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連れてこられたのは、居酒屋だった。
個人経営の、カウンターと小上がり席が三つだけの小さな店舗は、四十代とおぼしき夫婦が二人だけで切り盛りしているらしい。
わたしたちの他に、お客さんは誰もいない。
平日だからなのか、混み合うのはもっと遅い時間からなのか。どちらもあり得る理由だとは思うけど、どこか不自然にも感じられた。
でも、小上がり席の一つで、福永さんと向かい合うわたしには、そんな些細な謎にじっくり向き合って解き明かす余裕なんてなかった。
「俺がだらだらと語るよりも、君が訊きたいことを訊いたほうがいいだろう」
おしぼりで手を拭きながら、大したことではないことのように福永さんは言った。
「俺が答えられることなら、何でも答える」
「何でも……えっと、でも……」
横目でカウンターのほうを窺う。
「気にする必要はない。ここのマスターも奥さんも、できた人たちだ」
「常連さん、なんですか? 福永さん」
「そこまでと言えるかわからないが。まぁ、それなりに来ている」
「雰囲気の良いお店です」
「社長もお気に入りだ」
思いがけない存在が登場したものだから、つい息を飲んでしまった。
「気兼ねなく話すには、最適な店なんだそうだ」
優しそうな女性が、テーブルにウーロン茶とオレンジジュースのグラスを置いて去る。わたしたちの関係も、お見合いの話も知っているのかもしれない。まさかとは思いつつ、面伏せな気分でその後ろ姿を見送った。
搾り立てのオレンジジュースを一口含む。気持ちを落ち着かせたかった。
訊きたいことを言われても、いざとなると、何から尋ねたらいいかまとまらない。怖さもある。
わたしの心はもう、すべての真実を受け止める準備が整っただろうか。自分のことなのに、まるでわからなかった。
だけど、いつまでも押し黙ってはいられない。
「福永さんは……」
声が震える。唇が震えているからと言うより、喉の奥から振動しているのだ。
「わたしの、恩人なんですか……?」
わたしの勇気は、わたし同様に気が小さい。それでも、これだけは明らかにしておかなければ。
「恩人か」
福永さんは静かにつぶやいて、ウーロン茶のグラスに口をつけた。
「溺れてかけたわたしを……川に飛び込んで、助けてくれたんですか?」
なんだか自分の声が遠く聞こえる。
福永さんはグラスを下ろした。こちらを見ない。控えめに上下する肩で、小さく息を吐いて出したのがわかった。話し始める準備だ。胃が縮まる。
「そうだ」
福永さんは端的に答えた。
「俺があの日、君を増水した川から引っ張り上げた」
くらりと世界が歪んだ。
まぶたを閉じる。睫毛が小刻みに震えている。
ショックを受けていた。
わたしは心のどこかで、この期に及んで、姉の話がデタラメならいいと願っていたのだろう。
「高校生だった。水泳部に所属していて、部活を早めに切り上げて自宅に戻る途中だった」
「聞いて、います……姉から」
なぜ早めに切り上げたのか、その理由も。
「うちは母子家庭なのだが、母親が頑張る人でね」
「母子……家庭」
すぐに妹さんの話が出てくるのかと思っていた。
空っぽのような精神状態とは裏腹に、いつ責めの言葉を浴びせられるのかと、不安で激しく打ちつける鼓動を手で押さえて、次のセリフを待つ。
「そんな母親の助けになればと、高校入学と同時にライフセーバーのバイトを始めた。まさか本当に自分が人命救助する時がこようとは」
ライフセーバーのバイト。
そうか。わたしに素早く応急処置できたのは、専門の知識があったから。
「使命感に駆られてと言うよりかは、ほとんど条件反射のようなものだったな」
わたし自身が覚えていないことを、他人が覚えているということは、とても不思議な感覚。
どんな表情で話してくれているのか確かめたくて、うっすらとまぶたを開けた。福永さんはわたしを見ていない。遠い目をしていた。
福永さんだった。わたしの命を救ってくれた恩人は、本当に福永さんだった。
この日を、再会してお礼を伝えられる日を、ずっと待ち望んでいたはずだった。それなのに、感情の滲まない福永さんの顔を目の前にして、わたしの口からは、ありがとうの言葉が出ていかない。
「……あの日からずっと、わたしの家族とは連絡を?」
ぼんやりと問いかけると、福永さんは少しだけ首を傾けた。
