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【人間界3】

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 突然、前に歩み出てきた男が、少女を殴り飛ばしかねない形相だったため、慌てて腰にしがみついて止めた。それでもなお、男は踏み出して、少女に掴みかかろうとする。

「お前、まだ中学生だろ! そんな若いうちから人生投げてどうするんだ!」
「落ち着いてください。骨が飛び出すどころか、膝から下がもげますよ」
「うるせえ!」
「嫌だ、怖い!」
「どうしたのです。今の今まで落ち着いていらしたのに」
「死にたくなくても死ぬしかないやつだっているっていうのに、自分で死を選んだ? しかも、こんなガキが! 落ち着いていられるかっての!」
「お気持ちはわかります。しかし、ここはどうぞ冷静に」
「ちくしょう、ふざけんな!」

 男の気持ちは理解できた。
 早すぎる突然の死は、やはり受け入れがたいのだ。納得なんて、到底できない。そして、それは決して恥ずかしいことではなかった。
 仕事を定刻より早めに切り上げて、赤いバラの花束を購入した男は、愛する人のもとへ向かう途中だったのかもしれない。
 自分はまだ生きていたい。でも、それはもう叶わない。
 自分と違い、これから先も難なく生きられるはずなのに、それを自ら終わらせてしまった少女の行為を、男が腹立たしく思っても不思議ではない。

「若いからって……なんなの」

 震える声で少女が反論をはじめた。

「若いと、傷ついたらいけないの? 死にたいって思ったらいけないの?」
「はぁ?」
「わたしがどんな思いで毎日を生きていたか、おじさんにはわからないでしょ?」
「わからねぇよ。わかるわけねぇだろが」
「なら、教えてあげるよ!」

 少女は金切り声を出した。初対面の男に頭ごなしに怒鳴られて、未熟な感情の針が振りきれてしまったのだろう。

「お二人とも、どうか落ち着いてください。あなたたちは、二人とも死体なのですよ」

 平日の昼間と言えども、あまりに騒げば誰かに聞きつけられる。しかし、その声は興奮した耳に届かない。

「わたし、中学に入学してから一年間、ずっといじめられてた。きっかけは些細なこと。すぐに疑いは晴れるって思ってたのに、誰もわたしのことを信じてくれなかった」

 気持ちがたかぶっているせいか、少女の話は的を射ない。それでも、教室内で何か小さな事件が起こり、例えば、文房具の盗難であるとか、体操服の紛失であるとかで、少女がその犯人に仕立て上げられたのだろう、と推測できた。

「だから、なんだ。中学時代が永遠に続くとでも思っているのか?」

 男にも、おぼろげながら事情を察することができたようだ。

「大人はすぐそうやって言うから、相談なんてできないんだよ!」

 その言葉には、男もひるむ表情を浮かべた。

「卒業するまでの辛抱だって、何度も自分に言い聞かせたよ。それでも、一日がものすごく長いんだ。これが明日も続くと思っただけで吐きそうになるのに、あと二年も耐えられないよ!」

 少女はかすれた声で、思いのたけを吐き出した。
 少女には、もう涙を流す機能がない。
 人間の涙には、浄化の作用があると聞く。どんなに大きな悲しみも、泣くことで癒やされるのだと。
 つまり、少女の場合、悲しみはただ、その小さな器の中に積もっていくだけでしかない、ということなのだろうか。

 それでは、このまま魂が留まり続ければ、いつしか彼女は窒息してしまう。

「ただの、ワガママだ」
 男が吐き捨てた。

「身勝手な子供の言い分だ」
「なにそれ」
「もう少し言葉を選んでいただけませんか。年下の相手に、大人げないですよ」

 賛同できる部分は正直ある。だが、今は少女をこれ以上刺激しないほうがいい。

「身体も頭もおかしくなるまで、耐え続けろって言うの?」
「そうじゃねぇよ。それがわからないから、お前はまだ子供だって言うんだ」
「子供だって人間だよ。傷つく心を持ってる。自分だって昔は子供だったくせに、大人になるとそれを忘れちゃうんだね」
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