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「なんだ、祐介さん、一緒じゃないの?」
三ヶ月ぶりに実家にやってきたわたしに向かって、肉親が発した第一声がそれだった。
「まずは、『姉さん、お帰り』が正解だと思う。『元気そうで嬉しいよ』がついてもいいかもしれない。ていうか、なんであんたがいるの、雅樹」
「姉さん、お帰り。元気そうで嬉しいよ。オレも呼ばれたんだ、母さんに」
セリフの前半を棒読みで言ってから、雅樹は簡単に経緯を説明した。そして、くるりとわたしに背中を向けたかと思うと、廊下をスタスタと奥へと戻っていく。
開け放って午後の外気を取り込み放題だった、玄関のドアを後ろ手で閉めて、わたしも、顔をしかめたままそれに続いた。
「祐介さん、一緒じゃなかったの? 会っていたんでしょ?」
居間に待ち構えていた母親に、そう言われた際には、さすがにもうツッコミを入れるのが面倒だった。ゲンナリしていると、その後ろで、テーブルを囲んだソファーセットの一つに沈み込んだ雅樹がニヤリとした。
L字型のソファーセットは、一応、本革だ。外国の名立たるブランドの物ではないが、そこそこには値が張る。わたしが初任給で両親にプレゼントした物だ。赤みが強いブラウンは、色くらいはスポンサーという特権を行使してもよかろう、と勝手に選んだ、完全にわたしの趣味である。
そのソファーを、でかい態度で陣取る三つ下の弟に、わたしはいつだって腹立たしさを覚えた。お前のために買ったのではない、と。
今日だって、相も変わらず手足が無駄に長い身体で、広いスペースのほうのソファーを占領している。わたしはわざと雅樹の身体にぶつかるようにして、その隣にワイドパンツの尻を沈ませた。
「途中まで送ってもらったけど、そこで別れたよ。結婚しているわけじゃないんだし、彼女の家の用事に付き合うの、わずらわしいでしょ、普通」
「早いとこ結婚しちまえばいい。そうしたら、オレは好きな時に祐介さんに会えるのに」
ふんぞり返ったままで、雅樹が言った。
「なんで、あんた、そんなに祐介に懐いているわけ。そっちの気があった?」
「オレは兄貴が欲しかったんだよ」
「あぁそう、すみませんね。出来の悪い姉が一人で」
「雅樹の言うことも一理あるわよ。もう三十歳なんだし、さっさと祐介さんと結婚して、お母さんたちを安心させて欲しいわ」
母親はそう嘆いたあとで、ちょうど週刊誌が一冊入るくらいのサイズの、茶封筒を一枚テーブルの上に置いた。中身が入っているような厚みはない。
「娘の誕生日を忘れているようだから、教えるけど、まだ三十歳にはなっていないから。これ、何?」
「おじいちゃんの物を整理していたら、見つけたのよ」
「あぁ、遺品整理ってやつね」
先月、父方の祖父が亡くなった。
勤めるショッピングモールの、取引先の社員である祐介と交際を始める少し前、四年ほど前まで、わたしはこの家で、両親と雅樹、そして祖父の五人で暮らしていた。祖母は、雅樹が生まれてすぐに亡くなっていた。
わたしは、正直言って、祖父が苦手だった。子供の頃から。
無口で不器用な祖父は、典型的な昭和の男性だったと思う。新しい文化や考え方には馴染めず、むしろ軽蔑しているきらいさえあった。
同じ家の中で生活していたから、まったく会話しないということはなかったが、必要最低限だ。どう絡んでいいものやら、わからなかった。
健康だけが取り柄みたいなところがあったのに、一年前、急に倒れた。それ以降、入院と退院を繰り返していた。お見舞いは、仕事が忙しいことを理由に、二回行っただけだ。その時も、ほとんど喋らなかった。
祖父のほうでも、扱いづらい孫だと、敬遠していたに違いない。
「これ、何か入っているの?」
母親は斜め右手、一人掛けのソファーに座り、神妙な顔でうなずく。
「ちょっと見てくれる? どうしたものか、あんたたちの意見を訊きたいと思って」
わたしは雅樹と顔を見合わせ、お互いに首をかしげた。長子という立場上、わたしがその茶封筒に手を伸ばし、開けて、中を覗く。何かある。
取り出すと、それは手紙だった。何の装飾もない白い封筒に、宛名が書かれている。差出人は祖父の名。疑いようがなく、手紙である。
