Rain man

朋藤チルヲ

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black coffee

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「……残念だけど」

 彼はゆっくりとこちらを振り返り、誰もが知る、うんと昔の画家が描いた謎多き美女みたいな微笑で言った。

「……後払いも、子供からの依頼も受けつけていないよ」

 自分は人殺しだと、彼が認めた瞬間だった。

「……じゃあ」

 目の前にいるのは、お金を貰って人の命を奪う人。まともな神経をしていたら、恐ろしくて会話なんてとても続けられないだろう。
 私はたぶん、とっくにまともじゃないのだ。まともでいられるわけがない。あんな地獄のような日々を繰り返していられるのだから。

「私に……殺し方を教えて」

 彼の表情は大きく変わらない。

「だって……あなたは引き受けてくれないんでしょ?」

 卑屈になっているわけじゃない。彼が引き受けてくれないなら自分でどうにかするしかない、そう思っただけだ。

「結局はあなたの手を煩わせることになるけど、やり方を教えるだけだし。格安で請け負ってくれないかな」

 私は食費として預かったお金を使い切らずに、お釣りを貯めていた。パパはお金を置きっぱなしで、レシートを見せろとは言わない。そうは言っても、太っ腹というのとも、私を信用しているのとも違う。パパはただ深く考えないのだ。気に入らないと思ったら殴る。食べる物が必要だからお金を置いておく。パパはひどく単純な人間なんだって、この頃しみじみわかってきた。

 お釣りは微々たる額だけど、塵も積もればだ。そうやって貯めたお金が少しある。それで足りるだけの技術を教えてもらえればいい。

 彼が、またじっと私を見つめた。ブラックコーヒーに似た深い色。心の奥まで丸裸にされてしまいそうだ。やがて、ふるふると首を振った。

「それも、やってない」
「じゃあ」

 あと、この機会を活かすどんな方法があるだろう? 頭を悩ます私に、彼は淡々と言った。

「それに、僕はもうここを出て行くんだ。悪いけど、何の力にもなれない」

 息を吸い込んだら、ひゅう、と喉が空っぽの音を立てた。

「……出て行くの?」
「出て行く。もう用事は済んだからね」

 彼はきっぱりと言った。
 用事が済んだ。それは、彼のするべき仕事が済んだということ。殺し屋の仕事は一つしかない。

 私の知らない誰かを、あの銃で、この人は撃った。命を奪った。それが仕事なのだ。この人は殺し屋なのだから。

 言葉にすると、それってやっぱりすごく怖いことだ。そう間違いなく認識できるのに。それを名札のシールにしてこの人に貼りつけようとすると、どうしてもうまくくっ付かないのだった。

「……すぐ、行かなきゃだめ?」

 口から出てきた言葉は、恋人を引き留めようとしているみたいで、なんだかおかしい。

「そうだね」

 彼は体勢を変えて、チェアの上で私と向かい合うように座り直すと、窓のほうを指さした。

「弾丸が入り込んできた窓の方角から、ここの位置がわかってしまう。早く立ち去らなければ捕まってしまう」

 仕事の依頼を受けたら標的の近くに引っ越してきて、終われば速やかに去っていく。そうやってこの人は、あちらこちらを転々としているんだろう。だから、生活するための物も必要最低限でいいのだ。
 それは、とても殺し屋稼業に合ったライフスタイルだと思った。だけど、私には受け入れがたかった。

「……一週間、待ってくれない?」

 胸に抱えた衣類をぎゅっと抱きしめる。水分が着ているスウェットにも染みてきて冷たく感じた。

「だめなら、三日でもいい」
「僕は力になれない」
「わかってる。それはもういい。諦める。でも」

 この人は犯罪者だ。今はおとなしくしているけど、じきに本性を現して、私に襲いかかってくるかもしれない。

「気づいてるんでしょ? 私……親から暴力を受けてる。でも、ここ二週間くらいは、あなたのギターの音のおかげで、ちょっと楽しい気分になれた。大袈裟に言うと、生きる力を貰えたの。いきなり聞けなくなっちゃうのは辛い。三日間だけ時間をくれたら、その間に踏ん切りつけるから」

 私はいつしか、彼のギターの音色が聞こえてくるのを、楽しみに待つようになっていた。温かくて優しい音。心をふわりと包み込むような音。それを奏でていたのは、対価と引き換えに人の命を葬る殺し屋だったけれど。

「……せ、責任取ってよ。こんなボロいアパート、壁だって薄いのにギターを鳴らして。あなたがギターなんて弾かなけりゃ、私だって変な楽しみを覚えなかったのに」

 無茶苦茶なことを言っているって、わかっている。

 彼はまっすぐに私を見据えたあと、すっと瞳をふせた。まつ毛が影を作る。思案しているようにも、憤っているようにも見える。

「……お願い、もう少しだけでいいからここにいて。もし誰かがあなたを捕まえにきたら、私がうまく誤魔化すから。そのために見張ってる。一晩中でも、一日中でも」 

 彼はとうとう目を閉じた。耳まで閉じることはできないってわかっているのに、完全にシャットアウトされてしまったような気分になって、泣きたくなる。

「……掃除。洗濯とか、ごはんも作る。便利でしょ? 男の人は、そういうのって面倒だろうし」

 彼は口を開こうとしない。もう永遠に言葉を発しないような頑なさがある。
 心臓が内側からドンドンと激しく胸の壁を叩く。その振動が頭にまで響くようだ。

 男の人は。そう言った時に別の条件も浮かんだけど、口にするのはためらわれた。でも、いざとなったら考えるしかない。経験のない私にうまく出来るかわからないけど、それしか方法がないならしかたない。

 彼にいてほしかった。ここからいなくなってほしくなかった。どうしてこんなに執着するのかわからない。

 彼は、私の人生を変える手助けをしてくれない。ギターの音色は私を慰めても、根本的な問題の解決はしない。そんなこと、わかっているのに。

 私はぎゅっと目をつむった。

 静かな目。柔らかな声。いつかどこかで嗅いだような、懐かしいにおい。私を心配してくれた。私のために悲しんでくれた彼ならきっと。

「お願い。私を助けて……!」

「……約束だよ」

 ため息と紙一重の、空気をたくさん含んだ声がした。

 目を開けると、チェアの上の彼はまだ目を閉じたままで、両手の指を祈るように膝の上で組んでいた。

「三日経ったら、僕は出て行く。そのあとは、僕のことは一切忘れて欲しい」

 その瞬間、心の中に広がっていた真っ黒でベタベタのシミが、ほんの少しだけ範囲を狭くしたような気がした。

「それから、掃除やごはんはとてもありがたいけど、一晩中見張るのだけは勘弁して。夜はちゃんと眠らなきゃだめだよ。美容のためにもね」

 彼は目を開けると、片眉をくいと上げて微笑んだ。

 お願いを受け入れてもらえたのに、嬉しいはずなのに、鼻の奥が熱くなって涙が零れそうになった。唇を引き締めて、それを堪える。

「……わかった」
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