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第一部
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しおりを挟む久々の太陽のまぶしさに目を細めて、不二は外に出た。
季節は、すっかり夏の盛りだ。
須守がせっせと作ってくれた滋養たっぷりの食事のおかげで、身体のふらつきは、すっかりとれていた。右足の強ばりだけは治らなかったが、こればかりは一生の付き合いと諦めるしかないらしい。少しばかり悲しい思いで、不二は自分に言い聞かせた。
しかし、足をひきずりながらも杖なしで歩けたし、馬にも乗れそうだ。羽矢の側人を務めるには支障ない。
だいたい、こうなったからには、羽矢は自分を離すまい。羽矢は不二の怪我に責任を感じているはずだから。
厩に足を向けると、明星が嬉しそうに鼻面を擦りつけてきた。
「よしよし、おまえは可愛いな」
明星とじゃれあいながらその身体を拭いてやる。
ほどなく、羽矢がやって来た。まじまじと不二を見つめ、
「大丈夫なのか、不二」
「ひと月も休ませて頂きました。もう、すっかり良くなりましたよ、羽矢さま」
「無理するな」
「ご心配なく」
不二は笑ってみせた。
「お供もできます」
羽矢は明星のたてがみを撫で、つられたように微笑んだ。
「では、伯父上をお見送りしてから出かけるか」
「月弓さまが、お出かけですか」
めずらしいことだ。不二がここに来てから初めてではないか。
「霊鎮めの琵琶を弾きに」
羽矢は、目を伏せた。
「惟澄の父君が、夕べ亡くなったんだ」
「それはそれは‥‥…」
不二は眉根を寄せ、頭を垂れた。惟澄の父親なら、まだ五十にも満たないにちがいない。だが、これが〈龍〉の新世代の寿命なのだ。
儀礼に則って、惟澄の館から迎えの使者が訪れた。白装束の四人の男が担ぐ輿が用意された。細かな蒔絵が施された、天蓋付きの輿だ。厚い織物が掛けられた長櫃が後ろに続く。龍の琵琶が入っているのだろう、運び手の二人の少年が、恭しく脇に控えていた。
輿に乗り込む月弓も、館の正門まで見送りに出た柚宇も、美しい顔を翳らせていた。
だだの人間でさえ、年下の者の死は痛々しい。月弓たちはこうした死を、どれほど沢山見てきたのか、と不二は思った。旧世代も旧世代なりの辛さを抱えている。
羽矢と共に母屋へ入りかけた柚宇の後ろ姿に、不二は遠くの方から深々と頭を下げた。
自分がこうして生きているのは、とにもかくにも彼女のおかげだ。
振り向きはしなかったが、ほんの一瞬、柚宇は温かな思念で答えてくれた。いたわりと同情、そして信頼。
不二は満足した。
この右足の怪我は、けして無駄にはならないだろう。
昼過ぎに、不二は羽矢について館を出た。
羽矢は、夜彦山の北側に、ゆっくり馬を進めた。こちらには〈龍〉の館も建っておらず、うっそうと木々が茂っている。四方から蝉の鳴き声が聞こえたが、木陰が多く、暑さは感じられなかった。
羽矢がふと明星を止め、空を見上げた。
高い木の間から見える空に、飛翔するものの姿が見えた。こんどは不二もすぐにわかった。
「龍、ですね」
「伯父上が霊鎮めの琵琶を弾いている」
「龍は、琵琶に呼び寄せられるのですか?」
「いや、あれは幻だ」
羽矢は、あっさりと言った。
「伯父上の弾く曲は、幻を見せる」
「しかし、琵琶の音など聞こえません」
「龍の琵琶の音は遠くまでとどく。音として聞こえなくなっても」
「呪力」
不二はつぶやいた。
「では、先日‥‥…更伎さまが龍の琵琶をお弾きになった時に現れた龍も、幻なのですか」
羽矢は頷き、薄く笑った。
「わたしは、本物の龍など見たことが無い」
不二は、細く息を吐き出した。
これで疑問が解けた。
龍が生きるためには、膨大な地霊が必要だ。不二の故郷でさえ、龍が見られなくなってから何十年も経っている。天香は、おそらく大那のどこよりも地霊の衰えている場所なのに、この空にだけ龍が現れるのは、あまりに不自然だと思っていたが。