「あ、待って。まだ何か」
わたしは茶封筒を逆さまにした。出てきたそれは、コン、と澄んだ音を鳴らしてテーブルで一度跳ね返り、回転したのちに、そこで落ち着いた。
「五百円……? あ、違う、コインだ」
「貸して」
雅樹がそれを手に取り、しげしげと眺めた。裏返し、また観察する。
「古いけど、記念硬貨の類いじゃないな。ゲーセンのコインでもない。どこかの国の通貨だ」
「おじいちゃん、海外旅行なんて行ったことないよね?」
「ないな。飛行機を信じない人だったから。誰かに貰ったのかも」
二人して母親の反応を窺う。思い当たりは何もない、とでも言うように、肩をすくめてみせてきた。
「宮島 たえ乃様……女性だよね? おじいちゃんとどういう関係の人なんだろう」
わたしは手紙をまじまじと見た。よく見ると、書いてからまぁまぁの年月が経っていることがわかる。万年筆の文字が、赤く変色している。
切手は貼られていない。だから、当然だけども、消印はない。
出されなかった手紙。
「ラブレターかな」
雅樹がはしゃいだ声を出した。
「まさか」
「宮島姓なんて、じいちゃんの口から聞いたことない。古い手紙っぽいし、ばあちゃんと結婚する前に好きだった女性とかで、告白しようとしてそのままとか。あの昔気質なじいちゃんが、浮気はあり得ないし」
「六十年も前に書かれた手紙ってこと? それのほうがあり得ないって。これ、そこまで古くないよ」
「じゃあ、浮気?」
「なんでよ」
そこで、母親が言葉を挟んだ。
「どうしたらいいと思う? お父さんは捨ててしまえって。確かに、お母さんたちもその名前には心当たりがないし、取っておいたって、何ができるってわけでもないのよね。でも、なんだか気になって」
なるほど。母親が、実家を離れている子供たちを、唐突に呼び寄せた理由が、これでハッキリした。
「渡そうぜ、この手紙」
目を輝かせて、雅樹が言った。わたしは驚く。
「宮島 たえ乃さんに? どうやって? 手紙に住所は書かれていないのに」
「今を何時代だと思っているんだよ、姉さんは。SNSで情報を呼びかければ、何かしらの手がかりが掴めるかもしれない」
「あぁ、まぁ、確かに……」
SNSには、世界中に登録者がいる。知りたいことをつぶやけば、タイムラインを見た自身のフォロワーたちが、必要に応じて拡散してくれる。それこそ世界中の人から、瞬時に情報が届くのだ。使い方さえ誤らなければ、こんなに便利なツールはない。
それを利用すれば、確かに、消息不明の人物の情報を得られる可能性はある。個人情報の発信には、充分な注意が必要ではあるけども。
「でも、おじいちゃんからしたら、余計なお世話かもよ?」
この手紙は、単なる出し忘れとか、たまたま切手代が足りなかったとか、そういった理由が重なって出せなかったものなのかもしれない。でも、祖父がわざと「出さなかった」ということも考えられる。
住所を書かず、茶封筒にきちんとしまってあったことからも、その可能性は頭ごなしに否定できないと思う。
「そんなことない。文字にしたためるってことは、伝えたい想いがあるからだ。オレは、じいちゃんの想いを届けてやりたい」
雅樹は、こちらが怯むほど、いつになく真剣だ。
「やりたいんなら、好きにすればいいんじゃない? 悪いけど、わたしは関わらないからね」
わたしは手紙をテーブルの上に置き、ソファーに背中をもたれて伸びをした。生まれ育った実家は、やっぱり気が置けない。
「姉さん、じいちゃんのこと、苦手だったもんな」
雅樹がぽつりと言った。
「ちょっと、別に、それだけが理由じゃないから。気楽なフリーターの雅樹と違って、わたしはいろいろ忙しいんだからね。自分のことで精一杯なの、今は」
「苦手な相手のことは、どうしたって優先順位が低くなるよな。わかるわかる」
「あんたはまめにお見舞いに行っていたからって、偉そうに。いいよねぇ、苦手なタイプがいない、心臓が鋼鉄で出来ている人は」
「ちょっと、あんたたち。久しぶりに会ったのに、姉弟喧嘩しないでよ」
母親の呆れた声には耳を貸さず、雅樹は余裕の笑みを浮かべて言う。
