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【人間界6】

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「もしかして」
 嫌な予感がした。

「その花束は、奥様に?」

「ああ。あいにく、いまだかつて愛人のポストが埋まったことがないんだよな」
「やはり、おやめになったほうがいいかと」
「なんでだよ」
「何度も申し上げていますが、あなたはすでに亡くなっています」
「わかってるって。いいかげん、耳にタコができるどころか、たこ焼きができらあ」

 男はうっとうしそうに、指で耳をほじくってみせた。

「いいえ、わかっていません」

 少し強めの口調で言うと、男がむっとした。

「協力してくれるんじゃなかったのかよ」
「確かにお供すると、花束を渡しにいきましょうと言いました」
「だったら、なんで今さら」
「お亡くなりになったあなたが、生きている人間に、花束を直接手渡すことはさせられません。それは、ご理解いただけますよね?」
「あぁ、それはやっぱり、そうだよな」

 落胆はするも、男はやはり諦めがいい。

「しかし、相手が気づく場所に置いておくことならば、可能だろうと思いました」
「お、そうか、なるほど。それなら、さっさと置きに行こうぜ」
「事故から、どのくらいの時間が経過したかおわかりですか?」
「あ? 三十分……四十分くらいか?」

 男は自身の腕時計を見やるが、すぐに舌打ちした。止まってやがる、と吐き捨てる。

「あの事故はややセンセーショナルです。すでに報じられていることでしょう」
「まぁ、そうかもな」
「あなたの奥様の耳にも、一報が入っているかと」
「……どうだろうな」

 男は濁した。

「まだお昼を過ぎたばかりです。オフィスなどで仕事中であったり、家事に追われたりであれば、まだご存知ではない可能性もありえるでしょう。しかし、時間の問題です」
「だから、なんだって言うんだよ」
「それだから、おわかりになっていないと言うのです」
「何がだよ」

 男のいらだちが、空気を介してこちらに伝わるように思えた。

「届けられた花束が、亡くなったはずのあなたからだと気づいたら、奥様はきっと正常な精神を保てません!」

 男は目を見開いた。

「家族はご友人とは違います。恋人ともまた異なるのです」

 頭の中に、あの時の老女の、しぼり出すかのような泣き声が響いていた。涙は流していなかったが、あれは嗚咽だ。泣きながら発せられた声だ。
 老女にとって、生きる理由を見出せなくなった大きな理由は、伴侶を亡くしたことだ。どんなに生きづらい世の中であっても、せめて伴侶がそばにいてくれさえすれば、二人三脚で生涯をまっとうできただろう。

 男は、命のともしびが消えてしまったというのに、花束を届けに行こうとしている。おそらくその熱意だけが、ぼろぼろの身体を動かしているに違いない。
 届ける先が友人や、恩師や、恋人だったとしても、それは驚き、涙してくれることだろう。
 ただ、嫌な言い方だが、その悲しみの大きさは、家族が抱えるものと比べると小さく、薄れるまでの時間も家族より短い。

 赤いバラの花束。「愛情」という花言葉を持つ花。

 あの事故の中にあって、この花束がこれほどきれいなままなのは、その瞬間に、男がとっさに自分の身より花束をかばったからだ。
 今日が何かの記念日なのか、それは知らないが、男と妻の間に、強い愛情が息づいている証しと言っていい。
 男の妻が、もしもすでに事故のことを知っているなら、届けられた花束は、追い打ちをかける恐れがある。二重のショックは、精神に大きな負担をかけるだろう。へたをしたら、後追いしかねない。

「あなたが、本当に奥様を想っていらっしゃるのなら」

 魂が闇に消えてしまう可能性を、わずかだって遠ざけてあげてほしい。

 男は、ふっと笑みを浮かべた。緊張の糸がゆるんだ時に似ている。

「大丈夫。彼女はそんなことで腰を抜かしやしない。自ら命を絶ちもしないさ。心配すんな」
「……その、根拠は何ですか」

 問いかけに、男はこざっぱりと笑う。

「彼女のことは、俺がいちばん知っているからだ」
「それは……そうでしょうけど」

 そう言われたら、これ以上は反論できなかった。

「あんたが心配しているようなことにはならねぇよ。俺だってさ、奥さんの魂が、あんなザリガニもどきにちょん切られて連れて行かれるのなんて、まっぴらだし」

 考えなしということでもない。男は、こちらの杞憂をきちんと理解してくれている。
 それでも考えこんでいると、男に言われた。

「あんたは、いいやつだな」
「……そんなこと、ありません」

 腹の底に湧き上がる、このむずがゆさは何なのか。だけど、不快ではなかった。

「……信じていいのでしょうか」
「営業でもない俺が、こんなこと言う機会があるとは思わなかったけどよ。信じてもらえれば、悪いようにはさせないぜ」

 弱いため息を吐き出す。

「……わかりました」

 強引なこの男にかかると、根負けしてばかりだ。

「よくよく考えれば、あなたのような方に惚れる女性ですものね。そのくらいで参ってしまうような、軟弱な精神をなさっているわけがありませんでした」
「だから、ディスり方が変化球すぎるんだよ。どうせなら直球でけなせ、直球で」

 そう不満を垂れ流しながらも、男の顔は笑っている。
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