「いや。俺は救急車の到着を待たずに去った。君の無事が確認できれば、それでよかったからな。名前だけは請われてしかたなく教えたが、連絡先は教えていない」
「じゃあ……」
「高校卒業を目前に控えた時」
「え……」
「君の両親が突然、俺の前に現われた。ずっと捜していたらしい。当時はまだSNSも普及していなかった。少ない情報で、よくも捜し出せたものだ」
「どうして……?」
改めてお礼を伝えたかったのだろうか。事故の場では気が動転してしまって、お礼どころではなかったのかもしれない。
福永さんは視線をこちらに向けた。どきりとする。そのままじっと見つめてきたかと思うと、すぐに睫毛を下げた。ウーロン茶を一口、喉に流し込む。
「援助させてほしいと言われた」
「援助?」
「俺に会う前に下調べしたんだろう。大学に通うための費用など払えないだろうと、高をくくられたんだ。うちはいわゆるシングルマザーで、裕福とは言いがたかったからな。家計を全面的に援助させてくれと」
「え……?」
「娘の命を救ってくれた礼らしい。聞けば、企業の経営者夫妻だというじゃないか。俺が助けたのは、地方の中小企業と言えども、社長令嬢だったというわけだ」
寝耳に水って、きっとこういうことを言う。
微塵も想像していなかった事実に、愕然としたことはもちろんだけど、心なしか福永さんの声質が変わったように思えて、それにも驚いていた。
茫然とするわたしの前に、福永さんはジャンパーの内ポケットから、一枚の写真を抜き取って置いた。とん、とテーブルに軽く指を打ちつける音が鳴る。
古い写真。女の子が写っている。こちらを指さして笑っている。
尋ねなくても誰なのかわかった。全身から一気に血の気が引く。
「笑だ。福永笑。俺の妹だ。ちょうど十離れているから、生きていたら二十二だな。君と同じ」
福永さんの妹さん。わたしと入れ替わるように、この世からいなくなってしまった女の子。自分の運命なんて露ほども知らない笑顔から、目が離せない。
「最初は、子供ながらに馬鹿にされたものだと憤ったが、すぐに考え直した。とことん利用してやろうと決めた。俺にはそれが許されるはずだ。そうだろう?」
ゆるゆると視線を上げる。
「君たち家族が、いや、君が。俺の家族を奪ったのだから」
射抜くような眼差しが、わたしを貫いた。座っているのに、深い穴に落ち込んでいく感覚がした。
個人経営の、カウンターと小上がり席が三つだけの小さな店舗は、四十代とおぼしき夫婦が二人だけで切り盛りしているらしい。
わたしたちの他に、お客さんは誰もいない。
平日だからなのか、混み合うのはもっと遅い時間からなのか。どちらもあり得る理由だとは思うけど、どこか不自然にも感じられた。
でも、小上がり席の一つで、福永さんと向かい合うわたしには、そんな些細な謎にじっくり向き合って解き明かす余裕なんてなかった。
「俺がだらだらと語るよりも、君が訊きたいことを訊いたほうがいいだろう」
おしぼりで手を拭きながら、大したことではないことのように福永さんは言った。
「俺が答えられることなら、何でも答える」
「何でも……えっと、でも……」
横目でカウンターのほうを窺う。
「気にする必要はない。ここのマスターも奥さんも、できた人たちだ」
「常連さん、なんですか? 福永さん」
「そこまでと言えるかわからないが。まぁ、それなりに来ている」
「雰囲気の良いお店です」
「社長もお気に入りだ」
思いがけない存在が登場したものだから、つい息を飲んでしまった。
「気兼ねなく話すには、最適な店なんだそうだ」
優しそうな女性が、テーブルにウーロン茶とオレンジジュースのグラスを置いて去る。わたしたちの関係も、お見合いの話も知っているのかもしれない。まさかとは思いつつ、面伏せな気分でその後ろ姿を見送った。
搾り立てのオレンジジュースを一口含む。気持ちを落ち着かせたかった。
訊きたいことを言われても、いざとなると、何から尋ねたらいいかまとまらない。怖さもある。
わたしの心はもう、すべての真実を受け止める準備が整っただろうか。自分のことなのに、まるでわからなかった。
だけど、いつまでも押し黙ってはいられない。
「福永さんは……」
声が震える。唇が震えているからと言うより、喉の奥から振動しているのだ。
「わたしの、恩人なんですか……?」
わたしの勇気は、わたし同様に気が小さい。それでも、これだけは明らかにしておかなければ。
「恩人か」
福永さんは静かにつぶやいて、ウーロン茶のグラスに口をつけた。