「昔から了見が狭いんだよな、姉さんは。いいか、世界は広い。すべての景色をこの目に映すこと一つを取ったって、人間の一生は短すぎるんだ。出会う人や物に選り好みしていたら、もったいないとは思わないか?」
「お前はこの国を飛び出して、ヒッチハイクで世界中を旅すればいい。そうして、外国で信じたドライバーに身ぐるみ剥がされてしまえ」
「姉さんのいろいろって、あれだろ? 祐介さんとの結婚話が進まないことだろ。夫婦別姓がいいなんて、姉さんがワガママ言っているせいじゃないか」
話にならないと踏んだのか、雅樹は攻撃の矛先を変えてきた。
「そんなこと言っているの、加菜恵は!?」
その事実を知らなかった母親は、素っ頓狂な声を上げた。雅樹への悔しさと憤りを抱えながらも、肩身が狭くなるわたし。
「……だって、わたし、マネージャーに昇格したばかりなのよ。各所への挨拶回りを済ませたばかりだし、名刺も細々した物も全部、今の名前で作ってもらっちゃったあとだし。今さら新しく作り直してもらうのなんて……」
「そんな理由!?」
「お母さんは知らないだろうけど、長年勤めてきた会社で、浸透した名前を変えるのって面倒なの。旧姓で呼ばれたあとで、あ、そうか結婚したんだったよねって、いちいち言い直されるのもわずらわしいし……備品だって安くないんだから」
母親は、宇宙人でも見るような眼差しでわたしを見て、大きなため息をついた。
たいした理由じゃないって言う人は多いだろうけど、わたしには大きな問題だ。呼び名については、まだ我慢できる。でも、会社の内情をある程度把握している身としては、余計な出費を極力抑えたいのだ。
ハッキリ言って、会社の財政状態は今、とても苦しい。
祐介のことは好きだ。二人で暮らす新居は、実家の次に、わたしにとって心地いいオアシスになるだろう。早く一緒に暮らしたいとさえ思う。
とはいえ、この不況のさなか、祐介一人の稼ぎで生活していくことは難しい。だけど、無駄な出費をお願いして、会社からの非難を浴びたわたしが、耐え切れずに職場を去る確率は高い。
雅樹が手を叩いた。
「姉さんの問題は、とりあえず保留! この手紙の件は、オレが預かるよ」
三ヶ月ぶりに実家にやってきたわたしに向かって、肉親が発した第一声がそれだった。
「まずは、『姉さん、お帰り』が正解だと思う。『元気そうで嬉しいよ』がついてもいいかもしれない。ていうか、なんであんたがいるの、雅樹」
「姉さん、お帰り。元気そうで嬉しいよ。オレも呼ばれたんだ、母さんに」
セリフの前半を棒読みで言ってから、雅樹は簡単に経緯を説明した。そして、くるりとわたしに背中を向けたかと思うと、廊下をスタスタと奥へと戻っていく。
開け放って午後の外気を取り込み放題だった、玄関のドアを後ろ手で閉めて、わたしも、顔をしかめたままそれに続いた。
「祐介さん、一緒じゃなかったの? 会っていたんでしょ?」
居間に待ち構えていた母親に、そう言われた際には、さすがにもうツッコミを入れるのが面倒だった。ゲンナリしていると、その後ろで、テーブルを囲んだソファーセットの一つに沈み込んだ雅樹がニヤリとした。
L字型のソファーセットは、一応、本革だ。外国の名立たるブランドの物ではないが、そこそこには値が張る。わたしが初任給で両親にプレゼントした物だ。赤みが強いブラウンは、色くらいはスポンサーという特権を行使してもよかろう、と勝手に選んだ、完全にわたしの趣味である。
そのソファーを、でかい態度で陣取る三つ下の弟に、わたしはいつだって腹立たしさを覚えた。お前のために買ったのではない、と。
今日だって、相も変わらず手足が無駄に長い身体で、広いスペースのほうのソファーを占領している。わたしはわざと雅樹の身体にぶつかるようにして、その隣にワイドパンツの尻を沈ませた。
「途中まで送ってもらったけど、そこで別れたよ。結婚しているわけじゃないんだし、彼女の家の用事に付き合うの、わずらわしいでしょ、普通」
「早いとこ結婚しちまえばいい。そうしたら、オレは好きな時に祐介さんに会えるのに」
ふんぞり返ったままで、雅樹が言った。
「なんで、あんた、そんなに祐介に懐いているわけ。そっちの気があった?」
