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【人間界2】

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「わたくしは、呪われているのかもしれません」

「あぁ? ふざけんなよ。そんなの、俺が言いたいっつうの」

 街は、まもなく正午を迎える。
 平日ではあるが、少し早めのランチを取ろうと出てきた会社員や、休日の若者で、大通りはにぎわいを見せていた。

 日々のストレスから一時解放されて、何を食べようかと心を弾ませていた彼らにとって、市営の巡回バスがいきなり歩道の車止めに衝突したことは、まさしく青天の霹靂だったに違いない。

 バスは交差点から対向車線を越えて、反対側の歩道に乗り上げた形で停車している。正面の窓ガラスは、波紋を描いて粉々に砕けている。左側部が大きくへこんでいた。
 交差点の中にはもう一台、黒色の普通乗用車があらぬ方向を向いて停まっていた。フロント部分はひしゃげてしまい、原型を留めていない。衝撃の凄まじさを物語っていた。

 困惑の声と、すすり泣く声、怒号。
 安穏とした空気から一変、大通りは胸をざわつかせる声に満たされた。
 街路樹の早咲きの桜が、それこそが自身の役目とばかりに、ただ美しく咲いていた。

「俺はさ、ただバスに乗っていただけなんだ。それがこんな目に遭って。おまけに、死神に迎えにこられちまった。呪われているってなげきたいのはこっちだろ」
「わたくしは、死神ではありません」

 デジャブのようだ。

「は? 死神じゃなけりゃ、なんだって言うんだよ。全身真っ黒けで、いわくありげな分厚い本なんて持ちやがって。それで黄泉の使者じゃないっつうんなら、なんなんだ。黒猫の着ぐるみを着た、占い本のセールスか?」

 惜しいです! と指を鳴らしてみせたい気が、あるわけがない。

 男は興奮状態のようだが、不思議とどこか余裕も感じさせる。
 興奮の理由については、自分の存在が一役買っているのだろうとわかっているつもりだ。しかしながら、ぼやかずにはいられない。

「よく喋る新刊ですね」
「喋らずにいられるかって。なんなんだよ、これは。俺が何をしたって言うんだ」
「とりあえず、口を閉じなくてもかまいませんから、もう少し声のボリュームを落とせませんか」

 口元に持っていった指で、静かに、というジェスチャーをしてみせるが、指とは名ばかりの黒いもふもふとした毛玉なので、伝わるか心配だ。

「なんだよ。偉そうに」

 男は不承不承といった感じではあるけれど、言うことを聞いてくれた。通じた。

 大通りから一本、中に入った裏道。倉庫や、開店前の居酒屋などが並んでいるだけで、ひっそりとしている。
 バス事故による負傷者は多数いたが、新刊はすぐにわかった。バスの窓から投げ出されたらしく、歩道に倒れていた。
 ところが、近づいた瞬間にむくりと起き上がり、わめき出したものだから、慌てて引っ張ってきたところだ。

 彼は今、大衆居酒屋の看板を背に、腕を組んで仁王立ちしている。

 放り出された場所が、停車したバスから離れていたことと、たまたま近くに誰もいなかったことは、運がよかった。目撃者がいたら、ゾンビムービーさながらの様子に、パニックになっていたことだろう。

 大量生産されたものとおぼしき、ビジネススーツ。アスファルトに転げ落ちた時についたのか、肘が擦り切れたように破けている。スラックスはかろうじて穴こそ開いていないものの、右の膝小僧からすねにかけて、血液で真っ赤に染まっていた。
 顔は比較的きれいだ。ただ、白い。色白なんて生やさしいものではなく、小麦粉のバケツの中に頭から突っこんだのか、と訊ねたくなるほどの不自然な白さだった。

 彼にも、記録保管庫のスタッフの姿が見えている。
 言うまでもなく、彼もまたすでに亡くなっているのだ。

 通達通りなので、それは正しい。だけど、喋れる。
 先程の女子中学生と違うところは、彼は立って歩けて、しかも貧乏揺すりまでできるという点で、先程の女子中学生よりも、さらに厄介だということだ。
 ため息はもう出尽くしてしまった。

 おいそれといかない事案の合間に、効率を狙って他の仕事に取りかかろうとしてみれば、こちらもまたややこしい事案とは。
 また連絡がきた際に、同僚に何て説明したらいいのやら。

「わたくしは、書店のスタッフです」
「は?」

 だから、デジャブかって。
 ウンザリするのはあとだ。策を講じるために、ひとまず落ち着いて状況を把握せねば。
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