33 / 49
interphone
しおりを挟む
インターホンが鳴った。
最初、この部屋のものだとは思わなかった。
ひどくぼんやりとした音に聞こえたし、インターホンを鳴らすような来客は、我が家には滅多にない。
左隣の部屋はこの時間、いつも留守のはずで、そっちにお客さんが来たんだろうと思った。思いたかった。だって、右隣は朝日の部屋だ。殺し屋の部屋に用事がある人間は今、あの男たちくらいしか思い当たらない。
どこか暢気な、乾いた音が二回、三回と続けて鳴った時、そして、癇癪を起こしたみたいにドアを蹴り続けていた、パパの足音がやんだ時。ようやく我が家のインターホンなのだと気づいた。
パパが舌打ちをした。ドアの前から気配が遠ざかる。来客を追い返すため、玄関に向かったのだろう。
逃げるなら今なのに、私は動けなかった。自分が呼吸をしているのかどうかの自覚さえなかった。ただ、濡れたパーカーが重い。手がじんじんと痛い。
玄関のドアが開かれた。すぐにパパの怒鳴り声が響き渡るかと思いきや、予想は外れた。誰かとやり取りをしている。話し声がボソボソと届いてくる。いったい誰だろう。大家さんだろうか。
そうかと思うと、突然、パパが声を荒らげた。
「なんだよ!! 俺が自分の子供に何しようと勝手じゃねぇか! あんたに迷惑はかけてねぇだろ!」
私はうなだれたまま、息苦しい穴の中から這い上がるような気持ちで、ようやっとノブを回した。
この隙に逃げようと考えたわけじゃなかった。単純に、パパが誰と話しているのかが気になっただけだ。
パパは権利者みたいな相手に弱い。もしやって来たのが大家さんだったら、もう少し下手に出るはずだ。でも、面倒なセールスといった雰囲気でもない。
身体の重みに押されて、ドアが静かに開く。そのまま床に倒れ伏した。消耗し切ってしまったのか、全身に力が入らない。匍匐前進みたいな形で、どうにか上半身を廊下に出した。
耳に流れ込んできたのは、熱くも冷たくもない、まったく温度のない声。威勢のいいパパの声とは対照的に、冷静に一定のリズムを取って吐き出されている。男性の声だ。
「かけていますよ。朝から大きな声を出して。僕だけじゃない、他の近所の方にとっても迷惑です」
薄汚れた作業着のパパの背中に、顔を半分隠すようにして向かい合っていたのは、朝日だった。
「はあ? 平日の朝だぞ。どこのやつも仕事に出かけてるよ! 俺はクソガキのせいで大変な目に遭った。今帰ってきたんだ。お仕置きは当然だろ!」
「お仕置き? 今はそういうの問題になっていますね。場合によっては通報しますよ」
「ふざけんな、てめぇ!」
目が合う。
思わず瞳を揺らしても、朝日はまったく動じない。
じっと見ていると、朝日はパパに気づかれないように静かに目を閉じる。それから、ゆっくりと開いた。何かを訴えかけてくるみたいに。
額に閃光が走った気がした。
ぐっと手の甲で涙を拭い、自分を奮い立たせて立ち上がる。もつれる足でベランダへ向かって走り出した。
「あ、このやろう!」
パパが振り返り、捕まえようと迫ってくるのを背後に感じながら、私は一気に居間を走り抜く。
ガラス窓が開いていた。
開けたばかりなのか、もっと前から開けっぱなしだったのか。猫が一匹通り抜けられそうな細い隙間から入り込む風が、レースのカーテンをふわりと舞い上がらせている。
吸い込まれるように、そこに手を伸ばす。
手が窓枠に届いた瞬間、反対の手首をパパに取られた。熱く、痛い感触。
振り返ったら捕まってしまうと思い、精一杯力を込めてその手を払って、窓の外に飛び出す。パパが何か怒鳴ったけど、何を言ったのか、その言葉を脳の中で反復する余裕はなかった。
考えるより先に、急いで窓を閉める。
とたんに、ごく近くで、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
窓を閉めた際に、パパの指を巻き込んでしまったようだ。相当な衝撃だったのだろう。パパは声も出せずに、指を押さえて背中を丸めて、その場にうずくまった。
予期せず人を傷つけたことに、怯んで、戦慄した。
その瞬間、私の耳に飛び込んできたのは、ドン! と何かを強く叩く音。
音がしたほうへふらふらと目線を上げると、土足で部屋に上がり込んでいた朝日が、自分のこぶしを壁に打ちつけていた。
怯える瞳が捉えた朝日は、毅然とした視線で、私をまっすぐに射抜いていた。
ともすれば倒れそうだった心は、それでなんとか持ち直した。私は隣の、朝日の部屋のほうのベランダへと歩み出した。
