だよ。でも」
安藤は陽子からテレビに視線を戻す。
「あいつがやりたいことは、あいつにしかできないことだ。俺はそれをサポートしたい。そのために俺にできることは、それくらいしかないんだ」
谷坂が自分のことを忘れていてもいい。勝手に始めたことだから、気づかなくたっていい。
ただ、自分は覚えている。
あの男が曖昧な計画のうちにそれを公表しないだろうことを、物事をスタートしないだろうことを、自分は知っている。安藤は、そう思って嬉しくなった。
「そうだね。崖っぷち打者にしかできないことかも」
陽子はにんまり笑った。
「一本も打てずに終わったりして」
「怖いこと言うなよ、奥方どの」
「あはは。でもさ、大丈夫かな。勝手なことして、そのお友達に迷惑がられない?」
安藤は歯を見せる。
「大丈夫。俺が自主的に始めたことをあいつが知ったとしても、言いそうなセリフならわかる」
あいつはきっとこう言う。
「好きにしたらいい」
泣き出しそうな、笑い出しそうな顔で。
(犬とメジャーリーグ fin)
小さな感嘆の声を上げてから、陽子が安藤の隣に座った。
「これ、今戦争中の国のことでしょ?」
顔をテレビの画面に向けたまま、人差し指の先も向けた。
「ああ」
安藤はうなずく。
一ヶ月ほど前、ヨーロッパで戦争が始まった。突然のことだった。いや、両国の間では、以前からくすぶりがあったのかもしれない。でも、当事者以外の国々にとっては、何の前触れもなく唐突に起こった、予期せぬ交通事故のような印象があった。
火だねから煙が上がっていることに気がついていたのは、それぞれの国のお偉い方だけで、一般の国民にとっては、やはり青天の霹靂に近かったのだろう。逃げる暇もなく、爆弾がいくつも落とされ、罪のないたくさんの命が奪われた。
突然の争いに世界中が戸惑い、怒り、嘆いた。各国のメディアは連日、終わる兆しの見えない戦地の悲惨な状況を伝えていたのだった。
ただ、陽子が指し示した画面に映るものは、戦地ではない。国内の、とあるボランティア団体の事務所だ。
「この冷たそうな人、代表者?」
「そうみたいだな」
「へぇ、意外。たった一人でも爆弾が飛び交う戦地に入りたい、なんて言い出すタイプには見えないけど」
「それも、ケガをした犬の治療や保護のためにな」
「戦地への渡航って、禁止されているんじゃなかったっけ」
「詳しくは知らないけど、難しいんじゃねぇかな。まぁ、ジャーナリストはどうあれ、一般人は普通、行こうとも思わないだろうけど」
カメラを向けられながらも落ち着き払った代表者の男の、その表情に懐かしさを噛み殺しつつ、安藤は言う。
「あいつ、俺の高校の時のクラスメイトなんだ」
陽子は目をむいた。
「え、本当に? ちょっと、止めたほうがいいんじゃ?」
「連絡先を知らない。卒業してから会っていないし、元より、そんなに仲良くもない」
「あぁ」
口をぽっかり開けたかと思うと、陽子はにやにやし出した。
「タイプがぜんぜん違うもんね。かたや燃える使命を内に秘めた、愛護団体代表のクールガイ。かたやメジャーリーグに挑戦するも一年で挫折して帰ってきた、崖っぷちの一軍打者」
「崖っぷち言うなよ」
安藤が口を尖らせると、陽子はけらけらと笑う。
「ドラフト一位で入団して、世間を騒がせていた頃が懐かしい」
「家の鍵を一緒に探したんだ」
「代表者さんの? どこかで落としちゃったんだ」
「雨が降っていてさ、あいつは愛犬の散歩中で」
「おお、やっぱり犬が絡む」
安藤は噴き出した。
「あいつ、本当に変わっているんだ。服とかレインスーツがストレスだとか言って」
「レインスーツはわかる気がする。動きづらいし。でも、服はねぇ」
「変わってはいるけど、大切な存在のためなら、ストレスは苦じゃないって男なんだ」
「あぁ」
陽子はテレビに視線を戻して、清々しく笑った。
「わかる気がするねぇ」
「だろ?」
「で、鍵は見つかったの?」
「見つかった」
安藤はまた噴き出す。
とっぷりと暗くなるまで、二人と一匹で散歩コースをうろうろしたが、鍵は出てこなかった。そろそろ親が帰ってくるというので、諦めて自宅に向かえば、玄関を出たところに落ちていた。
「冴えない結末だろ」
「確かに」
それ以降、谷坂との関係が変わったかと言えば、そうではなかった。谷坂のほうが安藤を避けているきらいがあり、結局、卒業までほとんど喋らなかった。
今思えば、谷坂は罪悪感を覚えていたのかもしれない。
「よし」
安藤はスマホを手に取った。操作し始める。
「何を検索しているの?」
手元を覗き込む陽子にかまわず、スクロールしていくと、案外それは簡単に見つかった。
「そんなに難しくなさそうだな。俺でもやれそうだ」
「クラウドファンディング?」
陽子が目をしばたたく。
安藤はソファーから立ち上がった。
「俺はこれからの試合、できるだけヒットを出す。ヒットで援助金を募るんだ」
「え、まさか、ヒット一本打てたらいくらって設定して、お金を支援してもらおうとしているの? 仲良くもない元クラスメイトを援助するために?」
陽子は驚きを隠せないようだ。無理もない。
「もう何年もまともに、バットに当てられてすらいないのに?」
「そこなのかよ。おかげで崖っぷちに、手だけでようやくぶら下がっている状態だよ。でも」
安藤は陽子からテレビに視線を戻す。
「あいつがやりたいことは、あいつにしかできないことだ。俺はそれをサポートしたい。そのために俺にできることは、それくらいしかないんだ」
谷坂が自分のことを忘れていてもいい。勝手に始めたことだから、気づかなくたっていい。
ただ、自分は覚えている。
あの男が曖昧な計画のうちにそれを公表しないだろうことを、物事をスタートしないだろうことを、自分は知っている。安藤は、そう思って嬉しくなった。
「そうだね。崖っぷち打者にしかできないことかも」
陽子はにんまり笑った。
「一本も打てずに終わったりして」
「怖いこと言うなよ、奥方どの」
「あはは。でもさ、大丈夫かな。勝手なことして、そのお友達に迷惑がられない?」
安藤は歯を見せる。
「大丈夫。俺が自主的に始めたことをあいつが知ったとしても、言いそうなセリフならわかる」
あいつはきっとこう言う。
「好きにしたらいい」
泣き出しそうな、笑い出しそうな顔で。
(犬とメジャーリーグ fin)
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