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【人間界2】

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「怖がらないのですね」

 自分で言うのもなんだが、得体の知れないイキモノを前にしているというのに。

「半休を取ってウキウキ気分でバスに乗っていたら、いきなり大地震かと思うような衝撃を受けて、この有り様だ。これ以上、何を怖がるっていうんだ」
「なるほど。ではあなたは、ご自分が亡くなられたことをおわかりですか?」
「やっぱり、そうなのか」

 意外にも、男はすんなりと受け入れた。

「驚きですね」
「何がだよ」
「三十代前半で、そこまで物わかりがいいとは」

 人間のほとんどは、七十代、八十代まで寿命があることが一般的だ。九十歳や、百歳の大台を越えて長生きすることも、今は珍しくない。
 それを考えると、男はまだ折り返し地点にも満たない年齢。突発的に降りかかった事故死を受け入れられず、号泣したり、攻撃的になったりしてもおかしくなかった。
 これは、そこまで案じなくても、わりと早くケリがつくかもしれない。

 男は舌打ちする。

「諦めがいいって言うんだろ? どうせ」
「まぁ、そうとも言いますね」
「だってよ、死神に迎えにこられたら、あぁ、俺の人生終わっちまったんだな、とさすがに観念するしかないだろ。そんなの、俺だけじゃないと思うぜ」
「ちゃんと身分を明かしたのに、まだ誤解が解消されませんか」
「それに、これだけ血が出ているってのに、痛みをまったく感じないしな」
「自分のペースで物事を進めるタイプと見ました」
「痛みどころか、身体中どこも何も感じない。どこ触っても、しびれてるみたいに感覚がなくてよ。そんなの普通じゃないだろ。どう考えても」

 突っこむのはもうやめた。

「まぁ、死体に神経は働いていませんからね」
「だろ? ほらな。……で、俺はどうして死んだ?」

 死因のことだろう。

「頭部を強打したことによる、外傷性ショック死だと思われます。俗に言う、打ちどころが悪かった、というやつですね」
「バスの事故で?」
「酒を飲んで運転したドライバーが、赤信号を無視してバスの側部に衝突したそうです。その衝撃により、車外に投げ出されたのでしょう」

 我々は耳がいい。数百メートル圏内であれば、多少の雑音があっても、通報する電話の声や野次馬が話す内容をとらえることができる。大きな耳は伊達ではないのだ。
 すべてを伝えることは、危険な可能性をはらんでいる。亡くなっている本人に死因を説明するなんてことは、もちろん初めてだが、その程度の心得は常識として持っていた。ただ、この新刊について言えば問題はないだろう、と判断した。

「そっか」

 男は腕を組み、しみじみとうなずいた。このあとは、お決まりの質問が飛んでくるのだろうと思いきや、そうはならなかった。男は首をかしげる。

「じゃあ、なんで俺は動ける?」

 こちらが訊きたい。言いたい気持ちを抑えて、思うことがあり問いかけてみる。

「もしかして、あなた、生まれ変わりたくない理由があるのではないですか?」
「生まれ変わりたくない理由?」

 男は目をしばたたいた。そんな言葉は初めて聞いた、とでも言うふうに。

「そうです。転生、という言葉はご存知ですか?」
「勇者になって、こことは別の世界でモテモテになるやつか」
「何ですか、それは」

 何の揶揄かはわからないが、からかわれていることはわかる。
 男は笑い出した。

「冗談だって。知ってるよ、知ってる。死んだら、別の何かに生まれ変わるってやつだろ? 良いことをすればまた人に、悪いことをすれば石ころに、とかな。死神じゃないんなら、あんたの役目はそれのジャッジか」

 思わず、ほぉ、と感心してしまった。

「鋭いです」
「俺をなめんなよ」
「正確には、我々の部署の仕事ではありませんが」
「どこの世界も組織じみてやがるな」
「ただ、間接的に担っていることは確かです。先程申しましたように、わたくしは書店のスタッフです」
「ほお」
「書店は天界にあります。つまり、あなたはこれから天界にある書店に向かうのです。向かうと言うか、わたくしが運ぶのですが。運ばれたあなたの魂は、そこで転生を待つことになります」
「ふむふむ」
「しかし、今の状態では、運ぶことは叶いません」
「俺がまだ動けるからか?」
「はい。肉体は亡くなっていますが、何らかの事情で、魂が外に出てこられないのだと思われます」
「無理やり引っ張り出すことはできねぇの? なんか、かっこいい呪文とか唱えてよ」
「アニメの観すぎです。そういう能力はありません……わたくしには」
「あんたの存在自体が、充分アニメだけどな」
「そこで本題に戻ります」
「生まれ変わりたくない理由か?」
「はい。あなたはこの世界に、心残りや未練があるのでは?」

 もしくは、もう一人の新刊と同じく、次の人生に希望が持てないか。

「心残り……」

 つぶやいた男の顔が、みるみるうちに変わった。
 どうしたのです、と問いかけるまもなく、険しい目つきで辺りを見回しはじめた。あっ、と声をあげて走り出し、唐突に四つん這いになる。地面に膝をついたことで、はずみで折れた骨がスラックスの生地を突き破り、外に飛び出した。

「あった……」

 男が胸に抱きしめたものは、赤いバラの花束だった。

「まずいです。戻ってください」

 男がしゃがんでいるのは、自分が倒れていた場所まですぐのところ。大通りは目と鼻の先だ。誰かに気づかれれば、事故に巻きこまれたケガ人だと思われてしまう。到着した救急隊員に、身体を診られたらまずい。何しろ彼は、とっくに亡くなっているのだ。

 男が振り返る。瞳に強い光が満ちていた。

「俺は、死んでいる場合じゃない」

 なんですって?
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