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第三話 思い出を記憶する月刊誌

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「ルッカのケーキ、甘くておいしかったね。贅沢なケーキって感じ」

 ルッカを出ると、城下町に向かって歩く天草さんについていきながら、気まずくならないように沙代子はつとめて明るく振る舞った。

 天草さんには情けない姿を見せてしまったことがある。それでも彼は普段通りに接してくれたから、今回もその関係に戻れると思っている。

「祖母のケーキはどっちかっていうと、甘さ控えめの素朴な味だからね」

 彼が穏やかに微笑むから、ほら、いつも通り、と沙代子はあんどする。

「私、そういう味の方が好き」
「そうだと思った。祖母の味と葵さんの作るケーキは親和性があるかもしれないね。俺さ、葵さんに祖母のレシピをこれから先もずっと作り続けてもらえたらなって思ってるんだ」

 それはうれしい申し出だった。だけれど、それは違うとも思ってる。

「葵さんがよければ、だよ」

 黙っていると、彼は頼りなげに眉を下げてそう言う。

「おばあさんのレシピは、うららちゃんが継いでいくと思う」

 沙代子の居場所は天草農園にはない。そう思うからこそ、天草さんの申し出は引き受けられない。

「うらら?」
「将来はカフェやりたいって言ってたから」
「……そっか」
「ごめんね。せっかくのお話だけど、私は私で夢を追いかけたいって思ってる」

 はっきりとその意志を告げるのは初めてだった。すんなりと言えたのは、そのときが来てるからだと思える。

「パティスリー開く決心がついた?」
「今ね、以前に作った設計書を開業場所に合わせて詰めてるの」

 懇意にしている設計士の女性に連絡を取ったのは、7月に入ってからだった。別れた恋人との事情を知っていてくれるから、ようやく動き出した沙代子を喜び、必ず成功する店舗を作ろうと意気込んでくれている。

「場所は決まったの?」
「うん。来年には開業できるようにしたいと思ってる」

 それは半分本当で、半分は説得するための思いつきだったが、彼は納得したようだった。

「じゃあ、今の話、忘れて。なんか、ごめん」
「ううん。いつも気にかけてくれてありがとう。あ、ねぇ、どこに行くの?」

 城下町のメインストリートに足を踏み込む。まろう堂のある通りはそれほど人の流れはなかったが、やはりこちらはお盆休みということもあって、普段よりも人であふれ返っている。

「思い出の場所に行きたいんだ」

 天草さんはまぶたを伏せて、ぽつりとつぶやく。

「思い出って?」
「初恋の子と初めて会った場所」

 そう言って、うつむけた顔をあげた彼は正面をまっすぐ見つめた。その横顔はどこか思い詰めてるようにも見える。

「……私なんかが一緒に行っていいの?」
「葵さんだから連れていきたいんだ」
「どうして私なの?」
「どうしてだろうね」

 ああ、そうだった。天草さんはいつも大事なことははぐらかす。それは、沙代子に踏み込ませたくない思いがあるからだ。彼には彼の事情がある。沙代子がすべてを話せないのと同じように。

「初恋の子が一緒に行ってくれないから?」

 重苦しい空気を払拭しようと、茶化すように聞いたら、天草さんはそっと笑う。

「今でも、初恋の子が好きだからだよ」

 答えになってない。そして、胸はずきりと痛んだ。

「天草さんの初恋って、いつ?」

 これ以上、聞きたくない。そう思うのに、意味のわからない義務感に襲われて、沙代子は尋ねていた。

「小学6年の夏休み」

 やけに具体的だ。それほど鮮明に覚えているのだろう。

 沙代子はがっかりした自分に気づいた。小学6年の天草さんに出会った記憶はない。初恋の相手は自分以外の別の誰かで、その別の誰かに彼は今でも恋をしている。

「どこで会ったの?」
「六坂神社の恋岩だよ」

 小学6年の天草さんは恋岩へ行ったことがあるのだ。中学生のときに引っ越してきたと言っていたが、それ以前は天草農園を営む祖父母が暮らす鶴川へよく来ていたのかもしれない。

 15年以上前の恋岩は、今と違って子どもたちの遊び場で、誰でも立ち入れるような場所だった。彼も恋岩で遊んだのだろうか。

「恋岩へ行けば、会えるの?」
「会えるかもしれない」

 希望を持っているような声音だ。

 恋岩はふしぎな場所だ。そこへ行けば、会いたい人に会えるかもしれないと思えるような場所。

 もう一度出会えたら、永遠の愛が約束されるような、そんな気持ちになっているのかもしれない。

「会えたらいいね」
「葵さんがいてくれたら、会える気がしてるんだ」

 どうして? そう聞いてみたくなったけど、沙代子は開きかけた口をつぐんだ。聞いても、明確な答えは返してくれないような気がしたのだ。
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