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乏しい蝋燭の明かりに照らされた坑道には、絶えず金属的な音が鳴り響いていた。
坑道の岩壁の前にうずくまって、黙々と槌を振るっている人影がいくつも。
砕いた石を天秤棒にかついで、これもまた黙々と外に運んでいく影もある。
帝国人の監視の中、大狼も岩壁にはりついて岩を割った。鏨や槌を持つ両手は、すでにまめだらけになっている。
夢にも思わなかったことだった。こんなことになろうとは。
いつ帰れるか知れなかった風嵐なのだ。それが、こうも簡単に舞い戻り、日長一日岩を叩いている。面目なくも、捕虜として。
風嵐島の中腹近く、館の建つ場所ともさほど離れていない山中だった。
近くに渓流があり、そのほとりを平らにならして、鉱石を砕く巨大な石臼が備え付けられていた。もちろん、はじめからあったものではない。帝国人が捕虜に命じて作ったものだ。
砕かれた鉱石は、底の平たい大きな笊のようなものに入れられて川水に浸される。それを揺すりながら、目当てのものを選り分けていく。
澄んだ水の中で、それはきらりと輝きを見せた。
目当てのものとは金だった。帝国人は、金を求めているのだ。
風嵐に金脈があったなんて、住んでいた大狼さえ知らなかった。だいたい、金は大那で重きをなさなかった。ずっと昔から大那人が愛してきたのは、月の光にも似た銀の輝きなのだ。
帝国人は違っている。風嵐にも大那の言葉を話せる佐巣の仲間がおかれていた。彼の話すところによると、〈帝国〉では金が絶対的価値を持っているらしい。
とはいえ、ひどく浅ましいものを大狼は感じていた。大那を侵略に来て半分以上もの兵を失い、まだ目的も果たしていないというのに。
戦をしかけている一方で、早々と金に飛び付いているのだ。敵にしているこちらの方が情けなくなってくるではないか。
こんな浅ましさは、ハイラからは感じられなかった。おそらく総督ガルガの命令なのだろう。欲の塊のような爺さんだと佐巣は言っていたっけ。
そのガルガは大狼の館で、我がもの顔に暮らしているようだ。
〈狼〉の惣領たちが、何代にも渡って息づいてきた館なのだ。大狼にとっても、山ほどの思い出が残っている。
せめて荒らさずにいてほしかったが、無理な注文かもしれなかった。連中はおそらく、長革靴のままで館に上がり込んでいることだろう。
大狼が風嵐に来てから、一月が過ぎていた。
逃げることばかりを考えながら、果たせないでいる毎日だった。
風嵐は島なのだ。舟を手に入れなければ抜け出せない。それは大小とも久鳴の港に繋ぎ止められているし、帝国人に出くわさずに港に行くことはまず不可能だ。
坑道近くに立てられた捕虜たちの小屋には、見張りが四六時中立っていた。捕虜同士、互いに励ましあうのが精一杯だ。
数は五六十人いたろうか。その中には、だいぶ海人も交じっていた。帝国人は海人を同胞と見做さなかったのだ。
同じ捕虜として、海人も他の大那人も労わりあいながら暮らしているのを見て、大狼はなんとなく嬉しかった。海人は、大那の民人なのだ。
帝国人だって、戦いなしに大那と交流することができたはずなのに。
大狼は考えずにはいられない。帝国人が金を欲しいというのなら、大那は金を送り出すこともできるだろう。〈帝国〉はかわりに、大那にはない有益なものを送ってくれればいい。
こんな無駄な血を流さなくともよかったはずだ。
もうとりかえしのつかないことなのだろうか? 互いに少しづつ認めあえば、双方の関係をもっといい方向に持っていくことができるのではないか。
大狼は、ため息をついた。
雪はよく降りつづいた。止んだかと思うと思い出したようにまた降りだして、地面にいくつもの層を作った。
風嵐近辺は、だいたいが雪の多い地方ではなかった。それなのにこのありさまとなると、内陸の山深い国々はいったいどんなふうになっているだろう。
一方で、降る雪は戦をも封じていた。
帝国人の唯一の失態は、彼らの不慣れな雪の季節に来たことだ。彼らは津木から身動きとれないでいるようである。
このまま諦めてくれれば、互いのためにどんなにいいか。
思わずにはいられない大狼だった。
その朝、大狼はいつものように他の捕虜たちと仕事場に引き出された。
三日ぶりに雪が晴れている。大狼は、いくらかほっとした。坑道に入る者たちよりも、川辺の仕事の方が辛そうだったのだ。
