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happiness
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どのくらいの時間が経ったのかわからない。
私の太ももをレインが爪でカリカリと引っ掻いたことで、ようやく朝日の肩から顎を離した。
朝日がゆるりと腕をほどいて、私の顔を確認する。
涙はもうほとんど乾いていた。濡れているのは、朝日のセーターの肩口だけだ。
「落ち着いた?」
朝日は小首をかしげて目を細めた。
泣きはらした顔を、すごく近くで見つめられていることも、腰に腕を回されていることも、すべてが恥ずかしい。言いたいことも訊きたいことも、両手に抱えられないほどあったけれど、目をごしごしと擦るふりして顔を隠しながら、小さく頷いた。
とても長い時間、二人で抱き合っていたような気がするのに、壁の時計を見上げると、私が自分の家に出向いてから二時間も経っていない。時を飛び越えてきたみたいな感じだ。
あんなに胸の中を支配していた痛みや、黒い憎悪は、跡形もなくなってしまうことはもちろんないけれど、でも、とても小さくなっていた。
それも、涙を流したことによる効果なんだろうか。
「レインが仲間に入れてほしそうだ」
しなやかな身体の黒猫は、前脚を私の太ももにかけたままでいた。ぐんと背中を反らして、大きな瞳を光らせながら、ふんふんと鼻を鳴らす。
腰を曲げてレインに手を伸ばす。
抱き上げて、ふさふさとした毛のお腹に顔をうずめる。思いきり息を吸い込むと、日向の匂いがした。太陽に向かって咲くヒマワリの、眩しい黄色がまぶたの裏に浮かんだ。
人間に酷い目に遭わされたというのに、人間を恐れない。それは不幸なことなのか、幸福なことなのか。私はまだ経験が浅いから、今は答えが出そうもない。
「……ごめんなさい」
レインを下ろすのと一緒に、私は床にするするとお尻をつけた。
「朝日の服、洗濯機に放り込んだままなんだ。取りに行きたいけど」
パパと鉢合わせしてしまうのが怖い。
あれから、パパはどうなったんだろう。どうして怒鳴り込んでこないのか。
ベランダに出た私がどこへ行ったのか、まるで見当がつかないのだろうか。そうだとほっとする反面、そんなバカなという思いも湧いてくる。
パパが予想を裏切っておとなしいことで、不安に駆られていた。刑事を騙ったあの男たちだって静かすぎる。私が嘘をついていたって、とっくにわかったはずなのに。
穏やかすぎる時間が、嵐の前の静けさみたいでとても不気味に思えた。
朝日は、その場にあぐらをかいて座った。
「かまわないよ。一張羅ってわけじゃないし。服なら、また買えば済むことだ」
その言い方は、物に執着しない朝日らしいと思った。
そして、落ち着いている。朝日はいつだってどんな場合だって、決して取り乱さない。これまでに、私なんかが想像もつかない、様々な修羅場をくぐり抜けてきたからなのかもしれない。
「それよりも、問題は、凛子がこれからどうするかだ」
視界が急に暗くなった。
重く大きな暗幕のようなものに追いつかれて、背中からとっぷりとくるまれたような気分だった。
朝日の開いた足の間にレインがひょいっと収まり、その暢気な光景が、私との落差をより強調する。
「自宅に戻ることは勧めたくない。でも、僕がずっとそばにいてあげることはできない」
優しい殺し屋は睫毛をふせた。
「……大丈夫」
私は少しうつむいて、そのままの角度で言う。
何が大丈夫なのか。ちっとも大丈夫じゃないのに。我ながらそれがおかしくなって、口角を上げた。
「大家さんのところに、少しの間置いてもらえるように頼んでみてもいいし。しばらくすれば、パパの機嫌も良くなるかもしれないし」
あり得ないと自分がいちばん呆れながら、顔を上げた。笑ってみせた。
「先のことって、何があるかわからないもんね」
そうだ。未来のことなんて誰にもわからない。
明るい希望を夢見たことなんてなかった。でも、今日くらいは、少しだけ縋ってみようかなって気分になっている。
私は床に視線を迷わせて、それを探し出すと、指でつまみ上げた。
カタバミの葉。
朝日の目線の高さに持っていくと、ためらうことなく、最後の一枚を千切ってみせた。
