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「……いいな」
急に喉がぎゅうっと詰まったような感覚がして、そこから出た声は、声と言うより空気で、まるで隙間風みたいだった。
「私もいっそのこと、そういう人たちに拾われたらよかったよ」
朝日を慰めようとか、冗談のつもりで言ったわけじゃなかった。
子供の私が大人の朝日を慰めようなんておこがましいし、私は子供だけど、それがこんな時に言っていい冗談かどうかはちゃんとわかる。
最初に朝日が私を受け入れた時の、諦めの声にも似たそれは、むしろ本音に近かった。
だって、そうしたら、少なくともその人たちにとっては、私は必要な存在だ。
他人を傷つける術を学ぶことは、自分の中に取り入れていくことは、きっと想像以上に難しくて悲しいことなんだろう。でも、誰からも必要とされない、愛されない今の暮らしだって、過酷じゃないわけじゃない。悲しくないわけじゃない。
それでも、朝日に会うまでは、私はずっと自分の感情に蓋をして過ごしてきた。その蓋は今、優しいメロディと歌声、笑顔や言葉に触れて、少しずつ緩み始めている。
「僕は」
ひときわ澄んだ声が聞こえて、私は目線を上げた。
朝日がじっとこちらを見ていた。
「凛子が、僕がいるような世界にいなくて、よかったと思う」
その時、自分のごはんをすっかり平らげたレインが、ぴょいと私の膝の上に乗ってきた。小さく悲鳴を上げてしまう。か弱い、でも、確かな重みを決して落とさないように、両方の太ももに力を込めて受け止める。
レインはそこで悠々と毛繕いを始めた。
窓から射し込む光の玉が、黒くツヤツヤとした毛並みの上で、コロコロと転がる。
朝日がふっと鼻で笑った。
「……猫は、愛情が深い人間がわかるんだよ」
そう言うと、再びトーストを手に取った。
「凛子は、とても愛に満ち溢れている。それは、僕がいる世界では育まれないものだ」
「おかしなこと言うね」
そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。つい、朝日を睨んでしまう。
「私は愛に溢れてなんかいない」
あんな家庭で育った私の中に、溢れるほどの愛情が育まれるはずがない。
「僕にはわかる」
「人殺しを頼んだくらいなのに」
それに対しては、朝日は何も言わなかった。冷めたトーストを頬張る。
「それを言うなら朝日こそ。朝日のほうが、私なんかよりずっと愛に溢れてるように思える」
それはおべっかとかではなく、本当にそう思ったから。
朝日は、私に嘘をつかないと言った。私も、朝日に対していつでも本当のことを話していた。どちらかと言うと、朝日のほうが言いにくい話は山ほどあるはずで、それでも誠実に、ある程度のことは隠さずに教えてくれる。私もそれに応えたかった。
「僕は愛情が深くない」
「だって、そんなに優しいのに」
朝日が持つ優しさを愛と呼ぶのなら、間違いなく、朝日の身体の中にはパンパンに愛が充満している。
すると、朝日は一時だけ目をふせた。
「……優しいのと、愛情が深いのとは違うんだよ」
そんな難しいことを言うのはずるいと思った。私はまた朝日を睨む。
朝日は私に少し微笑みかけ、話を戻した。
「凛子は、いつでも相手のことをいちばんに考えるでしょう。そして、与えることができる」
「そんなことないよ」
本当にそんなことないけれど、もし朝日にそう見えるのだったら、それは誤解しているだけだ。
私が自分をそっちのけにして相手の感情や望むものを優先するのは、そうやって自分の身を守っているから。自分が傷つくのが嫌だから、相手を怒らせないように気遣っているだけ。それは優しいわけでも、愛情に満ち溢れているわけでもない。
朝日は首を振る。
「いや、そんなことある。僕にはできない」
朝日は、また窓のほうに目線をずらした。太陽のプリズムが、長いまつ毛の先端でゆらゆら燃えている。
私の心もゆらゆらした。蝋燭の炎のように、頼りないのに、しつこく揺らめいた。
「僕はね、誰かに何かを与えてあげられるような人間じゃないんだ。奪うことしかできない。この世にいちばん存在しちゃいけない人種なんだよ」
「……殺し屋だから?」
単刀直入に私が訊くと、朝日は窓の外を見たまま、ほろっと頬を緩めたあとで、「そうだね」と言った。
どうしてそこで笑うのかわからない。
朝日は泣いてはだめなところで泣き、笑わなくていいところで笑う。
「凛子は、僕みたいな生き方をしちゃいけない。だから、殺し方なんて覚えたらだめだ」
私はそこで初めて知る。
朝日は私の支払い能力を心配して、お願いを断ったのではなかった。私自身を心配してくれたのだ。
それは嬉しい。嬉しいけれど。
「でも」
私は言いかけて、一旦口をつぐむ。うつむいて、感情が暴走してしまうのを抑えるように、懸命にレインの背中を撫でた。
「……でも、どうしても、憎んで、いなくなってくれたらいいのにって思っちゃうんだ。その気持ちは、自分にも止められない」
毎日、毎秒、パパの不幸を願っている。パパが本当にいなくなったら、生活できなくなって困るのは私なのに。
愛に溢れているどころか、私の心は真っ黒だ。ニコチンが染み出した水みたいに汚れまくっている。
「それでも」
朝日は静かに腕を伸ばしてきて、私の横の髪に触れた。
「手をかけてしまわなければ、救われる道はいくつもある」
ふわりと耳元に温もりを感じたかと思うと、それはするすると遠ざかる。変にどぎまぎしてぎこちなく顔を上げると、朝日は「レインの毛」と言って微笑んだ。その親指と人差し指が、蜘蛛の糸のように光る猫の毛をつまんでいた。
「……凛子」
朝日が指を放すと、黒い猫の毛は音も立てずに落ちていく。
「人を一人撃つとね、自分の中の何かが一つ死んでいくんだ」
人を一人撃つと、自分の中の何かが一つ死んでいく。
朝日がいつもどこか寂しそうなのは、人を撃つことで、そうやって、自分の中の何かが一つずつ失われていってしまったからなのだろうか。
朝日の中にあった何か。私の中にある何か。
それが、人間らしく暮らす上で大切なものなんだろうってことは、なんとなくわかる。でも、たぶん、本当の意味では理解できていない。愛情が、私にはきちんと理解できていないように。
急に喉がぎゅうっと詰まったような感覚がして、そこから出た声は、声と言うより空気で、まるで隙間風みたいだった。
「私もいっそのこと、そういう人たちに拾われたらよかったよ」
朝日を慰めようとか、冗談のつもりで言ったわけじゃなかった。
子供の私が大人の朝日を慰めようなんておこがましいし、私は子供だけど、それがこんな時に言っていい冗談かどうかはちゃんとわかる。
最初に朝日が私を受け入れた時の、諦めの声にも似たそれは、むしろ本音に近かった。
だって、そうしたら、少なくともその人たちにとっては、私は必要な存在だ。
他人を傷つける術を学ぶことは、自分の中に取り入れていくことは、きっと想像以上に難しくて悲しいことなんだろう。でも、誰からも必要とされない、愛されない今の暮らしだって、過酷じゃないわけじゃない。悲しくないわけじゃない。
それでも、朝日に会うまでは、私はずっと自分の感情に蓋をして過ごしてきた。その蓋は今、優しいメロディと歌声、笑顔や言葉に触れて、少しずつ緩み始めている。
「僕は」
ひときわ澄んだ声が聞こえて、私は目線を上げた。
朝日がじっとこちらを見ていた。
「凛子が、僕がいるような世界にいなくて、よかったと思う」
その時、自分のごはんをすっかり平らげたレインが、ぴょいと私の膝の上に乗ってきた。小さく悲鳴を上げてしまう。か弱い、でも、確かな重みを決して落とさないように、両方の太ももに力を込めて受け止める。
レインはそこで悠々と毛繕いを始めた。
窓から射し込む光の玉が、黒くツヤツヤとした毛並みの上で、コロコロと転がる。
朝日がふっと鼻で笑った。
「……猫は、愛情が深い人間がわかるんだよ」
そう言うと、再びトーストを手に取った。
「凛子は、とても愛に満ち溢れている。それは、僕がいる世界では育まれないものだ」
「おかしなこと言うね」
そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。つい、朝日を睨んでしまう。
「私は愛に溢れてなんかいない」