川の水はただでさえ冷たく、彼らの手はみるみる真っ赤に膨れ上がる。薬さえつけることもできず、皸はひどくなるばかり。血をにじませている者もいたようだ。
せめて雪の日は休ませるように大狼は何度か異人に掛け合ったが、彼らは知らぬふりをするだけだった。こちらの身振り手振りが通じないはずはないというのに。
うるさい捕虜と思われたためか、大狼の仕事は最初の岩削りから、石運びに変えられていた。天秤に、担げるだけの石を担いで砕石場に運ぶのだ。坑道は日増しに長くなり、運ぶ距離はそれだけ増えた。
この二三日は、小屋に帰ってもぐったりと疲れ果てて眠るだけだったのだから、大狼をおとなしくさせるという帝国人の目論みは、うまくいったことになる。
肩に食い込む天秤を担いで、大狼は坑道の出口近くで一息ついた。
そこに立っているはずの監視役がいなかった。いつもなら、早く行けと鞭を鳴らして威嚇するはずなのだが。
外に出ると、そのわけがわかった。
坑道の傍の、雪でなだらかになった斜面の上に、数人の帝国人が立っている。監視役は、中央にいる黒い外套をまとった男に、なにやら熱心に説明しているようだ。
大狼は直感した。初めて見る顔だが、あれが総督ガルガにちがいない。坑道を視察にでも来ているのか。
軍人というよりは、強欲な長者といった方がぴったりとする男だった。五十代の半ばぐらいだろうか、すでに頭は禿げ上がり、裾の方に薄い金髪を残している。
醜いほどに太った体型、弛んだ頬に二重顎。唇は厚く、締まりがなかった。全体的に白くぶよついた感じだが、細い眼の奥ばかりが、抜け目なさそうにぎらついている。
見るからに油ぎった、いやらしい爺さんだ。風嵐を思うさまに荒らしているのは、こんな人間だったのか。
副総督のハイラの方が、よっぽど人望が厚いことだろう。しょっちゅう怒っているような彼の顔が、不思議に懐かしくさえなった。
思わず立ち止まった大狼に気づき、監視役が空で鞭を鳴らした。
やりきれなさに歯がみして、大狼は再びのろのろと歩き出した。
と、ほとんど同時だった。
地を揺るがす、爆音がとどろいたのだ。
ガルガたちのいた場所から、凄まじい雪煙が立ち昇った。
その瞬間、大狼は彼らの立つ斜面近くの雑木林に人影を見つけた。人影は、くるりと身をひるがえして姿を消した。
すばやすぎて、一人だったのか複数だったのかはわからなかった。だが、彼(彼ら?)が例の鉄玉を投げたことははっきりしている。何者かが、ガルガの命を狙ったのだ。
驚いた帝国人たちが、ガルガのもとに駆け寄って行った。雪煙はまだ視界を白くしている。
立ちすくんだものの、大狼はすぐに次の行動に移っていた。
帝国人の仲間われか、それとも彼らの武器を手に入れた大那人か。
誰のしわざにせよ、自分が逃げるとしたら今をおいて他にないではないか。
生まれてから、二十年以上も暮らした島である。帝国人よりは、よっぽどくわしいつもりだった。
彼らの知らない杣道を抜けて海岸に出ればいい。
そう思ったものの、雪が事を面倒にした。雪の上の足跡は、いやでも大狼の道筋を知らせてしまうだろう。
救いは、ガルガの一件に、どれだけ帝国人が釘づけになっているかということにかかっていた。大狼の逃亡に気づくまで、彼らの追いつけないところまで行くことさえできれば。
雪を掻き分け掻き分け、大狼は夢中で逃げた。樵しか通らない山道を越え、裏風嵐の方に出ようと思ったのだ。
裏の浜には、まだ大津波の時の船の残骸が打ち上げられている。中にはまだ役にたちそうなものもあるかもしれない。
常時帝国人がいる久鳴で舟を盗むより、自分で筏を作る方が安全だ。粗末なものでかまわない。津木までは、ほんの眼と鼻の先。
自信のある者ならば、泳いでも行ける距離なのだ。むろん、冬の荒れた海は無理だろうが。
帝国人が追ってくる気配はまだなかった。しかし、大狼は遮二無二進み続ける。立ち止まれば、寒さで凍りついてしまいそうだったのだ。
雪は、腰のあたりまで積もっていた。天も地も、白と灰色だけの世界。
木々は凍りついた幹や枝に雪をまぶし、巨大な化物といったふぜいで大狼の前に立ちはだかっていた。鳥も小さな動物も、まったくといっていいほど気配を絶っている。大狼の荒い呼吸と、どこかの木から雪の落ちる重たい音が聞こえるばかり。
行けども行けども景色は変わらなかった。閉ざされた雪山を、際限もなく巡っているような気がした。風嵐の山は、決して険しいものではない。はじめて通る道でもなかった。
なのに、ただ雪に覆われただけで、このよそよそしさはなんだろう?
