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【人間界8】
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「条件」
「一周忌まで、それを、続けられたら」
塀をぎこちなく振り返る男のしぐさは、かぶった自分の着ぐるみを、中から動かすかのようだ。
「そしたら、あの子を……さやかを、返してくれる、と」
「そうでしたか」
事情を知らなかったのだから、しかたがないとしても、図らずも男に条件の上乗せをしてしまっていたとは。
「どうせ、続けられやしないって、高をくくっていたんだ」
男はまた墓石に視線を戻した。
「諦めが早いからですか」
「みくびられたもんだろ」
その言葉は妻がよく口にしていたらしいが、きっと本気で呆れていたわけではないだろう。性格がどうであれ、男の持つ愛情の深さを知っていたはずだから。笑いながら言っていた、という男のセリフからもそれがうかがえる。
「義理のご両親は、あなたの愛情を試したかったのでしょうか」
いや、きっと違う。少なくとも義母は、そういったことにまったく鈍感とも思えなかった。
おそらく、いきなり娘を失った義両親は、その悲しみを消化できる方法を、他に見つけられなかったのではないだろうか。男に当たり、娘の忘れ形見を少しの間そばに置くことで、自分たちの心に折り合いをつけようとしたのかもしれない。
そして、それは男にも伝わっていた。だから、愛する子供を一時的にでも手放すなどということを、素直に受け入れたのでは。
「なんてことねぇよ。そんなの。おあいにくさま、だ」
この家族は、本当に。
だけど、安心もする。両親を失った子供の行く末を案じていたけれど、義理の両親が支えてくれれば、おそらく道を踏み外すことはない。
「あなたが」
「うん?」
「あの時、とっさに動いてしまったわけは」
やっと本当のことがわかった。すべてのピースが、おさまるべき場所におさまった。
「さやか、という名前に反応したのですね」
自身の娘と同じ読みの名前。思えばあれは、カロンに尋ねられた清花が、自分の名前を名乗った直後のことだ。
男は答えなかったが、静かにこちらを振り向き、柔らかく微笑んだ。
こんな偶然が、あるものなのだろうか。奇跡にしか思えない。男もあの瞬間にそう感じたからこそ、それが役目とばかりに自分の身をなげうって、清花を守りきったのかもしれない。
「もしかして」
その答えを聞いたところで、どうにもできないことはわかっていた。ますます気が滅入るだけだ。でも、気づいてしまった以上、知らないふりもできない。
「今日が、約束の一周忌なのですか……?」
本当にそうなのなら、なんてタイミングだ。
「そんな顔、するなよ」
呆れたように、男が目を細める。
「言っただろ? 俺はもう、自分を許したんだ」
またも男は質問に答えないが、正解だと言っているのと同じだ。
「運命は、もう、どうしようもないだろうが」
「確かに、そうですが」
「いいんだ。俺は諦めずに、よく頑張ったし、約束をきちんと守ったことは、この花が、伝えてくれる」
自分はもう旅立たなくてはならない。どんなになげいても、大切な人を守り、愛してあげることはもうできない。
そんな自分を、自分で許す。
男は簡単に言ってみせるけど、簡単なわけがない。とても難しく、悲しいことでもある。
それでも、人はそうやって前へ進んでいかなければいけない。自分一人が立ち止まっても、時間は立ち止まってはくれないから。悲しみはそこに膿のように溜まっていくだけで、誰も幸せになれない。
だから、人は、我々もそうだ、この世界に生きる誰もが、悲しみや苦しみにぶち当たり、振り切って、明日へと歩いていく。
だけど、忘れない。感じた痛みを、こぶしを叩きつけて流した涙を。そうして、いつか必ず、その勇気は混じりけのない優しさとなり、大きな花を咲かせる。
未来で誰かをまた癒やすだろう。
「泣くなよ」
「泣いていません」
「俺は、あまたの魂のうちの、一つに過ぎないんだろ? ネコちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「猫も、泣くんだなあ」
