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トルグは、川岸の土手に立って目をこらした。
白くたちこめる川霧が、向こうの中州を隠していた。霧は風にゆっくりと流れ、濃淡をつくり、ほんのいっとき中州の一部をかいま見せる。
アイン河はヴェズのほぼ中央をゆるやかに流れる大河で、河口に近いこのあたりは川幅も広い。中州とはいえ一つの町ほどの大きさはあるだろう。
乳色の空は、東の太陽のある部分だけが白銀の光をおびている。そこに向かって、ひときわ高く一本の塔が伸びていた。細長い円柱形の塔だ。塔を中心にした横長の建物が、霧の隙間から影絵のように浮かび上がる。まるで、大きな城。
アイン・オソ。
トルグは口に出してつぶやいた。
ヴェズのどの領地にも属さない場所だ。王家の庇護は受けているが、かならずしもその命令に従うとは限らない。自由な立場で独自の法を持ち、ヴェズのために働く者たちを育成する、唯一無二の魔法学校。それがアイン・オソなのだ。
霧で身体中が湿っぽかったけれど、トルグは気にもしなかった。故郷の山岳地帯からはるばるを旅つづけ、いまアイン・オソは目の前にある。
トルグは十三才で、同じ年ごろの子供よりもだいぶ小柄で幼く見えた。癖のある黒い髪に、きらきらした茶色の眼の可愛らしい顔立ちをしており、肩に担いだ大きめの荷物が少し痛々しい。
そのためかどうか、初めての一人旅は自分でもびっくりするほど順調だった。もちろん故郷の魔法使い、サザが持たせてくれたアイン・オソへの推薦状も効力があったろう。ヴェズの人々は、アイン・オソに行こうとする子供には親切なのだ。彼らはいずれ魔法使いになり、自分たちの役にたってくれるかもしれないから。
どこの村に着いても、女性陣はトルグを放っておかなかった。たっぷりとした食事と清潔な寝床を与え、行く先々で馬車や舟の乗り継ぎを算段してくれた。
気がつけば、旅は十日もしないうちに終わりを迎えていた。今朝方乗せてもらった荷車のおやじさんが、ここで降ろしてくれたのだ。
「いい魔法使いになんな、坊や」
おやじさんはいっぱいに積んだキャベツの間からトルグを引き上げ、さっそうと行ってしまった。
ごとごと揺れる荷車のキャベツとそれを引く馬上のおやじさんに深く頭を下げた後、トルグは改めてアイン・オソに対峙したのだった。
苦労するのはこれからかな。
武者震いのようなものを感じた。ヴェズの各地から、魔法使いの推薦状を持った者たちがアイン・オソにやってくる。しかし、この魔法学校を卒業できる者はごく僅かだということだ。
それでも行く価値はあるだろうとサザは言った。アイン・オソでは、さまざまな学問を教えてくれる。魔法使いとして卒業できなくとも、薬師や測量士や写本師として名を残した者は大勢いる。
大乗り気だったのは、トルグの両親だった。六人兄弟の末っ子だ。半農半牧の家ではトルグが成人したところで分け与える畑も羊もなかった。どのみち、独り立ちしなければならないのだ。魔法使いに天賦の才を見だしてもらえたのはありがたい。
羊毛と玉蜀黍以外の世界があることなど、考えたこともなかったトルグも、やがてその気になった。故郷を離れるのは寂しかったが、魔法使いは魅力的だ。サザのようにいなくなった羊を探し当てたり、狼除けの結界を張って人々に感謝されるのも悪くない。
それにはまず、学ぶべきことを学ばなければ。
トルグはひとつ大きく息をして、土手を下りていった。中州への渡し舟は、この下から出ると教えてもらったのだ。
船着き場はすぐに見つかった。川辺の平地に小屋がひとつあり、側に木の桟橋が伸びていた。五六人乗りの細長い舟が舫ってある。河の上を這う霧で、桟橋の先は見えなくなっていた。
小屋の中に人の気配があった。トルグは、小屋の戸をたたいた。
「おはいり」
やさしげな老人の声がした。
中は土間で、真ん中に炉が切ってあった。炎が湿気を追い払っていた。まとわりつく霧から逃れて、トルグはほっとした。
炉に向き合って、白髪交じりの老人と少年がひとり座っている。
「おお、また一人来たな」
老人は目を細めて言った。