はっと我にかえる瞬間、自分はもう死んでいて、霊ばかりの存在であるという錯覚にとらわれた。大那の地霊の一部として、生から死、死から生へと、限りなく環の上を巡っている。
しかし、地霊はもう力つき、消え入るばかり……。
雪の下の枯れ木に足をとられて、大狼はどっと前に倒れ込んだ。
両手を雪の中から引き抜き、髪の毛をぶるっと振って頭をはっきりさせる。
負けるものか、と大狼は思った。
なんとしてでも生きる方法を見つけてやる。大那も、この自分たちも。
大狼は、自分を励まして立ち上がった。二三歩進んだとたん、唐突に視界が開けた。
目の前は、急な下り坂となって海岸に向かっている。木々の向こうは灰色の空、そしてそれとほとんど境のない色合で広がっている灰色の海。
槻木の細長い島影が、ようやく見て取れた。この広大な海の向こうから、帝国人たちはやってきたわけか。
はるか遠く、大那人が想像もしたこともない大陸から。
その時、大狼の頭の中で、とぎれのない環が確かに壊れた。
なにかが、ふっきれたような気がした。まだそれを、言葉に表すことはできなかったが。
大狼は歪んだような笑いを片頬に浮かべ、急いで坂を滑り下りた。
休む間もなく、雪のない磯辺を辿って移動した。雪にくっきりとつけてきた自分の足跡から、少しでも遠ざかる必要があったのだ。
足場の悪い岩の上に飛び乗ったり、よじ登ったりしながら、めぼしい舟の残骸を捜して行く。
そして運のいいことに、岩と岩との間に逆さになって挟まれていた艀舟を見つけた。
華奢な造りからすると大那のものだ。苦労してひっくりかえすと、それでも壊れているのは舳先の上と仕切り板だけだということがわかった。
津木に行くまでの間なら、まず沈む心配はなさそうだ。あとは、櫓の代わりになりそうな板切れを見つけるだけ。
運が向いてきた、と大狼は自分に言い聞かせた。
これは、海に眠る父からの贈り物と信じよう。きっと、これからも守ってくれるにちがいない。
陽がすっかり沈むのを待って、大狼は舟を漕ぎ出した。闇にまぎれれば、小さな舟こと。久鳴にいる帝国人も気づくことはないだろう。
月も星もない夜だ。まったくの闇だった。櫓を操る自分の手元も見えはしない。
舟は凍てつく夜を突き進む。唯一の目印は、津木の浜に焚かれているた篝火だった。闇にうかぶちっぽけな赤い点。
振り向けば、風嵐の館のあたりにも同じような明かりが見える。気になるのは、残っている捕虜たちのことだ。
一日も早く、彼らを救け出さなければならない。
自分ひとりで逃げて来たという後ろめたさが胸を締めつけた。このつぐないはしなければ。
前方の赤い火明かりが、いくらか大きくなってきたようだった。まっすぐ津木の港に入ってはまたまた帝国人に捕まってしまう。
大狼は、舟の方向をやや右側にかたむけた。津木の港から少し離れて岩が突き出た磯がある。そこから津木を迂回して沼多に行くことができれば、〈帝国〉の陣から完全に抜け出せたことになる。
子供のころから見慣れた本土の海岸線は、目をつぶっても描くことができる。闇の中とはいえ、目測に誤りはないはずだ。
それでも、大狼は慎重に漕ぎ進んだ。危険は陸近くの方が多い。暗礁にでもぶつかれば、こんな舟はひとたまりもないだろう。
思っているやさき、どこをぶつけたわけでもないのに、舟の中がじめじめと冷たくなってきていることに気がついた。
舟底から、浸水がはじまっている。
もともとが破船だった。最初から底板のどこかが割れていたにちがいない。漕いでいるうちに歪みが広がり、このありさまだ。
充分注意したつもりだったが、後悔してももう遅い。海水は、もう膝のあたりまで入り込んでいた。
大狼は、すばやく対岸に眼をこらした。まだ距離はある。とても舟はもちそうにない。
舟は進むこともできず、ずぶずぶと沈みかけていた。大狼は覚悟を決めて櫓を投げ捨てた。
助かりたければ、泳ぐしかない。
下半身はもう氷のようだった。大狼は、思い切って全身を海にゆだねた。
冷たさで息が止まりそうになる。
大狼は歯を食い縛り、抜き手をきって泳ぎだした。手足の感覚は、すでになくなっていた。動いて水を掻いているのが不思議なくらいだ。
港の火明かりが見えなくなった。とうに目がかすんでいる。
最後はもう、海に浮いているだけだったにちがいない。だが波は、ありがたいことに大狼の身体を陸に運んでくれた。目的通りのあの磯浜へ。
気がつくと、平たい岩の上に打ち上げられていた。
ようやく白みかけた空を認める。身体は重く強ばったまま、動かすこともできなかった。
海は引き潮になっているのだろう。岩の下の方で波しぶきが散っていた。
くりかえす波の音ばかりが、妙に心地よく耳に響く。それを聞きながら、大狼の意識はまたしても遠ざかった。
大狼を呼び起こしたのは、聞き覚えのある声だった。
「若殿」
大狼は、うっすらと目を開けた。
人なつっこそうなそばかす顔が、すぐ近くで大狼を見下ろしている。
青い目が、嬉しげに輝いていた。
「また会えましたね」
にっこりと笑って佐巣は言った。
「おかえりなさい、若殿」
坑道の岩壁の前にうずくまって、黙々と槌を振るっている人影がいくつも。
砕いた石を天秤棒にかついで、これもまた黙々と外に運んでいく影もある。
帝国人の監視の中、大狼も岩壁にはりついて岩を割った。鏨や槌を持つ両手は、すでにまめだらけになっている。
夢にも思わなかったことだった。こんなことになろうとは。
いつ帰れるか知れなかった風嵐なのだ。それが、こうも簡単に舞い戻り、日長一日岩を叩いている。面目なくも、捕虜として。
風嵐島の中腹近く、館の建つ場所ともさほど離れていない山中だった。
近くに渓流があり、そのほとりを平らにならして、鉱石を砕く巨大な石臼が備え付けられていた。もちろん、はじめからあったものではない。帝国人が捕虜に命じて作ったものだ。
砕かれた鉱石は、底の平たい大きな笊のようなものに入れられて川水に浸される。それを揺すりながら、目当てのものを選り分けていく。
澄んだ水の中で、それはきらりと輝きを見せた。
目当てのものとは金だった。帝国人は、金を求めているのだ。
風嵐に金脈があったなんて、住んでいた大狼さえ知らなかった。だいたい、金は大那で重きをなさなかった。ずっと昔から大那人が愛してきたのは、月の光にも似た銀の輝きなのだ。
帝国人は違っている。風嵐にも大那の言葉を話せる佐巣の仲間がおかれていた。彼の話すところによると、〈帝国〉では金が絶対的価値を持っているらしい。
とはいえ、ひどく浅ましいものを大狼は感じていた。大那を侵略に来て半分以上もの兵を失い、まだ目的も果たしていないというのに。
戦をしかけている一方で、早々と金に飛び付いているのだ。敵にしているこちらの方が情けなくなってくるではないか。
こんな浅ましさは、ハイラからは感じられなかった。おそらく総督ガルガの命令なのだろう。欲の塊のような爺さんだと佐巣は言っていたっけ。
そのガルガは大狼の館で、我がもの顔に暮らしているようだ。
〈狼〉の惣領たちが、何代にも渡って息づいてきた館なのだ。大狼にとっても、山ほどの思い出が残っている。
せめて荒らさずにいてほしかったが、無理な注文かもしれなかった。連中はおそらく、長革靴のままで館に上がり込んでいることだろう。
大狼が風嵐に来てから、一月が過ぎていた。
逃げることばかりを考えながら、果たせないでいる毎日だった。
風嵐は島なのだ。舟を手に入れなければ抜け出せない。それは大小とも久鳴の港に繋ぎ止められているし、帝国人に出くわさずに港に行くことはまず不可能だ。
坑道近くに立てられた捕虜たちの小屋には、見張りが四六時中立っていた。捕虜同士、互いに励ましあうのが精一杯だ。
数は五六十人いたろうか。その中には、だいぶ海人も交じっていた。帝国人は海人を同胞と見做さなかったのだ。
同じ捕虜として、海人も他の大那人も労わりあいながら暮らしているのを見て、大狼はなんとなく嬉しかった。海人は、大那の民人なのだ。
帝国人だって、戦いなしに大那と交流することができたはずなのに。
大狼は考えずにはいられない。帝国人が金を欲しいというのなら、大那は金を送り出すこともできるだろう。〈帝国〉はかわりに、大那にはない有益なものを送ってくれればいい。
こんな無駄な血を流さなくともよかったはずだ。
もうとりかえしのつかないことなのだろうか? 互いに少しづつ認めあえば、双方の関係をもっといい方向に持っていくことができるのではないか。
大狼は、ため息をついた。
雪はよく降りつづいた。止んだかと思うと思い出したようにまた降りだして、地面にいくつもの層を作った。
風嵐近辺は、だいたいが雪の多い地方ではなかった。それなのにこのありさまとなると、内陸の山深い国々はいったいどんなふうになっているだろう。
一方で、降る雪は戦をも封じていた。
帝国人の唯一の失態は、彼らの不慣れな雪の季節に来たことだ。彼らは津木から身動きとれないでいるようである。
このまま諦めてくれれば、互いのためにどんなにいいか。
思わずにはいられない大狼だった。
その朝、大狼はいつものように他の捕虜たちと仕事場に引き出された。
三日ぶりに雪が晴れている。大狼は、いくらかほっとした。坑道に入る者たちよりも、川辺の仕事の方が辛そうだったのだ。
川の水はただでさえ冷たく、彼らの手はみるみる真っ赤に膨れ上がる。薬さえつけることもできず、皸はひどくなるばかり。血をにじませている者もいたようだ。
せめて雪の日は休ませるように大狼は何度か異人に掛け合ったが、彼らは知らぬふりをするだけだった。こちらの身振り手振りが通じないはずはないというのに。
うるさい捕虜と思われたためか、大狼の仕事は最初の岩削りから、石運びに変えられていた。天秤に、担げるだけの石を担いで砕石場に運ぶのだ。坑道は日増しに長くなり、運ぶ距離はそれだけ増えた。
この二三日は、小屋に帰ってもぐったりと疲れ果てて眠るだけだったのだから、大狼をおとなしくさせるという帝国人の目論みは、うまくいったことになる。
肩に食い込む天秤を担いで、大狼は坑道の出口近くで一息ついた。
そこに立っているはずの監視役がいなかった。いつもなら、早く行けと鞭を鳴らして威嚇するはずなのだが。
外に出ると、そのわけがわかった。
坑道の傍の、雪でなだらかになった斜面の上に、数人の帝国人が立っている。監視役は、中央にいる黒い外套をまとった男に、なにやら熱心に説明しているようだ。
大狼は直感した。初めて見る顔だが、あれが総督ガルガにちがいない。坑道を視察にでも来ているのか。
軍人というよりは、強欲な長者といった方がぴったりとする男だった。五十代の半ばぐらいだろうか、すでに頭は禿げ上がり、裾の方に薄い金髪を残している。
醜いほどに太った体型、弛んだ頬に二重顎。唇は厚く、締まりがなかった。全体的に白くぶよついた感じだが、細い眼の奥ばかりが、抜け目なさそうにぎらついている。
見るからに油ぎった、いやらしい爺さんだ。風嵐を思うさまに荒らしているのは、こんな人間だったのか。
副総督のハイラの方が、よっぽど人望が厚いことだろう。しょっちゅう怒っているような彼の顔が、不思議に懐かしくさえなった。
思わず立ち止まった大狼に気づき、監視役が空で鞭を鳴らした。
やりきれなさに歯がみして、大狼は再びのろのろと歩き出した。
と、ほとんど同時だった。
地を揺るがす、爆音がとどろいたのだ。
ガルガたちのいた場所から、凄まじい雪煙が立ち昇った。
その瞬間、大狼は彼らの立つ斜面近くの雑木林に人影を見つけた。人影は、くるりと身をひるがえして姿を消した。
すばやすぎて、一人だったのか複数だったのかはわからなかった。だが、彼(彼ら?)が例の鉄玉を投げたことははっきりしている。何者かが、ガルガの命を狙ったのだ。
驚いた帝国人たちが、ガルガのもとに駆け寄って行った。雪煙はまだ視界を白くしている。
立ちすくんだものの、大狼はすぐに次の行動に移っていた。
帝国人の仲間われか、それとも彼らの武器を手に入れた大那人か。
誰のしわざにせよ、自分が逃げるとしたら今をおいて他にないではないか。
生まれてから、二十年以上も暮らした島である。帝国人よりは、よっぽどくわしいつもりだった。
彼らの知らない杣道を抜けて海岸に出ればいい。
そう思ったものの、雪が事を面倒にした。雪の上の足跡は、いやでも大狼の道筋を知らせてしまうだろう。
救いは、ガルガの一件に、どれだけ帝国人が釘づけになっているかということにかかっていた。大狼の逃亡に気づくまで、彼らの追いつけないところまで行くことさえできれば。
雪を掻き分け掻き分け、大狼は夢中で逃げた。樵しか通らない山道を越え、裏風嵐の方に出ようと思ったのだ。
裏の浜には、まだ大津波の時の船の残骸が打ち上げられている。中にはまだ役にたちそうなものもあるかもしれない。
常時帝国人がいる久鳴で舟を盗むより、自分で筏を作る方が安全だ。粗末なものでかまわない。津木までは、ほんの眼と鼻の先。
自信のある者ならば、泳いでも行ける距離なのだ。むろん、冬の荒れた海は無理だろうが。
帝国人が追ってくる気配はまだなかった。しかし、大狼は遮二無二進み続ける。立ち止まれば、寒さで凍りついてしまいそうだったのだ。
雪は、腰のあたりまで積もっていた。天も地も、白と灰色だけの世界。
木々は凍りついた幹や枝に雪をまぶし、巨大な化物といったふぜいで大狼の前に立ちはだかっていた。鳥も小さな動物も、まったくといっていいほど気配を絶っている。大狼の荒い呼吸と、どこかの木から雪の落ちる重たい音が聞こえるばかり。
行けども行けども景色は変わらなかった。閉ざされた雪山を、際限もなく巡っているような気がした。風嵐の山は、決して険しいものではない。はじめて通る道でもなかった。
なのに、ただ雪に覆われただけで、このよそよそしさはなんだろう?