「オレは兄貴が欲しかったんだよ」
「あぁそう、すみませんね。出来の悪い姉が一人で」
「雅樹の言うことも一理あるわよ。もう三十歳なんだし、さっさと祐介さんと結婚して、お母さんたちを安心させて欲しいわ」
母親はそう嘆いたあとで、ちょうど週刊誌が一冊入るくらいのサイズの、茶封筒を一枚テーブルの上に置いた。中身が入っているような厚みはない。
「娘の誕生日を忘れているようだから、教えるけど、まだ三十歳にはなっていないから。これ、何?」
「おじいちゃんの物を整理していたら、見つけたのよ」
「あぁ、遺品整理ってやつね」
先月、父方の祖父が亡くなった。
勤めるショッピングモールの、取引先の社員である祐介と交際を始める少し前、四年ほど前まで、わたしはこの家で、両親と雅樹、そして祖父の五人で暮らしていた。祖母は、雅樹が生まれてすぐに亡くなっていた。
わたしは、正直言って、祖父が苦手だった。子供の頃から。
無口で不器用な祖父は、典型的な昭和の男性だったと思う。新しい文化や考え方には馴染めず、むしろ軽蔑しているきらいさえあった。
同じ家の中で生活していたから、まったく会話しないということはなかったが、必要最低限だ。どう絡んでいいものやら、わからなかった。
健康だけが取り柄みたいなところがあったのに、一年前、急に倒れた。それ以降、入院と退院を繰り返していた。お見舞いは、仕事が忙しいことを理由に、二回行っただけだ。その時も、ほとんど喋らなかった。
祖父のほうでも、扱いづらい孫だと、敬遠していたに違いない。
「これ、何か入っているの?」
母親は斜め右手、一人掛けのソファーに座り、神妙な顔でうなずく。
「ちょっと見てくれる? どうしたものか、あんたたちの意見を訊きたいと思って」
わたしは雅樹と顔を見合わせ、お互いに首をかしげた。長子という立場上、わたしがその茶封筒に手を伸ばし、開けて、中を覗く。何かある。
取り出すと、それは手紙だった。何の装飾もない白い封筒に、宛名が書かれている。差出人は祖父の名。疑いようがなく、手紙である。
「あ、待って。まだ何か」
わたしは茶封筒を逆さまにした。出てきたそれは、コン、と澄んだ音を鳴らしてテーブルで一度跳ね返り、回転したのちに、そこで落ち着いた。
「五百円……? あ、違う、コインだ」
「貸して」
雅樹がそれを手に取り、しげしげと眺めた。裏返し、また観察する。
「古いけど、記念硬貨の類いじゃないな。ゲーセンのコインでもない。どこかの国の通貨だ」
「おじいちゃん、海外旅行なんて行ったことないよね?」
「ないな。飛行機を信じない人だったから。誰かに貰ったのかも」
二人して母親の反応を窺う。思い当たりは何もない、とでも言うように、肩をすくめてみせてきた。
「宮島 たえ乃様……女性だよね? おじいちゃんとどういう関係の人なんだろう」
わたしは手紙をまじまじと見た。よく見ると、書いてからまぁまぁの年月が経っていることがわかる。万年筆の文字が、赤く変色している。
切手は貼られていない。だから、当然だけども、消印はない。
出されなかった手紙。
「ラブレターかな」
雅樹がはしゃいだ声を出した。
「まさか」
「宮島姓なんて、じいちゃんの口から聞いたことない。古い手紙っぽいし、ばあちゃんと結婚する前に好きだった女性とかで、告白しようとしてそのままとか。あの昔気質なじいちゃんが、浮気はあり得ないし」
「六十年も前に書かれた手紙ってこと? それのほうがあり得ないって。これ、そこまで古くないよ」
「じゃあ、浮気?」
「なんでよ」
そこで、母親が言葉を挟んだ。
「どうしたらいいと思う? お父さんは捨ててしまえって。確かに、お母さんたちもその名前には心当たりがないし、取っておいたって、何ができるってわけでもないのよね。でも、なんだか気になって」
なるほど。母親が、実家を離れている子供たちを、唐突に呼び寄せた理由が、これでハッキリした。
「渡そうぜ、この手紙」
目を輝かせて、雅樹が言った。わたしは驚く。
「宮島 たえ乃さんに? どうやって? 手紙に住所は書かれていないのに」
「今を何時代だと思っているんだよ、姉さんは。SNSで情報を呼びかければ、何かしらの手がかりが掴めるかもしれない」