「溺れてかけたわたしを……川に飛び込んで、助けてくれたんですか?」
なんだか自分の声が遠く聞こえる。
福永さんはグラスを下ろした。こちらを見ない。控えめに上下する肩で、小さく息を吐いて出したのがわかった。話し始める準備だ。胃が縮まる。
「そうだ」
福永さんは端的に答えた。
「俺があの日、君を増水した川から引っ張り上げた」
くらりと世界が歪んだ。
まぶたを閉じる。睫毛が小刻みに震えている。
ショックを受けていた。
わたしは心のどこかで、この期に及んで、姉の話がデタラメならいいと願っていたのだろう。
「高校生だった。水泳部に所属していて、部活を早めに切り上げて自宅に戻る途中だった」
「聞いて、います……姉から」
なぜ早めに切り上げたのか、その理由も。
「うちは母子家庭なのだが、母親が頑張る人でね」
「母子……家庭」
すぐに妹さんの話が出てくるのかと思っていた。
空っぽのような精神状態とは裏腹に、いつ責めの言葉を浴びせられるのかと、不安で激しく打ちつける鼓動を手で押さえて、次のセリフを待つ。
「そんな母親の助けになればと、高校入学と同時にライフセーバーのバイトを始めた。まさか本当に自分が人命救助する時がこようとは」
ライフセーバーのバイト。
そうか。わたしに素早く応急処置できたのは、専門の知識があったから。
「使命感に駆られてと言うよりかは、ほとんど条件反射のようなものだったな」
わたし自身が覚えていないことを、他人が覚えているということは、とても不思議な感覚。
どんな表情で話してくれているのか確かめたくて、うっすらとまぶたを開けた。福永さんはわたしを見ていない。遠い目をしていた。
福永さんだった。わたしの命を救ってくれた恩人は、本当に福永さんだった。
この日を、再会してお礼を伝えられる日を、ずっと待ち望んでいたはずだった。それなのに、感情の滲まない福永さんの顔を目の前にして、わたしの口からは、ありがとうの言葉が出ていかない。
「……あの日からずっと、わたしの家族とは連絡を?」
ぼんやりと問いかけると、福永さんは少しだけ首を傾けた。
「いや。俺は救急車の到着を待たずに去った。君の無事が確認できれば、それでよかったからな。名前だけは請われてしかたなく教えたが、連絡先は教えていない」
「じゃあ……」
「高校卒業を目前に控えた時」
「え……」
「君の両親が突然、俺の前に現われた。ずっと捜していたらしい。当時はまだSNSも普及していなかった。少ない情報で、よくも捜し出せたものだ」
「どうして……?」
改めてお礼を伝えたかったのだろうか。事故の場では気が動転してしまって、お礼どころではなかったのかもしれない。
福永さんは視線をこちらに向けた。どきりとする。そのままじっと見つめてきたかと思うと、すぐに睫毛を下げた。ウーロン茶を一口、喉に流し込む。
「援助させてほしいと言われた」
「援助?」
「俺に会う前に下調べしたんだろう。大学に通うための費用など払えないだろうと、高をくくられたんだ。うちはいわゆるシングルマザーで、裕福とは言いがたかったからな。家計を全面的に援助させてくれと」
「え……?」
「娘の命を救ってくれた礼らしい。聞けば、企業の経営者夫妻だというじゃないか。俺が助けたのは、地方の中小企業と言えども、社長令嬢だったというわけだ」
寝耳に水って、きっとこういうことを言う。
微塵も想像していなかった事実に、愕然としたことはもちろんだけど、心なしか福永さんの声質が変わったように思えて、それにも驚いていた。
茫然とするわたしの前に、福永さんはジャンパーの内ポケットから、一枚の写真を抜き取って置いた。とん、とテーブルに軽く指を打ちつける音が鳴る。
古い写真。女の子が写っている。こちらを指さして笑っている。
尋ねなくても誰なのかわかった。全身から一気に血の気が引く。
「笑だ。福永笑。俺の妹だ。ちょうど十離れているから、生きていたら二十二だな。君と同じ」
福永さんの妹さん。わたしと入れ替わるように、この世からいなくなってしまった女の子。自分の運命なんて露ほども知らない笑顔から、目が離せない。
「最初は、子供ながらに馬鹿にされたものだと憤ったが、すぐに考え直した。とことん利用してやろうと決めた。俺にはそれが許されるはずだ。そうだろう?」
ゆるゆると視線を上げる。
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