私の望みを乗せた葉は、重力に惑わされながら、ひらひらと落ちていく。きっと、今まででいちばん邪気がなくて、そして、少しだけ悲しい滑空。
だって、未来が明るいものだろうと、暗いものだろうと、どちらにしろ、そこにもう朝日はいないのだ。
「……そうだね」
空気に消え入りそうな声を出して、朝日は頷いた。
きっと朝日は気づいている。私が今、どんな思いを抱えているのか。でも、それには見ないふりをした。
納得できる答えばかりじゃない。でも、無理やり折り合いをつけないと、先に進んで行けない。
そういうことが人生にはたくさんあって、私のこれからにも、まだまだたくさんあるのだろう。
だから、このくらいのことで心を震わせたらいけない。
朝日は教えてくれた。
泣くことの意味。強くなること。彼なりの誠意をもって、私に伝えてくれた。
それに私も、私なりの誠意で返さなきゃいけないって強く思う。
踏ん切りをつけるみたいに一旦目線を下げると、私はおずおずと切り出した。
「……あのさ、謝らなきゃいけないことが、他にもあって」
「うん?」
「実は」
恥ずかしさを噛み殺しつつ言う。
「慌ててたから……この下に何も着てないんだ。ごめんなんだけど、下着と、当面の服を買うお金を貸してくれないかな……」
「え?」
朝日は小さく驚きを表したあと、ちょっと黙る。それから、噴き出した。
「そうか。ごめん、すぐに気づかなくて。いいよ、買ってあげる。返さなくていいから」
「ごめんなさい」
「いいよ。じゃあ、お昼ご飯の買い出しもかねて、今から買い物に行こう」
朝日が床から腰を浮かすと、レインが慌てて足の間から飛び出して、少し離れたところに着地した。こちらを振り返った目が、気持ちよく寝ていたのに、とむくれているように見えて微笑ましかった。
「ごめんなさい。それから」
「まだあるの?」
朝日が目を丸くする。
私は自分の足の裏を指さした。
「また床を汚しちゃって、ごめんなさい……」
謝りながら、最後まで言い切らないうちにクスクスと笑いを漏らす。
朝日は肩をすくめてみせ、すぐに優しく笑った。
この瞬間、私は間違いなく幸福だと思ったけれど。
本当は朝日があの時、一緒に逃げようかって言ってくれるのを、一瞬でも期待してしまったってことは、朝日が困るだろうから言わない。
私の太ももをレインが爪でカリカリと引っ掻いたことで、ようやく朝日の肩から顎を離した。
朝日がゆるりと腕をほどいて、私の顔を確認する。
涙はもうほとんど乾いていた。濡れているのは、朝日のセーターの肩口だけだ。
「落ち着いた?」
朝日は小首をかしげて目を細めた。
泣きはらした顔を、すごく近くで見つめられていることも、腰に腕を回されていることも、すべてが恥ずかしい。言いたいことも訊きたいことも、両手に抱えられないほどあったけれど、目をごしごしと擦るふりして顔を隠しながら、小さく頷いた。
とても長い時間、二人で抱き合っていたような気がするのに、壁の時計を見上げると、私が自分の家に出向いてから二時間も経っていない。時を飛び越えてきたみたいな感じだ。
あんなに胸の中を支配していた痛みや、黒い憎悪は、跡形もなくなってしまうことはもちろんないけれど、でも、とても小さくなっていた。
それも、涙を流したことによる効果なんだろうか。
「レインが仲間に入れてほしそうだ」
しなやかな身体の黒猫は、前脚を私の太ももにかけたままでいた。ぐんと背中を反らして、大きな瞳を光らせながら、ふんふんと鼻を鳴らす。
腰を曲げてレインに手を伸ばす。
抱き上げて、ふさふさとした毛のお腹に顔をうずめる。思いきり息を吸い込むと、日向の匂いがした。太陽に向かって咲くヒマワリの、眩しい黄色がまぶたの裏に浮かんだ。
人間に酷い目に遭わされたというのに、人間を恐れない。それは不幸なことなのか、幸福なことなのか。私はまだ経験が浅いから、今は答えが出そうもない。
「……ごめんなさい」
レインを下ろすのと一緒に、私は床にするするとお尻をつけた。
「朝日の服、洗濯機に放り込んだままなんだ。取りに行きたいけど」
パパと鉢合わせしてしまうのが怖い。
あれから、パパはどうなったんだろう。どうして怒鳴り込んでこないのか。
ベランダに出た私がどこへ行ったのか、まるで見当がつかないのだろうか。そうだとほっとする反面、そんなバカなという思いも湧いてくる。