「春先のこのあたりは霧が深くての。まあ、昼には晴れるはずだ。そしたら舟を出すからもう少しお待ち」
少年は、トルグを見てにこりと笑った。
「お仲間ね。よろしく」
トルグは、はっとした。少年ではなく、少女だったのだ。
旅の便宜上、男物の地味なズボンとチュニックを着ていたが、よく見ると身体の線は柔らかい。髪は薄い金色で、首の後ろで無造作に束ねていた。ふわふわして束ねきれない巻き毛が色白できれいな顔を縁取っている。
トルグより二つか三つ年上。まっすぐトルグに向けられた大きな目は、澄んだ水の色に近かった。トルグはどきまぎして、思わず視線を下にした。
「わたしはスホックのリイシャ」
サザからヴェズの地理は教えてもらっていた。スホックは北方の海岸地帯だ。ずいぶん寒いところから来たらしい。
「ぼくはカグランのトルグ」
「西の山地ね。一人でここまで? 偉かったわねえ」
トルグのことを、ずっと子供と思っているようだ。トルグは肩をそびやかした。
「きみだって」
「大きな船で、海を渡って来たの。辛かったのは嵐にあった時くらい」
「北は海が荒いからな」
老人が口をはさんだ。
「ええ。自分がもう魔法使いになっていたら、と思ったわ。わたし、今でも少しは風を動かせるの」
「ほう」
「だからオリクが──わたしの町の魔法使いなんだけど──推薦状を書いてくれた。あなたは?」
リイシャはトルグにやさしく問いかけた。
「遊び札」
サザは仕事のない時、子供たちを集めて読み書きや計算を教えてくれた。ある日、サザが遊び札を出した。手のひらくらいの大きさの札が三十枚。裏は真っ黒だが、表には色とりどりの鳥や、獣や、虫などが同じ図柄二枚づつ描かれている。それをばらばらに裏返して、順番にめくるのだ。同じ図柄をたくさん当てた者が勝ちとなる。
何度やってもトルグは一番だった。トルグの勘は、ほとんどの札を当てることができた。
「魔法使いの卵を見つけることも魔法使いの仕事なんだよ」
老人は言った。
「うまく孵るかどうかは、これからの卵しだいだ」
「そうね」
リイシャはまぶしい笑みを浮かべた。
「がんばる」
白くたちこめる川霧が、向こうの中州を隠していた。霧は風にゆっくりと流れ、濃淡をつくり、ほんのいっとき中州の一部をかいま見せる。
アイン河はヴェズのほぼ中央をゆるやかに流れる大河で、河口に近いこのあたりは川幅も広い。中州とはいえ一つの町ほどの大きさはあるだろう。
乳色の空は、東の太陽のある部分だけが白銀の光をおびている。そこに向かって、ひときわ高く一本の塔が伸びていた。細長い円柱形の塔だ。塔を中心にした横長の建物が、霧の隙間から影絵のように浮かび上がる。まるで、大きな城。
アイン・オソ。
トルグは口に出してつぶやいた。
ヴェズのどの領地にも属さない場所だ。王家の庇護は受けているが、かならずしもその命令に従うとは限らない。自由な立場で独自の法を持ち、ヴェズのために働く者たちを育成する、唯一無二の魔法学校。それがアイン・オソなのだ。
霧で身体中が湿っぽかったけれど、トルグは気にもしなかった。故郷の山岳地帯からはるばるを旅つづけ、いまアイン・オソは目の前にある。
トルグは十三才で、同じ年ごろの子供よりもだいぶ小柄で幼く見えた。癖のある黒い髪に、きらきらした茶色の眼の可愛らしい顔立ちをしており、肩に担いだ大きめの荷物が少し痛々しい。
そのためかどうか、初めての一人旅は自分でもびっくりするほど順調だった。もちろん故郷の魔法使い、サザが持たせてくれたアイン・オソへの推薦状も効力があったろう。ヴェズの人々は、アイン・オソに行こうとする子供には親切なのだ。彼らはいずれ魔法使いになり、自分たちの役にたってくれるかもしれないから。
どこの村に着いても、女性陣はトルグを放っておかなかった。たっぷりとした食事と清潔な寝床を与え、行く先々で馬車や舟の乗り継ぎを算段してくれた。
気がつけば、旅は十日もしないうちに終わりを迎えていた。今朝方乗せてもらった荷車のおやじさんが、ここで降ろしてくれたのだ。
「いい魔法使いになんな、坊や」
おやじさんはいっぱいに積んだキャベツの間からトルグを引き上げ、さっそうと行ってしまった。