はっと我にかえる瞬間、自分はもう死んでいて、霊ばかりの存在であるという錯覚にとらわれた。大那の地霊の一部として、生から死、死から生へと、限りなく環の上を巡っている。
しかし、地霊はもう力つき、消え入るばかり……。
雪の下の枯れ木に足をとられて、大狼はどっと前に倒れ込んだ。
両手を雪の中から引き抜き、髪の毛をぶるっと振って頭をはっきりさせる。
負けるものか、と大狼は思った。
なんとしてでも生きる方法を見つけてやる。大那も、この自分たちも。
大狼は、自分を励まして立ち上がった。二三歩進んだとたん、唐突に視界が開けた。
目の前は、急な下り坂となって海岸に向かっている。木々の向こうは灰色の空、そしてそれとほとんど境のない色合で広がっている灰色の海。
槻木の細長い島影が、ようやく見て取れた。この広大な海の向こうから、帝国人たちはやってきたわけか。
はるか遠く、大那人が想像もしたこともない大陸から。
その時、大狼の頭の中で、とぎれのない環が確かに壊れた。
なにかが、ふっきれたような気がした。まだそれを、言葉に表すことはできなかったが。
大狼は歪んだような笑いを片頬に浮かべ、急いで坂を滑り下りた。
休む間もなく、雪のない磯辺を辿って移動した。雪にくっきりとつけてきた自分の足跡から、少しでも遠ざかる必要があったのだ。
足場の悪い岩の上に飛び乗ったり、よじ登ったりしながら、めぼしい舟の残骸を捜して行く。
そして運のいいことに、岩と岩との間に逆さになって挟まれていた艀舟を見つけた。
華奢な造りからすると大那のものだ。苦労してひっくりかえすと、それでも壊れているのは舳先の上と仕切り板だけだということがわかった。
津木に行くまでの間なら、まず沈む心配はなさそうだ。あとは、櫓の代わりになりそうな板切れを見つけるだけ。
運が向いてきた、と大狼は自分に言い聞かせた。
これは、海に眠る父からの贈り物と信じよう。きっと、これからも守ってくれるにちがいない。
陽がすっかり沈むのを待って、大狼は舟を漕ぎ出した。闇にまぎれれば、小さな舟こと。久鳴にいる帝国人も気づくことはないだろう。
月も星もない夜だ。まったくの闇だった。櫓を操る自分の手元も見えはしない。
舟は凍てつく夜を突き進む。唯一の目印は、津木の浜に焚かれているた篝火だった。闇にうかぶちっぽけな赤い点。
振り向けば、風嵐の館のあたりにも同じような明かりが見える。気になるのは、残っている捕虜たちのことだ。
一日も早く、彼らを救け出さなければならない。
自分ひとりで逃げて来たという後ろめたさが胸を締めつけた。このつぐないはしなければ。
前方の赤い火明かりが、いくらか大きくなってきたようだった。まっすぐ津木の港に入ってはまたまた帝国人に捕まってしまう。
大狼は、舟の方向をやや右側にかたむけた。津木の港から少し離れて岩が突き出た磯がある。そこから津木を迂回して沼多に行くことができれば、〈帝国〉の陣から完全に抜け出せたことになる。
子供のころから見慣れた本土の海岸線は、目をつぶっても描くことができる。闇の中とはいえ、目測に誤りはないはずだ。
それでも、大狼は慎重に漕ぎ進んだ。危険は陸近くの方が多い。暗礁にでもぶつかれば、こんな舟はひとたまりもないだろう。
思っているやさき、どこをぶつけたわけでもないのに、舟の中がじめじめと冷たくなってきていることに気がついた。
舟底から、浸水がはじまっている。
もともとが破船だった。最初から底板のどこかが割れていたにちがいない。漕いでいるうちに歪みが広がり、このありさまだ。
充分注意したつもりだったが、後悔してももう遅い。海水は、もう膝のあたりまで入り込んでいた。
大狼は、すばやく対岸に眼をこらした。まだ距離はある。とても舟はもちそうにない。
舟は進むこともできず、ずぶずぶと沈みかけていた。大狼は覚悟を決めて櫓を投げ捨てた。
助かりたければ、泳ぐしかない。
下半身はもう氷のようだった。大狼は、思い切って全身を海にゆだねた。
冷たさで息が止まりそうになる。
大狼は歯を食い縛り、抜き手をきって泳ぎだした。手足の感覚は、すでになくなっていた。動いて水を掻いているのが不思議なくらいだ。
港の火明かりが見えなくなった。とうに目がかすんでいる。
最後はもう、海に浮いているだけだったにちがいない。だが波は、ありがたいことに大狼の身体を陸に運んでくれた。目的通りのあの磯浜へ。
気がつくと、平たい岩の上に打ち上げられていた。
ようやく白みかけた空を認める。身体は重く強ばったまま、動かすこともできなかった。
海は引き潮になっているのだろう。岩の下の方で波しぶきが散っていた。
くりかえす波の音ばかりが、妙に心地よく耳に響く。それを聞きながら、大狼の意識はまたしても遠ざかった。
大狼を呼び起こしたのは、聞き覚えのある声だった。
「若殿」
大狼は、うっすらと目を開けた。
人なつっこそうなそばかす顔が、すぐ近くで大狼を見下ろしている。
青い目が、嬉しげに輝いていた。
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にっこりと笑って佐巣は言った。
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