Rain man

朋藤チルヲ

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oxalis

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「……凛子。僕だよ」

 すっかり聞き慣れた穏やかな声で、それが朝日だとわかったあとでも、私はまだチェアから動かなかった。代わりに、レインがはっと飛び起きて、急いで玄関まで走っていった。
 それとほとんど同時に、カチャリとノブを回す音が、無音の部屋の中に響く。

 みしみしと足音を立ててリビングにやってきた朝日が、チェアの横で止まる。マフラーを外しながら諭すように言った。

「鍵をかけておきなさい。女の子一人しかいないのに、何かあったらどうするの」
「レインがいるもん」

 まさに何かあったのだと、子供が親に泣いて訴えるようには、私にはできなかった。できるわけない。やり方がわからないのだ。私には、甘えられる親なんてずっといないのだから。

 刑事たちが去ってからも、私はずっと怖いままだ。恐怖がまるで風船みたいに、お腹の中でどんどん膨らんでくる。それを必死に抑えるようにしたから、ふて腐れた口調になってしまった。
 レインがチェアの足元で爪を研ぎ始める。呼ばれたと思ったのだろう。

 子供っぽい反論に呆れたのか、朝日は何も言わない。

「遅かったね」

 私はそうつぶやいて、手の中にある草花の葉っぱを千切った。指から放つと、それはひらひらと弧を描いて空中を舞い、音もなく床に落ちた。

「……ごめん。思った以上に時間がかかってしまって」
「どこに行ってたの?」
「それは……ごめん」

 来たばかりの街に、知り合いがいるとは思えない。だから、おそらく仕事関係なんだろう。私に言えるわけがない。

 朝日は私の奇妙な行動には触れない。私の手元が見えていないわけがないのに。また床を汚してって文句を言いもしない。私が怒っていると信じていて、それは自分の帰りが遅かったせいだと思っているのだ。朝日は来訪者のことなんて知らないから、しかたがないけれど。

「料理が、冷めちゃった」

 言いながら、もう一枚、葉っぱを千切って落とす。
 朝日はテーブルのほうを振り返って、わざとらしく明るい声を出した。

「わ。美味しそう」
「もう美味しくないよ。ラザニアは熱々が美味しいんだもん」
「ごめん……」

 何度も朝日に謝られて、私はなんだかイライラしてきた。

 私がこんなにも怖い理由わけは、朝日が逮捕されてしまうかもしれないからだ。

 その可能性があることは、むしろ高いことは、朝日の話を聞いてわかっていたつもりだった。でも、実際はわかっていなかった。例えるなら、テレビの画面越しに見る、ニュースで取り上げられる事件の被害者のことのように、現実なのに、自分には遠い出来事として捉えていた。

 刑事がやってきて初めておののいて震えるなんて、間が抜けている。

「……どうしたの、それ」

 朝日はコートを脱いで、マフラーと一緒に、椅子代わりの脚立の上に置いた。

「クローバー?」

 私の膝の上にいくつも乗った、緑色の小さな葉がついた植物のことについて、ようやく尋ねることにしたようだ。

「……違う。確かに似てるけど。これはカタバミ。今年はあったかいんだね。季節じゃないのに、ベランダにいっぱい生えてた」
「そうなんだ」

 朝日はレインを抱き上げる。そのまま私の手元がよく見える場所に座り込んだ。

「占うんだよ。花占いみたいに。葉っぱを一枚一枚千切って。暇だから、よくやるんだ」
「花びらのほうじゃないんだね」

 そう尋ねてくる朝日の頭の中には、若い女性が恋の行方を占いながら、花びらを一枚一枚千切っていく姿が思い浮かんでいるのかもしれない。

「だって、花びらはきれいだからもったいないもん。それにほら、クローバーに似てるって言ったでしょ? 四つ葉のクローバーみたいに、幸せを呼び寄せてくれそうだし」

 朝日の腕の中で、レインがジタバタし始めたので、朝日は手を放した。その手で、今度は自分の膝を抱え込む。レインは床に降り立つと毛づくろいを始めた。

「……何を占っているの?」

 私はまた葉を一枚千切って、それに答える。

「私を傷つけた人たちが、明日死ぬか、死なないか」

 朝日がすっと瞳をふせたのが、そちらを見なくてもわかった。

「恋占いと一緒。死ぬ、死なないって唱えながら、交互に千切っていくんだよ」

 新しいカタバミの茎をつまんで、朝日に示してみせる。
 朝日はやっぱり目をふせていて、ひょろ長い茎の植物を見るために睫毛を上げたけど、何も言おうとはしない。

 一つの茎に付いた葉っぱは、三枚。それもクローバーと同じだ。
 この一つ前の茎から千切った葉っぱの最後は、「死なない」だった。朝日を見習うつもりじゃないけど、平坦な気持ちで、葉を茎から千切っては落としていく。緑の小さな葉っぱが、床に散らばっていく。

 残り一枚に指が触れた時。朝日が動いて、私の手に自分の手のひらを重ねた。

「……遅くなって本当にごめん。お腹が空いたね。ごはんを食べよう」

 外から帰ってきたばかりの朝日の手は、しんと冷たい。だけど、温かい。しとやかで優しい。
 私は泣きたくなった。

 朝日は罪を犯した。
 私がここで相手の死を願って占うのとはわけが違う、確かなことだ。
 常識的に考えたら、警察に引き渡すのがいちばんだってことは、ちゃんとわかっている。
 でも、できない。

 朝日がいなくなったら、私は家に戻るしかない。
 私を慰めるギターの音も歌もない、今度こそ本当の孤独の中で、私は私を殺しながら生きていくだろう。そんなのは嫌だ。

 朝日が罰を受けるのも嫌。だって、朝日は仕事こそ人の道に外れているけれど、人間は決して悪くない。

 私に優しくしてくれることもそうだけど、レインのことだってそうだ。
 朝日は、レインが暴力を振るわれていたって言った。それって、朝日が暴力を振るっていた人を咎めて、レインを救い出した言い方だ。
 それからずっと、レインをお供に旅を続けているのだろう。レインのほうだって、朝日に心を許している。そんな人が、根っからの悪人のわけがない。

 何より、私がまだ朝日といたい。
 殺し屋なのに。今までどんな生き方をしてきたのか、何を考えているか、まるでわからない人なのに。私は唯一の家族であるパパよりも、私を決して怒らない大家さんよりも、この人と他愛ないことを喋ったり、笑ったり、歌をうたったり、ごはんを食べたりしたいのだ。

 だけど、あの刑事たちは遅かれ早かれ、きっとまたこの部屋に来る。その時、また一人きりだったら、私はいったいどうしたらいいんだろう?

 私がこんなに悩んで不安で、怖くてたまらないのに、朝日は気づきもしない。
 朝日に報告するつもりでいたのに、この怖さを抱えたままどうやって伝えたらいいのか、自分がその方法を知らないだなんて、思いもしなかった。
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