パパが予想を裏切っておとなしいことで、不安に駆られていた。刑事を騙ったあの男たちだって静かすぎる。私が嘘をついていたって、とっくにわかったはずなのに。
穏やかすぎる時間が、嵐の前の静けさみたいでとても不気味に思えた。
朝日は、その場にあぐらをかいて座った。
「かまわないよ。一張羅ってわけじゃないし。服なら、また買えば済むことだ」
その言い方は、物に執着しない朝日らしいと思った。
そして、落ち着いている。朝日はいつだってどんな場合だって、決して取り乱さない。これまでに、私なんかが想像もつかない、様々な修羅場をくぐり抜けてきたからなのかもしれない。
「それよりも、問題は、凛子がこれからどうするかだ」
視界が急に暗くなった。
重く大きな暗幕のようなものに追いつかれて、背中からとっぷりとくるまれたような気分だった。
朝日の開いた足の間にレインがひょいっと収まり、その暢気な光景が、私との落差をより強調する。
「自宅に戻ることは勧めたくない。でも、僕がずっとそばにいてあげることはできない」
優しい殺し屋は睫毛をふせた。
「……大丈夫」
私は少しうつむいて、そのままの角度で言う。
何が大丈夫なのか。ちっとも大丈夫じゃないのに。我ながらそれがおかしくなって、口角を上げた。
「大家さんのところに、少しの間置いてもらえるように頼んでみてもいいし。しばらくすれば、パパの機嫌も良くなるかもしれないし」
あり得ないと自分がいちばん呆れながら、顔を上げた。笑ってみせた。
「先のことって、何があるかわからないもんね」
そうだ。未来のことなんて誰にもわからない。
明るい希望を夢見たことなんてなかった。でも、今日くらいは、少しだけ縋ってみようかなって気分になっている。
私は床に視線を迷わせて、それを探し出すと、指でつまみ上げた。
カタバミの葉。
朝日の目線の高さに持っていくと、ためらうことなく、最後の一枚を千切ってみせた。
私の望みを乗せた葉は、重力に惑わされながら、ひらひらと落ちていく。きっと、今まででいちばん邪気がなくて、そして、少しだけ悲しい滑空。
だって、未来が明るいものだろうと、暗いものだろうと、どちらにしろ、そこにもう朝日はいないのだ。
「……そうだね」
空気に消え入りそうな声を出して、朝日は頷いた。
きっと朝日は気づいている。私が今、どんな思いを抱えているのか。でも、それには見ないふりをした。
納得できる答えばかりじゃない。でも、無理やり折り合いをつけないと、先に進んで行けない。
そういうことが人生にはたくさんあって、私のこれからにも、まだまだたくさんあるのだろう。
だから、このくらいのことで心を震わせたらいけない。
朝日は教えてくれた。
泣くことの意味。強くなること。彼なりの誠意をもって、私に伝えてくれた。
それに私も、私なりの誠意で返さなきゃいけないって強く思う。
踏ん切りをつけるみたいに一旦目線を下げると、私はおずおずと切り出した。
「……あのさ、謝らなきゃいけないことが、他にもあって」
「うん?」
「実は」
恥ずかしさを噛み殺しつつ言う。
「慌ててたから……この下に何も着てないんだ。ごめんなんだけど、下着と、当面の服を買うお金を貸してくれないかな……」
「え?」
朝日は小さく驚きを表したあと、ちょっと黙る。それから、噴き出した。
「そうか。ごめん、すぐに気づかなくて。いいよ、買ってあげる。返さなくていいから」
「ごめんなさい」
「いいよ。じゃあ、お昼ご飯の買い出しもかねて、今から買い物に行こう」
朝日が床から腰を浮かすと、レインが慌てて足の間から飛び出して、少し離れたところに着地した。こちらを振り返った目が、気持ちよく寝ていたのに、とむくれているように見えて微笑ましかった。
「ごめんなさい。それから」
「まだあるの?」
朝日が目を丸くする。
私は自分の足の裏を指さした。
「また床を汚しちゃって、ごめんなさい……」
謝りながら、最後まで言い切らないうちにクスクスと笑いを漏らす。
朝日は肩をすくめてみせ、すぐに優しく笑った。
この瞬間、私は間違いなく幸福だと思ったけれど。
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