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第二部
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しおりを挟む風雨荒れ狂う山道は、夜のように暗かった。
羽矢を背負った不二を従えて、惟澄は更伎と先を急いだ。
柚宇は、霊が消えてしまうまでのわずかな間に、惟澄の精神に触れていったのだ。惟澄は多くのことを知った。
羽矢は、まちがいなく呪力者だ。ただし羽矢の呪力は、霊ではなく肉体にだけもたらされてる。羽矢の肉体は、ほとんど不死なのだ。
荒霊とひとつになった地霊は、もはや鎮まることを知らなかった。封じる力を持つ者は、もういない──羽矢以外は。
羽矢の強固な肉体ならば、荒ぶるものたちを取り込む器となる。羽矢が彼らを引き連れて自分の身体に戻って来れば、羽矢自身が檻となり、彼らを制することが出来るだろう。
(それでは、羽矢でなくなってしまいます)
惟澄の思いを柚宇はなだめた。
(すでに昔の羽矢ではないのよ、惟澄。でも、羽矢だったことを思い出しさえすれば。身体と霊が結びつけば)
柚宇の思念は後悔に満たされていた。
(悪いのはわたしだわ。わたしは、月弓さまとお別れしたくなかった。あの子は、わたしの思いをどこかで感じ取っていたのよ。あの子の決意に拍車をかけてしまった)
(柚宇さま……)
(お願い、惟澄。あなたしかいないわ。あの子を……取り戻して──)
柚宇の悲しみと羽矢への慈しみは、いまや惟澄のものでもあった。
羽矢を、荒霊ごと身体に呼び戻さなければならない。できなければ、羽矢は失われ、大那も滅びてしまうだろう。
湖の水は激しく波打ち、岸に押しよせていた。船首が折れて横倒しになった龍舟が、岸に打ち上げられていた。
三人は、船影に羽矢を横たえた。
「ありがとう、不二」
惟澄は言った。
「ここは、危険かも知れない。みんなのところに、帰って」
「とんでもない」
不二は、声高に言った。
「お側にいます」
惟澄は、不二の必死の表情を見つめた。不二とて、自分と同じだ。羽矢が大切なのだ。
惟澄はうなずいた。
「羽矢はいま、空っぽなの。霊を引き戻さなければならない」
「霊を?」
「手伝って」
更伎は舟の龍頭の脇に腰を下ろして、琵琶を奏で始めた。
霊呼びの曲だ。死んだ者の霊が、肉体に戻るように願う曲。戻らないことを認めてはじめて霊鎮めの曲が弾かれる。
羽矢が戻って来ないことを受け入れるわけにはいかない。羽矢の肉体は息づいている。霊の入り口は開かれている。
「不二、羽矢の名前を呼んで」
惟澄は言った。
「わたしといっしょに」
なにか小うるさいものが自分の霊をつついていた。それはふっと意識を甦らせた。
琵琶の音が、自分を絡みとるようだった。それは振り払おうとした。
「羽矢」
馴染みあるものの声が聞こえた。
「羽矢さま!」
それをとりまく、大きなものの意思が苛立った。稲光を起こし、横転している舟に向かって雷を落とそうとした。
それはとっさに邪魔をした。雷は湖畔を取り巻く樅の大樹に落ち、火柱を上げた。
なぜ攻撃をそらしたのか。
荒霊は怒りにかられ、その存在を押しつぶそうとした。だがそれはすでに荒霊と同化しており、自分で自分に掴みかかるのと同じことだった。
荒霊は、怒りに震えて咆哮した。凄まじい風の唸りが、湖水を沸き立たせた。
それでも、琵琶はひるまず鳴りつずけた。
呼びかけは執拗だった。
「羽矢!」
あの女はなんだろう。
荒ぶる霊はつぎつぎと雷光を生み出した。それがそらした稲妻で湖畔の木々がばりばりと裂けて地に倒れた。
女は叫んでいた。
「帰って来て、羽矢」
羽矢?
自分はなぜ、あそこにいる者たちをかばおうとしているのだろう。
大切なことを忘れている。
思い出せそうで思い出せない。
あの女は?
それのとまどいの隙をついて、光が迸った。
光はまっすぐに、羽矢に覆い被さっている惟澄に落ちた。
四人の身体が、はじけるように飛んだ。
(羽矢)
懐かしい霊が、それの存在をまさぐった。
さっきから呼びかけていたものの霊だ。
(羽矢)
荒霊はうるさがり、ひねりつぶそうとしたが、それは自分の内にしっかりと抱え込んだ。
繰り返し呼ばれる名を、それは反芻した。
(羽矢)
霊の核が、強固なものになってきた。
(わたしは……)
(そう。あなたは、羽矢よ)
(羽矢)
さまざまなことを思い出した。
(惟澄?)
(ええ)
惟澄の霊は、やさしく語りかけた。
(帰りましょう、羽矢。あなたの身体に)
(惟澄)
羽矢の霊は力を得た。名を取り戻したゆえに。守る者を見だしたゆえに。
(その前に、惟澄が身体に帰らなければ)
(もう、帰れない)
羽矢は、はっとした。自分は、あまりに深く惟澄の霊をとらえてしまったのだ。惟澄の霊を引きはがしても、正常に生身の身体に戻れるかどうか。
(いいの)
惟澄は言った。
(このまま、羽矢と一緒にいる)
(惟澄)
羽矢は、惟澄の霊を自分のずっと奥にしまい込んだ。
そして意識を大きく広げ、荒霊を呑み込んだ。
惟澄の鋭い悲鳴が耳に残っていた。
不二は地面にたたきつけられ、わずかの間、気を失っていた。
そろそろと頭を上げた。
むこうの更伎が身動きするのが見えた。しかし、惟澄は羽矢に覆いかぶさったまま、ぐったりと動かない。
「惟澄さま」
不二はこわばる身体を動かして、惟澄に這い寄った。
惟澄は、息をしていなかった。
不二は更伎に目を向け、首を振った。
更伎はすすり泣くようなため息をもらした。
いつの間にか、風雨はやんでいた。
空は明るくなり、雲間から幾筋もの日の光がそそぎはじめる。
惟澄が動いたので、不二ははっとした。
動いたのは、羽矢のほうだった。羽矢は目を開き、空のまぶしさに眉をひそめた。
「羽矢さま」
羽矢は紫色の瞳を不二に向けた。そして手を伸ばし、自分の上にいる惟澄の身体をそっと抱きしめた。
「すまない」
羽矢はかすれた声でつぶやいた。
「みな、わたしがやったことだ」
「羽矢」
更伎がよろめきながら近づいてきた。
「惟澄の霊呼びをしなくては」
「いや」
羽矢は、惟澄を抱えたまま起き上がった。
「惟澄は、わたしといっしょにいると言ってくれた」
「惟澄が?」
羽矢はうなずいた。
「わたしたちは、ひとつになった」
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