最初、この部屋のものだとは思わなかった。
ひどくぼんやりとした音に聞こえたし、インターホンを鳴らすような来客は、我が家には滅多にない。
左隣の部屋はこの時間、いつも留守のはずで、そっちにお客さんが来たんだろうと思った。思いたかった。だって、右隣は朝日の部屋だ。殺し屋の部屋に用事がある人間は今、あの男たちくらいしか思い当たらない。
どこか暢気な、乾いた音が二回、三回と続けて鳴った時、そして、癇癪を起こしたみたいにドアを蹴り続けていた、パパの足音がやんだ時。ようやく我が家のインターホンなのだと気づいた。
パパが舌打ちをした。ドアの前から気配が遠ざかる。来客を追い返すため、玄関に向かったのだろう。
逃げるなら今なのに、私は動けなかった。自分が呼吸をしているのかどうかの自覚さえなかった。ただ、濡れたパーカーが重い。手がじんじんと痛い。
玄関のドアが開かれた。すぐにパパの怒鳴り声が響き渡るかと思いきや、予想は外れた。誰かとやり取りをしている。話し声がボソボソと届いてくる。いったい誰だろう。大家さんだろうか。
そうかと思うと、突然、パパが声を荒らげた。
「なんだよ!! 俺が自分の子供に何しようと勝手じゃねぇか! あんたに迷惑はかけてねぇだろ!」
私はうなだれたまま、息苦しい穴の中から這い上がるような気持ちで、ようやっとノブを回した。
この隙に逃げようと考えたわけじゃなかった。単純に、パパが誰と話しているのかが気になっただけだ。
パパは権利者みたいな相手に弱い。もしやって来たのが大家さんだったら、もう少し下手に出るはずだ。でも、面倒なセールスといった雰囲気でもない。
身体の重みに押されて、ドアが静かに開く。そのまま床に倒れ伏した。消耗し切ってしまったのか、全身に力が入らない。匍匐前進みたいな形で、どうにか上半身を廊下に出した。
耳に流れ込んできたのは、熱くも冷たくもない、まったく温度のない声。威勢のいいパパの声とは対照的に、冷静に一定のリズムを取って吐き出されている。男性の声だ。
「かけていますよ。朝から大きな声を出して。僕だけじゃない、他の近所の方にとっても迷惑です」
薄汚れた作業着のパパの背中に、顔を半分隠すようにして向かい合っていたのは、朝日だった。
「はあ? 平日の朝だぞ。どこのやつも仕事に出かけてるよ! 俺はクソガキのせいで大変な目に遭った。今帰ってきたんだ。お仕置きは当然だろ!」
「お仕置き? 今はそういうの問題になっていますね。場合によっては通報しますよ」
「ふざけんな、てめぇ!」
目が合う。
思わず瞳を揺らしても、朝日はまったく動じない。
じっと見ていると、朝日はパパに気づかれないように静かに目を閉じる。それから、ゆっくりと開いた。何かを訴えかけてくるみたいに。
額に閃光が走った気がした。
ぐっと手の甲で涙を拭い、自分を奮い立たせて立ち上がる。もつれる足でベランダへ向かって走り出した。
「あ、このやろう!」
パパが振り返り、捕まえようと迫ってくるのを背後に感じながら、私は一気に居間を走り抜く。
ガラス窓が開いていた。
開けたばかりなのか、もっと前から開けっぱなしだったのか。猫が一匹通り抜けられそうな細い隙間から入り込む風が、レースのカーテンをふわりと舞い上がらせている。
吸い込まれるように、そこに手を伸ばす。
手が窓枠に届いた瞬間、反対の手首をパパに取られた。熱く、痛い感触。
振り返ったら捕まってしまうと思い、精一杯力を込めてその手を払って、窓の外に飛び出す。パパが何か怒鳴ったけど、何を言ったのか、その言葉を脳の中で反復する余裕はなかった。
考えるより先に、急いで窓を閉める。
とたんに、ごく近くで、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
窓を閉めた際に、パパの指を巻き込んでしまったようだ。相当な衝撃だったのだろう。パパは声も出せずに、指を押さえて背中を丸めて、その場にうずくまった。
予期せず人を傷つけたことに、怯んで、戦慄した。
その瞬間、私の耳に飛び込んできたのは、ドン! と何かを強く叩く音。
音がしたほうへふらふらと目線を上げると、土足で部屋に上がり込んでいた朝日が、自分のこぶしを壁に打ちつけていた。
怯える瞳が捉えた朝日は、毅然とした視線で、私をまっすぐに射抜いていた。
ともすれば倒れそうだった心は、それでなんとか持ち直した。私は隣の、朝日の部屋のほうのベランダへと歩み出した。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる