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第一部
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しおりを挟む「あまり根を詰めて稽古するからだ」
怒ったように羽矢が言った。
「涼しい顔で無理をする。だから更伎は嫌いなんだ」
だが、彼のことを心配しているのは確かなようだ。大事をとって泊まった更伎を、不二は翌日明星で送って行くように言いつかった。
明星に乗った更伎の身体は、いっそう薄く、疲れて見えた。目ばかりが冴え冴えと輝いている。彼自身、昨日の琵琶に満足しているのだろう。だが、呪力がこもる龍の琵琶。それを弾くということが、どれほどの気力と体力を必要とするか、不二にも理解できたような気がした。
来たとき同様、更伎の琵琶を恭しく抱えた都瑠が、明星を引く不二の道案内をしてくれた。
更伎の屋敷は夜彦山の西の麓近くにあった。月弓の館よりも幾分小ぶりの門をくぐると、見覚えのある人物がいた。
「惟澄」
更伎は微笑んだ。
「来ていたのか」
惟澄は上衣に袴といった男装だった。動きやすい格好がお好みらしい。
「龍の琵琶を弾くと聞いていたから」
惟澄は気遣わしげな目を更伎に向けた。
「夕べは帰れなかったそうじゃない」
「大丈夫だ。柚宇さまに大事をとらされただけでね」
更伎は、明星から降りた。不二に向き直り、
「世話になった、不二。羽矢によろしく言っていてくれ」
惟澄は眉を上げた。
前もこんな顔をしたな、と不二は思った。羽矢の名前が出た時に。ほんのかすかだが、惟澄は表情を曇らせた。
ちくりと、どこか痛むように。
惟澄は不二を思い出したらしく、軽くうなずいてみせた。不二は頭を下げ、母屋の方に行く二人を見送った。
「なんとか弾けたよ、惟澄」
更伎が言っていた。
「だが、まだだな。月弓さまには及びもつかない」
「焦ることはないわ」
「そうかな」
最後に聞こえた更伎の言葉は、ほとんどささやきに近かった。
「時間がないんだ」
羽矢の元に戻った不二は、無事更伎を送り届けたと報告した。
「惟澄さまがいらっしゃいました」
「惟澄か」
羽矢は鼻先に皺をよせた。こちらは、分かりやすい反応だ。
二人の間に何があるのだろう。
「このお館に来る前にも、一度お会いしたことがあります。みごとに弓を引かれていました」
「あいつも嫌いだ。いまでこそ大きな顔をしているが、昔はわたしより小さかった」
「昔?」
羽矢は肩をすくめてそっぽを向いた。それ以上尋ねるのはやめて、不二は退散した。また側に近づけなくなったらかなわない。
かわりに、夕食時に須守に聞いてみた。
「羽矢さまと惟澄さまは、昔はお親しかったのですか」
「親しいもなにも」
須守は、不二に野菜汁を渡してくれながら言った。
「お二人は乳兄弟でございましたからね。惟澄さまのお母上が亡くなる六つの時まで、羽矢さまはほとんど向こうのお屋敷で過ごされておりましたよ」
「ほう」
「その後は、惟澄さまがよくこちらに見えられました。可愛らしいお姫さまでしたわねえ。更伎さまも琵琶のお稽古に通い始めたころで、三人ともとても仲がよろしくて」
須守は、当時を懐かしむように目を細めた。
「あのころの羽矢さまは、惟澄さまのいいお兄さまのようでしたっけ」
四五年ほど前から、二人が顔を合わせることはなくなったという。ちょうど成長期だな。不二は思った。自分たちの違いに気づき始め、お互い距離を置くようになったのか。
共にすごした時間が長かったぶんだけ、葛藤はあったのだろう。羽矢が気難しくなったのは、そのころからかもしれない。
更伎の館では、泉にも会った。
惟澄と来ていた泉は、明星を引いて帰りかけた不二を呼びとめたのだ。
「羽矢さまのところにも、だいぶ慣れたようですわね」
あいかわらずの人懐っこい笑顔で泉は言った。
「まあ、おかげさまで」
「先日、ちょっと里帰りした時に、真崎さまにお会いました。おかんむりでしたよ」
「へ?」
「あなたが夜彦山に登ったきり、音沙汰なしだって」
「ああ、なるほど」
戻らないのは、恙無く勤めている証。多雅も叔母もそう思っているはずだった。だが、真崎にしてみれば、面白くないらしい。長くは続かないだろうと断言した不二が、まだ羽矢のもとに留まっているのだから。
そろそろ、感謝の言葉でもかけて来るか。こうしてうまく勤めていけそうなのも、あなたのご助言のおかげです、と。
「おお、そうでしたな」
不二が願い出ると、佐尽は何度も頷いた。
「気づかずにいて申し訳ありません。不二どのがお顔を見せれば、惣領もご安心なさるでしょう。いつでも行ってらっしゃいませ」
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