「猫ではありませんし、泣いてもいませんったら」
「一周忌まで、それを、続けられたら」
塀をぎこちなく振り返る男のしぐさは、かぶった自分の着ぐるみを、中から動かすかのようだ。
「そしたら、あの子を……さやかを、返してくれる、と」
「そうでしたか」
事情を知らなかったのだから、しかたがないとしても、図らずも男に条件の上乗せをしてしまっていたとは。
「どうせ、続けられやしないって、高をくくっていたんだ」
男はまた墓石に視線を戻した。
「諦めが早いからですか」
「みくびられたもんだろ」
その言葉は妻がよく口にしていたらしいが、きっと本気で呆れていたわけではないだろう。性格がどうであれ、男の持つ愛情の深さを知っていたはずだから。笑いながら言っていた、という男のセリフからもそれがうかがえる。
「義理のご両親は、あなたの愛情を試したかったのでしょうか」
いや、きっと違う。少なくとも義母は、そういったことにまったく鈍感とも思えなかった。
おそらく、いきなり娘を失った義両親は、その悲しみを消化できる方法を、他に見つけられなかったのではないだろうか。男に当たり、娘の忘れ形見を少しの間そばに置くことで、自分たちの心に折り合いをつけようとしたのかもしれない。
そして、それは男にも伝わっていた。だから、愛する子供を一時的にでも手放すなどということを、素直に受け入れたのでは。
「なんてことねぇよ。そんなの。おあいにくさま、だ」
この家族は、本当に。
だけど、安心もする。両親を失った子供の行く末を案じていたけれど、義理の両親が支えてくれれば、おそらく道を踏み外すことはない。
「あなたが」
「うん?」
「あの時、とっさに動いてしまったわけは」
やっと本当のことがわかった。すべてのピースが、おさまるべき場所におさまった。
「さやか、という名前に反応したのですね」
自身の娘と同じ読みの名前。思えばあれは、カロンに尋ねられた清花が、自分の名前を名乗った直後のことだ。
男は答えなかったが、静かにこちらを振り向き、柔らかく微笑んだ。
こんな偶然が、あるものなのだろうか。奇跡にしか思えない。男もあの瞬間にそう感じたからこそ、それが役目とばかりに自分の身をなげうって、清花を守りきったのかもしれない。
「もしかして」
その答えを聞いたところで、どうにもできないことはわかっていた。ますます気が滅入るだけだ。でも、気づいてしまった以上、知らないふりもできない。
「今日が、約束の一周忌なのですか……?」
本当にそうなのなら、なんてタイミングだ。
「そんな顔、するなよ」
呆れたように、男が目を細める。
「言っただろ? 俺はもう、自分を許したんだ」
またも男は質問に答えないが、正解だと言っているのと同じだ。
「運命は、もう、どうしようもないだろうが」
「確かに、そうですが」
「いいんだ。俺は諦めずに、よく頑張ったし、約束をきちんと守ったことは、この花が、伝えてくれる」
自分はもう旅立たなくてはならない。どんなになげいても、大切な人を守り、愛してあげることはもうできない。
そんな自分を、自分で許す。
男は簡単に言ってみせるけど、簡単なわけがない。とても難しく、悲しいことでもある。
それでも、人はそうやって前へ進んでいかなければいけない。自分一人が立ち止まっても、時間は立ち止まってはくれないから。悲しみはそこに膿のように溜まっていくだけで、誰も幸せになれない。
だから、人は、我々もそうだ、この世界に生きる誰もが、悲しみや苦しみにぶち当たり、振り切って、明日へと歩いていく。
だけど、忘れない。感じた痛みを、こぶしを叩きつけて流した涙を。そうして、いつか必ず、その勇気は混じりけのない優しさとなり、大きな花を咲かせる。
未来で誰かをまた癒やすだろう。
「泣くなよ」
「泣いていません」
「俺は、あまたの魂のうちの、一つに過ぎないんだろ? ネコちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「猫も、泣くんだなあ」
「猫ではありませんし、泣いてもいませんったら」
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