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#14 茉莉子の苦悩
14-2 茉莉子の苦悩
しおりを挟む弟のデビュー当時から現場に通い詰めた彼女こそ、酸いも甘いも嚙み分けていた。
ある日は、血の気の多い大地ファンによる場外乱闘を制圧した。個人写真集の在庫をめぐって、櫂人後援会の派閥争いを仲裁したこともある。佑真担当の大多数を占めるホストクラブの客は情緒不安定な気質が多く、ライブハウス屋上からの飛び降りを何度か制止したものだ。ファン管理においてトラブルが無いのは温厚な性格の奏多だが、彼自身が一番深い闇を抱えていると踏んでいた。毎週末、近所の斧投げバーに通っていることを知っていたから。
弟の天賦の才能は元より、誰よりも≪SPLASH≫の潜在力と課題を知り尽くしている。
プロダンサー仕込みの多彩なパフォーマンス、抜群の作曲作詞センス、コアな層を鷲掴みにする集客力を兼ね備えた新感覚ボーイズグループ。ウォーターガンから繰り出される放水は『聖水』と重んじられ、古参勢からの崇拝は根強い。
今度の晴れ舞台には、演出家も音響監督も必要ない。彼女こそが総合プロデューサーだからだ。
「問題はやっぱり衣装よね。もっと洗練されたイメージが欲しいの」
「良いですね!どんな感じですか?」
ティーセットを片付けていた奏多が、興味ありげに顔を上げた。
今の週替わりの衣装は、櫂人後援会の奥様方から寄贈されたもの。実質的に最高位スポンサーであり、大いなる御意向には最大限添えなければいけない。しかし、アイドル史90年代の遺物のようなデザインが、何とも言えない芋臭さを醸し出していた。今時、王子様風衣装なんて2次元か2.5次元でしか見たことがない。
茉莉子は緩く巻いたロングヘアを束ねると、小気味よく手を叩いた。
「お勉強も兼ねてショッピングに行くわよ」
*
人工甘味料たっぷりのトゥンカロンは、健康志向のグリークヨーグルトへ。
ネオンカラーのストリートファッションは、気品漂うハイファッションへ。
ひしめくコンクリートは、秋風が吹き抜けるケヤキ並木へ。
たった一駅離れただけで、サイネージ広告のノイズは立ち消え、心地良い喧噪が流れる。
オフィスとマンションからほど近い青山通りは、茉莉子の通い慣れたテリトリーだ。彼女のすぐ後ろを歩いていた佑真は、セルカ棒を片手に朗らかな笑顔を溢した。
「皆で揃って出かけるの、かなり久しぶりだよね」
「本当だね。嬉しいなぁ」
と、彼女の愛弟も口元を綻ばせた。
それぞれ別の仕事を抱えながらレッスンに明け暮れる彼らが忙しいのは、今に始まったことではない。だが、待望のライブオファーが舞い込んでからというものの五人は上機嫌だ。まだファンへの正式発表が叶わず、動画撮影中もどこか落ち着きがない。
「気になるの?櫂人君」
どちらかと言うと、櫂人だけは物珍しそうな様子で、通り過ぎる雑貨屋やカフェテラスを眺めていた。高貴な身分ゆえに、大衆店には馴染みがないのか。ある店に差し掛かった時、敷地を一周囲むほど連なった行列を見つめていた。
「いえ……あまりにも長蛇の列なので。一体何の店でしょうか?」
「生ドーナツ専門店よ。日曜は特に多いわね……ちょっと待ってて」
茉莉子が連絡を一本入れると、裏口からスタッフが袋を提げて顔を出した。
作りたてのドーナツを奏多に手渡すと、純粋な感動を見せてくれた。
「さすがお姉さん。超人気店で顔パスなんて最高ですね」
「ふふ。現場の差し入れでよく利用するから、特別にね」
人気メニューの詰め合わせを前に、櫂人はなおも当惑を隠せない。名家の方針で、ドーナツそのものを禁じられてきたのではないかと訝しむほどに。
「生とは……よもや加熱されていないのか?」
「ちゃんと揚げてるけど、生みたいな食感ってこと。食べてみればわかるよ」
奏多はピスタチオ味を取り出すと、器用に半分に割って櫂人の口元に運んだ。
「!っ……もちもちして美味しい」
乙女のように頬を染めた一言に、ドッと笑いが起こる。
茉莉子は隠し撮りをしたい衝動を堪え、心のアルバムに仕舞った。甘酸っぱい恋の行方を誰にも共有できないことは、彼女の数ある苦悩の一つだった。
茉莉子の特権は生ドーナツだけではない。
これから向かう隠れ家セレクトショップでは、知人のスタイリストに掛け合って、試着室を予約してもらっているのだ。
次期CEOの仕事は早い。
五人が仲良くバターサンドを食べている間に、完璧な依頼を済ませていた。
高級住宅街にひっそりと佇むガラス張りのブティックは、モード上級者からのラブコールが絶えない。アートギャラリーを兼ね備えた空間には、上質な家具やオーガニックコスメと並んで、選び抜かれたデザイナークローズが陳列されていた。
「橘様、お待ちしておりました。
お送りいただいたムードボードを基に、お一人ずつ数パターンをご用意しております」
ドーナツに夢中だったアイドル達の間に、俄かに緊張が走る。
ローズウッドのソファに案内された茉莉子は、シャンパングラスを受け取って優雅に足を組んだ。
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