龍の都

ginsui

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第二部

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 朝、もの悲しい思いで目が覚めた。
 床の上で身を起こし、不二は顔をこすった。
 朝方に見た夢が原因のようだ。夢といっても、はっきりしたものではない。形はなく、ただ思いだけが残っているような不思議な夢だった。
 月弓が、自分たちのもとを去る。
 それだけは、はっきりとわかった。これまでの感謝と、後を頼むと言われたような気がする。
 夢の知らせは館の皆が受け取ったようで、誰しもが沈痛な面持ちをしていた。
 目を赤く泣きはらした須守に、不二は訊ねた。
「佐尽どのは?」
「お館さまにご挨拶に行っております」
 不二は真崎の話を思い出した。荒霊を封じきれないほど衰えてきた伊薙を継ぐのは、月弓だったのだ。
 いつもよりずっと早い時間に更伎がやって来たらしい。詰め所にはもう都琉がいた。
 都琉は、縁に座って母屋の方を見つめていた。彼の主の更伎はついに月弓の跡を継いで龍の琵琶弾きになるのだ。気が気ではないと言ったところか。
「このたびは──」
 続きをどう言っていいかわからず、不二は頭を下げた。都琉は不二を見、会釈を返した。
「驚きました。突然のことで」
 不二は正直なところを口にした。
「更伎さまは、ご準備されていたのですか?」
 都琉はゆっくり首を振った。
「お話があったのはつい昨日のことです。だいぶ動揺なさっていました」
「でしょうね」
「しかし、龍の琵琶はいつでも引き継げる力はお持ちですから」
 不二はうなずいた。
「引き継ぎの儀などは?」
「旧世代の方々と更伎さまだけが、山頂に集まるようです。月弓さまが伊薙さまに代わって荒霊を引き継がれ、更伎さまが新しい〈龍〉の琵琶弾きとして伊薙さまの葬儀を行うとだけお聞きしました」
 仰々しい儀式は、他の者に自分たちの力を見せつけるためのものだ。はじめから力のある〈龍〉には、必要ないのだろうな、と不二は思った。大龍祭にしても、〈龍〉よりもむしろ〈蛇〉が〈龍〉から委ねられた大那の執権を世に示すためにあるようなものだから。
 伊薙の代替わりは、ひっそりと行われるのだろう。月弓が、まわりの者に別れを告げる夢を送っただけで充分というわけか。
 都琉を残し、不二はいつものように明星の世話をしに厩に行った。たてがみを梳いやっていると、羽矢が現れた。
「羽矢さま」
 不二は、まじまじと羽矢を見つめた。夕べは寝ていないのではないだろうか。目が赤く充血し、顔色も悪い。眉根をよせ、思い詰めたように唇を固く結んでいる。
 父親代わりだった月弓と別れるのだから、無理もないかもしれないが。
「明星の顔を見たくなった」
 弁解がましく羽矢は言い、明星の鼻面を撫でた。
 羽矢も伊薙のもとに行くはずだ。呪力がないとはいえ、目に紫のある旧世代だ。
「お支度があるのでは?」
「わたしは特にない。着替えるだけだ。出かけるのは午後だからな」
 馬を使っては山頂に行けないだろうな、と不二は思った。急峻すぎる。徒歩か、輿か、いずれにしても時間がかかりそうだ。
「どうやって行かれるのですか」
「伯母上が連れて行ってくれる」
「柚宇さまが?」
「呪力を使えば、すぐだ」
 なるほど、彼らは呪力者なのだ。空間を一瞬で移動できる。今さらながらに、不二は〈龍〉の力を思い知らされた。
「不二」
 羽矢が改まったように言った。
「はい」
「以前わたしは、天香を出たいと言った」
「はい」
「だが、出ないかもしれない」
 最後の方は、ほとんど聞き取れなかった。
「ここに、残るかもしれない」
「そうですか」
 不二は素直にうなずいた。父親の帰還や月弓のこと。あの時よりは、だいぶ状況が変わっている。
「それでも、いてくれるか?」
「もちろんです、羽矢さま」
 不二は言った。
「わたしは、羽矢さまの側人ですから」
 羽矢は、ぎこちない笑を浮かべた。
「ありがとう」
 いささかぎょっとした。羽矢に礼を言われたのははじめてだ。
 羽矢は背を向け、行ってしまった。
 羽矢の後ろ姿を見送りながら、不二は胸騒ぎを覚えた。いままでにない危うさが羽矢にはある。
 羽矢に、何が起きたのだろう。月弓のことだけで、あんなにも憔悴するものか。
 目を離さずにいたいところだが、山頂についていくことはできないのだ。
 ふと思った。
 ほんとうに、そうか?
 これまで、〈龍〉以外の者は山頂に登ったことがない。怖れ畏みながら眺めるだけで。だが、禁じられてはいないのだ。そんな不届きな愚か者が現れるはずがないと、禁じる必要もなかったわけだろうが。
 こっそりと、山頂に登ってみるのはどうだろう。呪力者ぞろいとはいえ、惣領の代替わりという大事なのだ。〈蛇〉の一匹くらいには、気づかないかもしれない。
 もし見つかったら──。
 不二は頭をそびやかした。
 その時はその時だ。
 荒霊を封じる者の代替わりなど、一生かかっても遭遇できない時に巡り合わせているのだ。無謀な好奇心が高まってくる。
 行くしかないだろう。 
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