龍の琵琶は生きた龍を呼び出すのではない。その音が幻を作り出すにすぎないというわけか。
確かに、人々を惹きつけるのは、はっきりと目に見えるものだ。龍を目にした人々は〈龍〉を畏怖し、崇拝の心を新たにするだろう。
龍の一門が大那に君臨し続けるために、龍は翔ばなければならないのだ。
幻であろうと、天香の空に。
「形だけだ。わたしと同じさ」
「何をおっしゃいます」
不二は、どきりとして首を振った。
「羽矢さまは、ちゃんとそこにいらっしゃいます」
「そうかな」
羽矢はため息まじりにつぶやいた。
不二は何も言えず、もう一度空を見やった。
龍は消えていた。
羽矢には、少なからず同情する。〈龍〉の証である紫色の瞳でありながら、呪力を持たない。旧世代にも、新世代にも属せない中途半端な存在。おそらく羽矢は、自分が生まれた理由を探しあぐねているのだろう。
羽矢は無言で明星を歩ませ、見晴らしのいい峠に出た。
眼下遠くに、山道が続いていた。羽矢は明星から降り、しばらくの間、何かを待つようにじっとしていた。
やがて、緑濃い木々の中を静かに歩んで行く、白装束の一団が見えた。墓所に向かう葬列だ。棺の後ろに、白い裳裾をつけた惟澄の姿があった。
不二は、羽矢を見やった。羽矢は、深々と頭を垂れていた。
羽矢は幼いころ、惟澄の館で過ごしたという。世話になった惟澄の父を、ここでひっそりと見送っているわけか。
羽矢の孤独が、痛いほど感じられた。本当ならば惟澄の元に行って悲しみを分かち合いたいところだろうが、羽矢に何が言えるだろう。羽矢には、彼らの数倍もの時間が許されているのだ。
惟澄がふと立ち止まり、こちらを見上げた。
とまどったような羽矢と視線が合う。
惟澄は静かに一礼し、再び歩き出した。
「不二」
葬列が見えなくなると、羽矢は言った。
「はい?」
「わたしが天香を出る時は、いっしょについてきてくれるか?」
不二は目を見開いた。
「どこに行かれます?」
「まず海を見てみたい。それから後は、また考える」
「気の向くままですか」
羽矢は、ちょっと笑みを浮かべた。
「そうだな。気の向くままだ」
父親のように、羽矢もようやく鎖を断ち切る決心がついたわけか。
不二は考えた。
羽矢がいなければ、〈龍〉の主流はやがて新世代のものになる。だが、旧世代が死に絶えて彼らの後ろ盾が無くなった時、呪力がなく寿命の短い新世代が、大那でどこまで力を保っていけるというのか。
天香に飛来する龍は、琵琶が見せる幻だった。夜彦山の頂で大那を守護しているという伊薙にしても、〈龍〉を権威づけるための方便ではないかと思えてくる。
やがて人々がそれに気づき始めた時、〈龍〉を担ぎ上げている蛇の一門の立場もあやういものになるだろう。他の野心ある一門は、黙って天香を見ていまい。
自分に身体が二つあればな、と不二は思った。
一つは羽矢と共に行く。大那の見たことの無い地を経巡り、あと三四十年、人としての時間が終わって息絶える時には、羽矢も涙してくれるだろう。悪くは無い人生だ。
もう一つは、天香に残って〈龍〉の行く末を見届ける。大きな時代の変化は、いつやって来るのだろう。できるなら、それに立ち会いたい。都に来た甲斐があるというものだ。
どちらにしようか。
不二は、心の中で肩をすくめた。
しかし、今はとりあえず──。
不二が口を開き駆けたとき、突然、羽矢が何かを感じたかのように後ろを振り返った。
不二は、その視線を追った。
茂みの中に、一人の男が立っていた。
ぴくりとも動かずに、羽矢を見つめている。
日焼けした顔はやつれ、乱れた髪は色あせたような灰色だった。旅嚢を背負い、薄汚れた柿色の筒袖。その左手は、だらりと垂れたままだった。肘から先が、失われている。
だが、不二の目を奪ったのは、男の左手ではなく、双の瞳だった。
はっとするほど明るい〈龍〉の紫。
羽矢は食い入るように男を見返し、つぶやいた。
「父上?」
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