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第三話 思い出を記憶する月刊誌

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 天草さんの記憶は鮮明なようだ。恥ずかしくてたまらない。だけれど、あの頃は引っ越しが憂鬱で、学校での居心地もあまり良くなくて、落ち込んでばかりいた沙代子には、周囲の目を気にする余裕はなかったかもしれない。

「覚えてるよ。かわいい子だなって思ってたから」

 さらりと告白できるのは、それが淡い恋心だったからだろう。

 かわいらしい初恋だった。彼はそう言ったのかもしれない。これまでの人生で、彼はいくつもの恋をしてきただろう。そういう恋とは違う、本当に儚い恋心。

「俺、初恋の女の子が葵さんでよかったと思ってる」

 その言葉はどう受け止めたらいいのだろう。

 沙代子は思わずうつむいた。好きになってくれてありがとうと言うのも、今の自分はあの頃の自分とは違うんだと言うのも、何か違う気がする。

 小学生だった沙代子の姿を、今の葵沙代子に重ねているなら、彼の恋心を必ず裏切る日が来るだろう。そのぐらい、沙代子はつらい経験をしてきた。小さな頃の純粋だった自分はもういない。

「葵さん、俺はうわさ話に何も困ってないし、できれば、うわさ話じゃなくて本当になればいいとも思ってる」

 ご近所さんのうわさ話を言ってるのだろう。あの葵家の娘と付き合ってる。そのうわさはいずれ彼を傷つけるのに。

「……鶴川に戻ってきたこと、後悔したくないの」

 だから、天草さんの気持ちはうれしく思っても、受け入れられない。失った信用を取り戻す前に、彼を受け入れていいはずがない。

 天草さんは意味がわからないというように首をわずかに傾げた。

「今は、パティスリーの成功だけ考えたいの」

 目をそらしてそう言うと、天草さんのため息が聞こえた。だけれど、彼はあきらめなかった。

「パティスリーの成功を、俺にも手伝わせてほしい」
「天草さんにはまろう堂があるじゃない。あなたの成功の足を引っ張りたいわけじゃない」

 現に今日、天草さんはまろう堂を閉めて沙代子に会いに来た。そういうことは望んでないのに。

「そんなふうに思ってほしくない」

 何をどう言えば、納得してくれるだろうか。あなたに付き合う価値が自分にはないのだと、はっきりそう言っても、彼にはわかってもらえない気がする。

「ごめんね」

 結局、それしか言えず、沙代子は彼に背を向けた。前方に視線を移すと、まろう堂の方から駆けてくる青年に気づく。

「まろう堂さんっ、今日、休みなんですか? 定休日って、金曜日じゃなかったですよね?」

 息せききって天草さんに声をかけてきたのは、藤井渚さんだった。
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