あんな家庭で育った私の中に、溢れるほどの愛情が育まれるはずがない。
「僕にはわかる」
「人殺しを頼んだくらいなのに」
それに対しては、朝日は何も言わなかった。冷めたトーストを頬張る。
「それを言うなら朝日こそ。朝日のほうが、私なんかよりずっと愛に溢れてるように思える」
それはおべっかとかではなく、本当にそう思ったから。
朝日は、私に嘘をつかないと言った。私も、朝日に対していつでも本当のことを話していた。どちらかと言うと、朝日のほうが言いにくい話は山ほどあるはずで、それでも誠実に、ある程度のことは隠さずに教えてくれる。私もそれに応えたかった。
「僕は愛情が深くない」
「だって、そんなに優しいのに」
朝日が持つ優しさを愛と呼ぶのなら、間違いなく、朝日の身体の中にはパンパンに愛が充満している。
すると、朝日は一時だけ目をふせた。
「……優しいのと、愛情が深いのとは違うんだよ」
そんな難しいことを言うのはずるいと思った。私はまた朝日を睨む。
朝日は私に少し微笑みかけ、話を戻した。
「凛子は、いつでも相手のことをいちばんに考えるでしょう。そして、与えることができる」
「そんなことないよ」
本当にそんなことないけれど、もし朝日にそう見えるのだったら、それは誤解しているだけだ。
私が自分をそっちのけにして相手の感情や望むものを優先するのは、そうやって自分の身を守っているから。自分が傷つくのが嫌だから、相手を怒らせないように気遣っているだけ。それは優しいわけでも、愛情に満ち溢れているわけでもない。
朝日は首を振る。
「いや、そんなことある。僕にはできない」
朝日は、また窓のほうに目線をずらした。太陽のプリズムが、長いまつ毛の先端でゆらゆら燃えている。
私の心もゆらゆらした。蝋燭の炎のように、頼りないのに、しつこく揺らめいた。
「僕はね、誰かに何かを与えてあげられるような人間じゃないんだ。奪うことしかできない。この世にいちばん存在しちゃいけない人種なんだよ」
「……殺し屋だから?」
単刀直入に私が訊くと、朝日は窓の外を見たまま、ほろっと頬を緩めたあとで、「そうだね」と言った。
どうしてそこで笑うのかわからない。
朝日は泣いてはだめなところで泣き、笑わなくていいところで笑う。
「凛子は、僕みたいな生き方をしちゃいけない。だから、殺し方なんて覚えたらだめだ」
私はそこで初めて知る。
朝日は私の支払い能力を心配して、お願いを断ったのではなかった。私自身を心配してくれたのだ。
それは嬉しい。嬉しいけれど。
「でも」
私は言いかけて、一旦口をつぐむ。うつむいて、感情が暴走してしまうのを抑えるように、懸命にレインの背中を撫でた。
「……でも、どうしても、憎んで、いなくなってくれたらいいのにって思っちゃうんだ。その気持ちは、自分にも止められない」
毎日、毎秒、パパの不幸を願っている。パパが本当にいなくなったら、生活できなくなって困るのは私なのに。
愛に溢れているどころか、私の心は真っ黒だ。ニコチンが染み出した水みたいに汚れまくっている。
「それでも」
朝日は静かに腕を伸ばしてきて、私の横の髪に触れた。
「手をかけてしまわなければ、救われる道はいくつもある」
ふわりと耳元に温もりを感じたかと思うと、それはするすると遠ざかる。変にどぎまぎしてぎこちなく顔を上げると、朝日は「レインの毛」と言って微笑んだ。その親指と人差し指が、蜘蛛の糸のように光る猫の毛をつまんでいた。
「……凛子」
朝日が指を放すと、黒い猫の毛は音も立てずに落ちていく。
「人を一人撃つとね、自分の中の何かが一つ死んでいくんだ」
人を一人撃つと、自分の中の何かが一つ死んでいく。
朝日がいつもどこか寂しそうなのは、人を撃つことで、そうやって、自分の中の何かが一つずつ失われていってしまったからなのだろうか。
朝日の中にあった何か。私の中にある何か。
それが、人間らしく暮らす上で大切なものなんだろうってことは、なんとなくわかる。でも、たぶん、本当の意味では理解できていない。愛情が、私にはきちんと理解できていないように。
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