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第一話 栞のラブレター

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「結局、翌日の学校は変わった様子もなくて、何もかも普段通りでした」

 正直、ほっとしたのだと、菜七子さんは告白した。自分の罪を隠して、何事もなかったように過ごせる。そう思う気持ちがあったのだと。

「村瀬さんには、なんて?」
「本をなくしたことは、素直に謝ったんです。翔は別にいいよって簡単に許してくれて、栞のことは何も言わなかった。だから私も、栞には気づかなかったふりをしたの」

 菜七子さんは消え入りそうな声をしぼり出すと、カモミールティーを口に運んだ。

 飲み干すと、少し落ち着きを取り戻したような笑顔を見せる。天草さんの淹れるハーブティーは、ふしぎと元気がもらえるみたい。

「じゃあ、告白の返事は?」

 尋ねると、菜七子さんは力なく首を横に振る。

「言わなかった。翔も、卒業するまで二度と告白してこなかったし。私は後ろめたくて、何も言えなかった」
「でも、プロポーズしてくれたのって、その村瀬さんって方なんでしょう?」
「そうです。翔とは違う大学に進学して、疎遠になったんです。再会したのは、就職してから。たまたま、本当にたまたま。居酒屋で偶然、隣の席になって」
「隣の席で再会って、いいね」

 天草さんがそう言う。まさに、沙代子もそう思ったところだった。

「翔も、そう言ってた。隣の席に縁があるねって。その日はお互いに友人と一緒だったから、改めてゆっくり話そうって連絡先を交換して、それから二人で会うようになって」
「お付き合いを始めたんですね」

 菜七子さんははにかみながら、うれしそうにうなずく。彼が好きでたまらないと伝わってくる。

「栞のラブレターをなくしたことはどうしても言えなかったけど、高校のときから好きだったって伝えたんです。翔はすごく驚いて、相田くんが好きだと思ってたって」
「そう。でも、よかったですね、すれ違いのままにならなくて」

 そう言うと、菜七子さんの表情がくもる。

「菜七子さん……?」
「翔があんまり優しいから、私の中にはずっと後ろめたい気持ちがあるんです。翔が許しても、私が許せないの。どうしてあんなに大切な本をなくしちゃったんだろうって。翔の気持ちをないがしろにしたみたいで情けなくて……」
「だから、本を探されてたんですね」
「本が見つかれば、すっきりした気持ちでプロポーズの返事ができるんじゃないかって思ったんです。でも、違うのかな。探してたのは、本じゃなくて、やっぱり栞の方なのかも」

 だから、菜七子さんは言ったのだ。『あるわけないよね』と。

 彼女は小説を天草さんの方へ押し出すと、小さなため息をついた。

「あのとき、翔は栞がなくなったって知って、傷ついたと思うんです。もしかしたら、誰かが拾って彼をからかったりしたかもしれない。そう思うと、たまらない気持ちになるんです。彼を傷つけた私はまだ、高校時代で立ち止まったままなんです……」

 菜七子さんが帰った後、カウンターの上には『空の鼓動』が残された。

 この世には無数の本があって、出会えない本もある中、出会ったことには意味があるんじゃないか。

 沙代子はそう思いながら、小説を手に取る。

 それは、陸上競技に青春を注ぐ少女、若菜わかなと、彼女に片想いする少年、そらのお話。高校3年生の若菜は陸上部のエース。空はマネージャー。空は高2の時に足に大けがを負い、マネージャーとして部に残っていた。まばゆいまでに活躍する若菜に、空は嫉妬と憧憬の念を持っていて……。

 ふたりがどんな恋をするのか沙代子には興味があったが、小説は開かずにカウンターの上に置いた。きっと、菜七子さんと村瀬さんの恋が、その答えのような気がしたのだ。

「買っていかなかったね」

 グラスに水を注ぎながら、天草さんがそう言う。その視線の先には、空の鼓動がある。

「菜七子さんが探してた空の鼓動ではなかったのかも」

 彼女が探していたのは、『村瀬さんから借りた空の鼓動』だから。

「菜七子さんを待ってたんじゃなかったのかな」

 天草さんが本を手に取ってそう言うから、本が見つけてくれるのを待ってるって話、真に受けてるのかなと思う。

「菜七子さんじゃなきゃ、誰を待ってるんだろうね」

 村瀬さん? でも、村瀬さんは本に未練はないようだったけれど。

「菜七子さん、また来るかな」

 ぽつりとつぶやくと、本棚に空の鼓動を戻した天草さんは、「来るといいね」と店の外へと目を向けた。
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