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第四話 『無色の終夜』を君へ

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 途端に彼の足が止まる。いつの間にか空は薄暗くなっていたが、ほんの少しうつむいた彼の浮かない表情は見て取れた。

「あの人が宮寺院長の娘だって知ってるんだね」

 はっきりとそう言うと、ますます彼は戸惑いをあらわにする。

「葵さん、知ってた?」
「うん、知ってる」
「……なんか、ごめん」

 その顔には後悔が浮かんでいる。彼なりに気をつかってくれたのかもしれないけど、逃げたことで詩音さんは困惑しただろう。だからって、あのまま再会していても、沙代子はきっと何も話せなかった。彼が気にやむことは何もない。

 手首をつかむ彼の手が離れていくから、沙代子は引き止めるようにとっさに手を握った。蒸した暑い日暮れだというのに、彼の指先は冷たい。沙代子よりも彼の方が動揺したのかもしれない。あたためるように包み込む。

 以前は沙代子からこの手をほどいてしまったが、今は離れたくないと思った。

「私、大丈夫だから」

 つぶやくように言うと、天草さんは沙代子の手を握り返す。

「葵さん、まろう堂に来て。まだ帰したくないんだ」

 彼に手を引かれたまま、まろう堂の中へと入る。カウンター上のライトが灯ると、店内は薄ぼんやりと明るい光に包まれる。

 ふたりでカウンター席に腰かける。彼とはいつもカウンター越しで向かい合って話すばかりだから、こうして並ぶのは初めてのことだ。

「何か、作るよ」
「ううん、いいの」

 すぐに立ちあがろうとする彼を引き止める。

 どういうわけか、今は少しも離れていたくない。そんな気持ちを見透かされたのか、天草さんはふたたび沙代子の手に触れた。

 お互いの気持ちを探るように、一本一本の指が少しずつ重なっていく。しっかりとつながれたら、彼が顔をのぞき込んでくる。

 大きな瞳に吸い込まれそうで見つめていると、顔が近づいてくる。きっとキスをしたがってる。そう思ったのは、沙代子もそんな気持ちになっていたからだ。

 だけれど、沙代子は意気地がなくてパッと身を引いた。

「あ、ねぇ、秋祭りの打ち合わせしなきゃ」

 手をつないでおいて、今さらだ。心を通わせたようなものなのに拒んでしまって情けなくなる。

 天草さんが思い悩んだ顔をするから、話をそらそうと沙代子も必死になる。

「文具屋さん、今から行ってももう閉まっちゃってるよね。次の休みに私が買いに行ってくるから、それまでにメニュー決めよう。フィナンシェはプレーン以外の味があってもいいと思うし。あっ、そうだ。天草さんはいつも忙しいから、メニュー表も私が作るから……」
「葵さん、ごめん」

 彼は落ち着いた口調で、ひとりでまくし立てる沙代子を遮る。

「俺はまだ、付き合いたいって思ってるよ」

 その明確な意思表示に、ますます沙代子はひるんだ。彼を不幸にしない約束なんてできない。とっさにそう考えてしまった。

「迷ってくれてる?」

 天草さんは優しい。沙代子の気持ちが前に向くのをじっと待ってくれているのだと思う。

 何を臆病になってるのだろう。思い切って飛び込んでみたらいい。彼のような包容力のある人の好意を断ったらきっと後悔する。そう思うのに勇気が出ないのは、向けられる愛情と同等の愛を与えられる自信がないからかもしれない。

「……お返事はまた今度」

 ようやく口にできた言葉も情けないものだった。返事は期待できないと思ったのか、彼は眉を下げると、そっとため息をつくように笑った。
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