運命のひとーSADAME NO HITOー

朋藤チルヲ

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 予測できる福永さんのルートは二択だ。
 倉庫でブッキングした時のように、駐車場から建物をぐるりと回って裏手のドアから入ってくるか、正面の自動ドアからちょくでくるか。

 相馬さんのあとを追うようにして、のろのろとバックルームを進んでいたわたしの前に、後者を選んだ福永さんが姿を見せた。

 濃いグレーのスーツに、「BEYOK」のロゴが入れられた紺色のスタッフジャンパー。いつもと変わらない出で立ちで、正面から歩いてくる。バックルームは少し暗いからか、わたしを見てわずかに首をかしげた。

「お、お疲れさまです」
「ああ」

 福永さんは目の前までくると、手を差し出した。
 指の長い、大きな手のひらをぼーっと眺めてしまう。
 倉庫の中であの時、この手が温もりを携えてわたしの背中に添えられた。さすってくれた。

「出張届だね。受領印を押そう」
「あ、はい」

 ぼんやりしている場合ではない。福永さんは忙しいのに、わざわざわたしのために売り場に回ってくれたのだ。急いで用紙を手渡す。
 手に取って眺めながら、胸ポケットを探っていた福永さんは、すぐに「これ」と用紙をこちらに戻してきた。

「何も記入していないじゃないか」
「あ、すみません!」

 そうだ。必要事項を書いてから受領印を、と言われていた。

「すみません、あの、とりあえず印鑑だけください。あとから書きます……」

 言ってしまってから、やばいと青くなる。気を遣ったつもりが、これでは堂々とした不正宣言だ。
 福永さんは鼻から息を抜く。蔑むような雰囲気だったことが、わたしを傷つけた。

「それは本来の手順ではない。今書きなさい」
「はい……」

 またやってしまった。

 すぐそばに、片づけ忘れか、使用中なのか、キャスター付きの作業台が放置されていた。福永さんはそれを引き寄せて、この上で書けばいい、と寄越した。
 書き終えたら持っていきます、とはもう言い出せなかった。

 書き始めるとすぐ、狭い台上に、福永さんは片方の肘を引っかけた。
 ノートパソコンが一台置ける程度のスペース。用紙に向かっていても、頭のてっぺんがジャンパーの袖に触れそうで気が気ではない。
 香水なのかシャンプーなのか、爽やかなマリン系の香りが漂う。すれ違った時にたびたび鼻に届いた、福永さんの香り。前からずっと、嫌いではなかった。

「体調はもういいのか」

 頭の上から、低い声が降ってくる。

「え? あ、はい」
「ああいうことは、よくあるのか」

 一瞬、ぼんやりする。
 倉庫でのことを言っているとは、すぐにわかった。水に濡れて倒れ込むことは、あれが初めて。即座にそう答えられなかったのは、単純に答え慣れていなかったからだ。

「あ、いえ……あそこまで激しいことは」
「そうか。子供の頃に、溺れかけたと言ったな」
「あ、はい。えっと……」
「いや、いい。他人にベラベラと話したいことでもないだろう」

 確かに、誰彼かまわず話して聞かせたい内容ではない。
 でも、不思議だけど、福永さんに今話そうと思えば、それはできる気がした。

 これまでにも、水を異常に怖がるわたしと居合わせた人はいた。大抵が驚いて、それから、遠巻きになった。腫れ物に触るかのようになったり、影で笑いものにしたりする人もいた。

 だけど、福永さんはそのどれでもない。
 わたしは、それを嬉しいと感じているのかもしれない。

「手が止まっている」
「あ、すみません、すみません」
「謝るのは一度でいい」
「すみません、あ……」
「君は本当に」

 ため息が吐き出される。自分が愚かすぎて、顔も上げられない。

「一人にしておけないな」

 福永さんはぼそりと言うと、作業台から身体を離した。

「え……」
「当日、新店まで何で向かうつもりでいる?」

 書き終えたこともあって、ようやく顔を上げる。質問の意味が飲み込めず、瞬きを繰り返した。間を置いて、応援の日の足を訊かれているのだと気づいたけど、やっぱりすぐには答えられない。琴音と二人で向かうことは間違いない。でも、まだ先のことだからと、交通手段なんて話し合っていなかった。

「できれば、自家用車できてもらいたいのだが」
「自家用車、ですか?」
「開店時刻に間に合う電車はなかったはずだ。しかも、新店は駅から離れている。タクシーを使わなければならない」

 そこまで聞くと、福永さんの意図がわかった。

「高速を使っても二時間半程度かかる距離だが、そっちのほうが交通費を抑えられるんだ。経営者の身内に、こんなことを言うのは心苦しいが」
「あ、いえ。それはいいんですが……」

 はっきり言えば、会社はそれほど利益が出ているわけではなかった。
 しかたがないと思う。世の中は不景気だ。衣食住のうちの「衣」はどうしたって後回しになってしまう。

 ただ、わたしも琴音も、運転免許を取得したのは短大を卒業してから。車を走らせるのはもっぱら近隣だけで、高速道路を走ることにそこまで自信がなかった。
 わたしの不安が伝わったのだろう、福永さんが提案してくれた。

「朝は早くなるが、それでもいいなら乗せていくが」
「え」
「どうせセール中は毎日、自分も行く。慣れない高速の運転で、事故を起こされるよりマシだ」

 思いがけない提案に、口を開けて目をしばたたいてしまう。

「もう一度念を押すが、朝は早い。それで了承するなら、藤井さんも一緒に行きも帰りも乗せていってやろう」
「え、え、でも」
「ああ、それと」

 福永さんはかがんで、胸ポケットからボールペンを取り出し、お尻に付いたシャチハタを出張届に押した。部長受領印の欄に残る、赤い「福永」。用紙を差し出しながら、冷たい顔と声で言った。

「底意地悪くて優しくない、大っ嫌いな上司の運転でよければ。それも確認しておくといい」

 出張届を握りしめたまま、卒倒しそうになった。
 やっぱりわたしたちが話していた内容は全部、丸聞こえだったのだ。
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