龍の都

ginsui

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第二部

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 石室の中は闇ではなかった。
 地震で石組みがずれ、わずかな隙間ができたらしい。半地下の階段には、うすぼんやりとした光が漏れ落ちていた。そこを一気に駆け下り、羽矢は伊薙が横たわる台座に辿り着いた。
 二千年もの時を眠り続けている伊薙は、肉がそげ、髪は抜け落ちてもはや屍に等しくなっていた。だが薄衣が掛けられた胸は、ゆっくりと上下している。生きていること自体が痛々しかった。終わりをもたらしてやることに躊躇はなかった。
 羽矢は隠し持っていた短刀をすばやく抜き、伊薙の胸に突き立てた。
 刃を抜くと、伊薙はかすかに口を開いた。それが、彼の最後の息だったようだ。
 と同時に、足下に震えるよう振動がおこった。
 それは、突き上げるような揺れへと変わった。
 羽矢は後ずさった。
 よろめき、出口に向かおうとしたとたん、
 轟音とともに、石室が崩れた。

 伊薙の存在は、ちりぢりに消えた。
 羽矢には、かろうじて何かが残っていた。
 霊の芯のようなもの。それが、巨大な意志の中で、塵のように漂っていた。
 意志は、荒霊だ。
 自分は死んだのか。
 まだ、漠然と精神はあった。伊薙のように、やがては荒霊の中に呑み込まれてしまうにしても。
 琵琶の音を感じた。霊鎮めの琵琶だ。
 荒霊とともに羽矢はふるえた。そうだ、鎮まらなければならない。荒ぶる意志を捨てて地霊に還り、大那を潤さなければ。
 月弓と更伎ならばできるはずだ。そのためにこそ、自分は伊薙の命を絶ったのだ。
 こうなることは予定外だったが。
 惟澄と、もう少しともに時間を過ごしたかったが。
 あきらめとともに、羽矢は琵琶の音に自分を委ねようとした。
 しかし、荒霊はそうはさせてくれなかった。
 突然、猛々しい意志が強まり、怒りがこみ上げてきた。荒霊の思いは、そのまま羽矢の思いとなった。
 なぜ鎮まらなくてはならないのか。
 いまや羽矢はすべてを俯瞰できた。二人の人間が琵琶を弾いていた。周りの者たちも呪力を集中させ、二人に力を貸している。
 荒霊は、あざ笑うかのように風を渦巻かせた。その程度の呪力など通用しない。
 封じ込められていた長い年月のうちに、荒霊は大那の地霊と深く結びついていた。天香の、その周辺の地霊はすでに荒霊のものだった。その力は〈龍〉たちが思っている以上に強大なものになっていた。
 そして、〈龍〉たち以上に、地霊の再生を欲していた。多くの霊が必要なのだ。生きとし生けるものすべて殺し、地霊に取り込まなければ。
 荒霊は、琵琶の音を弾き返した。
 二つの琵琶の弦は切れ、人間たちは倒れた。琵琶弾きの一人は消えた。
 それでもあきたらず、荒霊は巨大な雷雲を生み出した。二千年分の怒りは、膨大な力となって収束した。空気を轟かせ、凄まじい光の束を彼らに投げつけた。
 白光とともに、山頂の半分が大きくえぐられた。彼らの肉体は、黒く焼け焦げて飛び散った。
(羽矢!)
 馴染みあるものの霊が羽矢の意識に触れた。
(羽矢)
 それでまた、自分が羽矢であることを思い出した。
(忘れるな、羽矢。おまえの名を)
 人間の名など、何になるだろう。
 羽矢は彼を振り払った。
 思念は、ふっつりと消えた。
 荒霊の破壊欲は、いや増す一方だった。羽矢もまた、それに同化していった。風をおこし、黒雲を広げた。雷鳴が、鋭い光とともに大気を裂いた。
 羽矢は、もはや荒霊に化していた。
 大那に、混沌をもたらすのだ。

 政庁の方にも雷が落ちたと誰かが叫んでいた。
 麓では火の手が上がっているようだ。
 都は、惨憺たるありさまになっているだろうな、と不二は思った。こんなときこそ〈龍〉の助けがほしいところだろうに。山頂の呪力者たちはどうしてしまったのだろう。
 更伎だけを救って、荒霊に打ち伏せられてしまったのか?
 だとすれば、もはやなすすべもない。
 庭に誰かが駆け込んできた。
 髪を振り乱し、雨でびっしょりと衣が濡れている。
「惟澄さま」
 不二は驚いて腰を浮かせた。
 惟澄は不二にもかまわず、詰め所に上がって羽矢の顔をのぞき込んだ。
 顔を伝っているのは雨だろうか、涙だろうか。
 不二は、息を呑んで惟澄の横顔を見つめた。
 その表情がすべてを物語っていた。惟澄の羽矢への思いを。
 羽矢は目覚めて応えてやるべきなのに、あるかなしかの呼吸で眠り続けている。
「羽矢を、取り戻さなければならないの」
 惟澄はささやいた。
「手をかして、不二」
「とりもどす?」
「大那を救えるのは羽矢しかいない。柚宇さまがそうおっしゃっていた」
「柚宇さまは、どこに?」
 惟澄は首を振った。
「わたしの内に来て、消えたわ」
 どういうことだ? 
 しかし、不二が問うより早く、更伎が部屋に入ってきた。龍の琵琶を抱えている。弦はすっかり弦を張り替えられていた。
「更伎」
 惟澄は更伎を見上げた。
「身体は大丈夫なの?」
「ああ、月弓さまが守って下さった」
「月弓さまは?」
 思わず不二は訊ねた。
「わたしの内に」
 更伎は目を伏せた。
「すぐに、行ってしまわれたが」
 不二は惟澄と更伎を呆然と眺めた。柚宇と月弓の力がこの二人に及んでいることは確からしい。 
「羽矢は、わたしに頼むと言い残した」
 更伎は羽矢の枕辺にかがみこみ、つぶやいた。
「その時は何を頼まれたのか分からなかった」
「羽矢も、こんなことになるとは思わなかったはずよ」
「力が及ばなかった」
「まだ遅くはないわ。羽矢をひきもどさなければ」
 辛そうにうなだれていた更伎はうなずき、顔を上げた。
「ここではだめだ」
 月弓が言った。
「人気のない所へ」
「湖のほとりがいいわ。あそこは開けている」
 都琉が更伎を追いかけてきた。
「更伎さま、わたしもお供を」
「都琉は家に帰ってくれ」
 更伎は首を振った。
「母上が心配だ。わたしの代わりに、側についていて欲しい」
 都琉は何か言いかけたが肩を落とし、不二を見て頭を下げた。
 更伎を頼むと語りかけているまなざしだった。不二も、深くうなずいてやった。
 何が起きようと、自分は最後まで見とどける機会を得たようだ。
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