「あぁ、まぁ、確かに……」
SNSには、世界中に登録者がいる。知りたいことをつぶやけば、タイムラインを見た自身のフォロワーたちが、必要に応じて拡散してくれる。それこそ世界中の人から、瞬時に情報が届くのだ。使い方さえ誤らなければ、こんなに便利なツールはない。
それを利用すれば、確かに、消息不明の人物の情報を得られる可能性はある。個人情報の発信には、充分な注意が必要ではあるけども。
「でも、おじいちゃんからしたら、余計なお世話かもよ?」
この手紙は、単なる出し忘れとか、たまたま切手代が足りなかったとか、そういった理由が重なって出せなかったものなのかもしれない。でも、祖父がわざと「出さなかった」ということも考えられる。
住所を書かず、茶封筒にきちんとしまってあったことからも、その可能性は頭ごなしに否定できないと思う。
「そんなことない。文字にしたためるってことは、伝えたい想いがあるからだ。オレは、じいちゃんの想いを届けてやりたい」
雅樹は、こちらが怯むほど、いつになく真剣だ。
「やりたいんなら、好きにすればいいんじゃない? 悪いけど、わたしは関わらないからね」
わたしは手紙をテーブルの上に置き、ソファーに背中をもたれて伸びをした。生まれ育った実家は、やっぱり気が置けない。
「姉さん、じいちゃんのこと、苦手だったもんな」
雅樹がぽつりと言った。
「ちょっと、別に、それだけが理由じゃないから。気楽なフリーターの雅樹と違って、わたしはいろいろ忙しいんだからね。自分のことで精一杯なの、今は」
「苦手な相手のことは、どうしたって優先順位が低くなるよな。わかるわかる」
「あんたはまめにお見舞いに行っていたからって、偉そうに。いいよねぇ、苦手なタイプがいない、心臓が鋼鉄で出来ている人は」
「ちょっと、あんたたち。久しぶりに会ったのに、姉弟喧嘩しないでよ」
母親の呆れた声には耳を貸さず、雅樹は余裕の笑みを浮かべて言う。
「昔から了見が狭いんだよな、姉さんは。いいか、世界は広い。すべての景色をこの目に映すこと一つを取ったって、人間の一生は短すぎるんだ。出会う人や物に選り好みしていたら、もったいないとは思わないか?」
「お前はこの国を飛び出して、ヒッチハイクで世界中を旅すればいい。そうして、外国で信じたドライバーに身ぐるみ剥がされてしまえ」
「姉さんのいろいろって、あれだろ? 祐介さんとの結婚話が進まないことだろ。夫婦別姓がいいなんて、姉さんがワガママ言っているせいじゃないか」
話にならないと踏んだのか、雅樹は攻撃の矛先を変えてきた。
「そんなこと言っているの、加菜恵は!?」
その事実を知らなかった母親は、素っ頓狂な声を上げた。雅樹への悔しさと憤りを抱えながらも、肩身が狭くなるわたし。
「……だって、わたし、マネージャーに昇格したばかりなのよ。各所への挨拶回りを済ませたばかりだし、名刺も細々した物も全部、今の名前で作ってもらっちゃったあとだし。今さら新しく作り直してもらうのなんて……」
「そんな理由!?」
「お母さんは知らないだろうけど、長年勤めてきた会社で、浸透した名前を変えるのって面倒なの。旧姓で呼ばれたあとで、あ、そうか結婚したんだったよねって、いちいち言い直されるのもわずらわしいし……備品だって安くないんだから」
母親は、宇宙人でも見るような眼差しでわたしを見て、大きなため息をついた。
たいした理由じゃないって言う人は多いだろうけど、わたしには大きな問題だ。呼び名については、まだ我慢できる。でも、会社の内情をある程度把握している身としては、余計な出費を極力抑えたいのだ。
ハッキリ言って、会社の財政状態は今、とても苦しい。
祐介のことは好きだ。二人で暮らす新居は、実家の次に、わたしにとって心地いいオアシスになるだろう。早く一緒に暮らしたいとさえ思う。
とはいえ、この不況のさなか、祐介一人の稼ぎで生活していくことは難しい。だけど、無駄な出費をお願いして、会社からの非難を浴びたわたしが、耐え切れずに職場を去る確率は高い。
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