ごとごと揺れる荷車のキャベツとそれを引く馬上のおやじさんに深く頭を下げた後、トルグは改めてアイン・オソに対峙したのだった。
苦労するのはこれからかな。
武者震いのようなものを感じた。ヴェズの各地から、魔法使いの推薦状を持った者たちがアイン・オソにやってくる。しかし、この魔法学校を卒業できる者はごく僅かだということだ。
それでも行く価値はあるだろうとサザは言った。アイン・オソでは、さまざまな学問を教えてくれる。魔法使いとして卒業できなくとも、薬師や測量士や写本師として名を残した者は大勢いる。
大乗り気だったのは、トルグの両親だった。六人兄弟の末っ子だ。半農半牧の家ではトルグが成人したところで分け与える畑も羊もなかった。どのみち、独り立ちしなければならないのだ。魔法使いに天賦の才を見だしてもらえたのはありがたい。
羊毛と玉蜀黍以外の世界があることなど、考えたこともなかったトルグも、やがてその気になった。故郷を離れるのは寂しかったが、魔法使いは魅力的だ。サザのようにいなくなった羊を探し当てたり、狼除けの結界を張って人々に感謝されるのも悪くない。
それにはまず、学ぶべきことを学ばなければ。
トルグはひとつ大きく息をして、土手を下りていった。中州への渡し舟は、この下から出ると教えてもらったのだ。
船着き場はすぐに見つかった。川辺の平地に小屋がひとつあり、側に木の桟橋が伸びていた。五六人乗りの細長い舟が舫ってある。河の上を這う霧で、桟橋の先は見えなくなっていた。
小屋の中に人の気配があった。トルグは、小屋の戸をたたいた。
「おはいり」
やさしげな老人の声がした。
中は土間で、真ん中に炉が切ってあった。炎が湿気を追い払っていた。まとわりつく霧から逃れて、トルグはほっとした。
炉に向き合って、白髪交じりの老人と少年がひとり座っている。
「おお、また一人来たな」
老人は目を細めて言った。
「春先のこのあたりは霧が深くての。まあ、昼には晴れるはずだ。そしたら舟を出すからもう少しお待ち」
少年は、トルグを見てにこりと笑った。
「お仲間ね。よろしく」
トルグは、はっとした。少年ではなく、少女だったのだ。
旅の便宜上、男物の地味なズボンとチュニックを着ていたが、よく見ると身体の線は柔らかい。髪は薄い金色で、首の後ろで無造作に束ねていた。ふわふわして束ねきれない巻き毛が色白できれいな顔を縁取っている。
トルグより二つか三つ年上。まっすぐトルグに向けられた大きな目は、澄んだ水の色に近かった。トルグはどきまぎして、思わず視線を下にした。
「わたしはスホックのリイシャ」
サザからヴェズの地理は教えてもらっていた。スホックは北方の海岸地帯だ。ずいぶん寒いところから来たらしい。
「ぼくはカグランのトルグ」
「西の山地ね。一人でここまで? 偉かったわねえ」
トルグのことを、ずっと子供と思っているようだ。トルグは肩をそびやかした。
「きみだって」
「大きな船で、海を渡って来たの。辛かったのは嵐にあった時くらい」
「北は海が荒いからな」
老人が口をはさんだ。
「ええ。自分がもう魔法使いになっていたら、と思ったわ。わたし、今でも少しは風を動かせるの」
「ほう」
「だからオリクが──わたしの町の魔法使いなんだけど──推薦状を書いてくれた。あなたは?」
リイシャはトルグにやさしく問いかけた。
「遊び札」
サザは仕事のない時、子供たちを集めて読み書きや計算を教えてくれた。ある日、サザが遊び札を出した。手のひらくらいの大きさの札が三十枚。裏は真っ黒だが、表には色とりどりの鳥や、獣や、虫などが同じ図柄二枚づつ描かれている。それをばらばらに裏返して、順番にめくるのだ。同じ図柄をたくさん当てた者が勝ちとなる。
何度やってもトルグは一番だった。トルグの勘は、ほとんどの札を当てることができた。
「魔法使いの卵を見つけることも魔法使いの仕事なんだよ」
老人は言った。
「うまく孵るかどうかは、これからの卵しだいだ」
「そうね」
リイシャはまぶしい笑みを浮かべた。
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