麒麟

ginsui

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 道脇の藪から、黄緑色の小さな鳥が飛び出して空高く舞い上がった。
 まわりの木の梢にも何羽かとまっていて、ぴいいぴいと鳴き交わしている。
 少女は、羽白の袴を引っ張って指さした。
「ひわだな」
 羽白は鳥の名を言った。
 少女は大きくうなずき、こんどは自分の胸に指を向けた。
 もう一度、鳥と自分。
 可愛らしい指の行く先をたどり見ながら、羽白はうなずいた。
「おまえの名は、ひわか」
 少女は、にっこり笑ってみせた。羽白は、思わず少女の頭をなでた。
「教えてくれたのか。いい子だな」
 ひわの歩調に合わせるようになるので、旅は一人の時よりもはるかにはかどらなかった。小夜叉岳が間近に迫るまで、羽白は三晩野営の火を焚いた。
 四日目に着いた村の者の話では、名足はさらに山の中ということで、羽白はここで丸一日興行して食料を手に入れた。
 ひわを託せる所も探したが、子供一人置いてくれる余裕のある家は見つからなかった。
 翌日名足をめざしたものの、昼頃から暗い雲が空をおおい、ついに雨が降り出した。
 雨はしだいに激しく、近くには村里もない。
 ひわを励ましながら、羽白はようやく雨宿りに手頃な洞を見つけた。
 入ってみると奥行きが深く、充分手足を伸ばせる広さだ。
 身体がすっかり冷え切っていた。手持ちの獣脂と湿った木でなんとか火をおこすと、羽白とひわは衣を脱いで乾かしながら暖をむさぼった。
 どうやら人心地ついたとき、洞の前に人影が立った。
 羽白は、顔を上げた。雨の音にかき消されて、近づく気配がわからなかったのだ。
「入ってもいいですか」
 影の主は言った。同じく雨にぶつかった不運な旅人か。
「ああ、どうぞ」
 答えてからの何分の一秒かで羽白は相手を観察し、心の中でため息をついた。
 肩のあたりで切りそろえた髪、白の浄衣。
 まだ年若だが、まぎれもない神官だ。そして神官は、羽白が最も関わりたくない種類の人間だった。
 神官は、洞に入って旅嚢を置いた。
 ひょろりとした長身に似合わず、丸みを帯びた顔は童顔で、少年のようでもあり、少女のようでもあった。一生不犯の神官は、どこか性を超越して見えるものなのだ。
 もっともこの神官は、女であるとすぐにわかった。
 雨に濡れて身体にぴったりと張り付いた衣の胸には、ささやかながら双のふくらみがあったので。
井月いづきと申します」
「羽白。こっちがひわだ」
 井月は羽白の琵琶に目をとめた。
「子連れの琵琶弾きとはめずらしい」
「女の神官と同じくらいには」
 井月は軽く笑って口をつぐんだ。
 この神官は、自分が幻曲師であると気づいているだろうか。
 羽白は考えた。
 ひわのために、何度か幻曲を弾いている。はじめから、幻曲の気配を察して、つけてきたのかもしれない。呪力者じゅりょくしゃには敏感な者たちだ。
 神官は、常に二つのものを探して諸国をめぐっている。一つは見習い神官にするための呪力を持った子供たち。そしてもう一つは、大人になってしまった呪力者たち。
 神官の純潔は、とどのつまり呪力者の種を蒔かないためだった。大人の呪力者は、見つけしだい、すみやかに抹殺される。
 呪力が地霊を消費するからだ。
 地霊は、この世界を潤す生命の素だった。人も獣も植物もすべてから地霊より生まれ、死して後、地霊に還る。
 そして、昔ほどこの世界の地霊は多くない。
 龍も麒麟も、とうに生きていけなくなった。このままでは、人間ですら生きられない時代が来るかもしれない。神官たちが恐れているのはそれなのだ。
 地霊を保つことが最大の使命と心得ている神官たち。
 まして幻曲師は、生まれつきの呪力者ではなかった。昇華した芸が呪力となり、幻をつむぐ。なぜ役にも立たない幻を見せるために呪力を費やす必要があるのか。神官たちにとっては、最も許せぬ存在だろう。
 幻曲師としては、幻曲を隠しつづけるしか術はない。
 羽白は思った。
 幻曲師が人々の間で伝説と等しいものになってから、いったいどれだけたつだろう。
 日が沈むと、雨はいっそう激しくなった。
 井月も口数少ない人間のようだ。向こうから話しかけてはこなかった。ろくな言葉も交わさず、それぞれに夕食をすませた。
 食後の琵琶の稽古はやめにして、羽白は寝入ってしまったひわの脇に横になった。
 井月に背を向けていたが、彼女の気配に油断なく耳をすます。
 やがて井月は横たわり、静かな寝息が聞こえはじめた。
 井月は気づいているだろうか。
 羽白はさきほどからの同じ問いをくりかえした。 
 もしそうならば、どうやって逃げ出そう。一人ならばどうにでもなる。
 いっそのこと、ひわを置いて──。
 羽白はちらと考え、すぐに苦々しい笑いをうかべた。
 できないな、それは。
 神官ならば、残されたひわをなんとかしてくれるだろう。だが、ひわは旅芸人の一座と羽白と、二度も捨てられたことになってしまう。
 どんなに悲しむことか。
 いずれ別れる時がくる。しかしそれは、きちんと別れの言葉を言い、ひわを納得させてからだ。 
 雨は木々をうち、葉叢をうち、羽白の耳をうった。羽白は、いつしかまどろんでいた。
 井月が飛び起きたのではっとした。
 身体を起こして身構えようとした瞬間、すさまじい地響きがおこった。
 羽白はとっさにひわをかばって身を伏せた。
 臓腑が突き上げるような振動。
 洞の岩壁がぎしぎしいいながら小石を降りこぼし、焚き火の炎が飛び跳ねる。頭を地べたに押しつけられるような轟音が続き、際限もなく続き、しかしようやく遠ざかって静かになった。
 羽白は頭を上げた。
 井月が、ぴんと背筋を伸ばして洞の入り口だった場所を眺めていた。
 土砂は井月の足元まで流れ込み、入り口をすっかり塞いでいる。
「地崩れです」
 井月は振り向き、しゃくにさわるほど静かな口調で言った。
「私たちは、ここに閉じ込められてしまったようですよ、羽白」
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