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ひわが羽白の腕の中で小刻みに震えている。
井月は、焚き火の炎をかきたてた。
互いの顔は明るく照らし出されたが、明かりの届かない闇はいっそう密度を増し、閉ざされた空間を嫌でも思い知らされた。
羽白は、ふと耳をそばだてた。
かすかな、せせらぎのような音が聞こえてくる。
雨の音ではなかった。眠る前までは気づかなかったものだ。たしかに──。
「水」
「え?」
井月は、静かにまわりを見まわした。そしてつと立ち上がり、洞の奥に近づいた。
燃えている焚き火の一本を手にし、羽白も彼女の後ろに続いた。
大きな石が崩れ落ちている場所があり、その側を照らすと細長い穴が開いている。人ひとり、ようやく入り込めそうな穴だ。
井月がためらいもせずに穴の中をのぞき込んだ。そして、
「向こうはかなり広い鍾乳洞です。奥に深くなっているようですよ、羽白」
「鍾乳洞……」
羽白はくり返した。
わずかながら希望が生まれたのだ。
小夜叉のあたりは鍾乳洞が少なくない。それらは迷路のように入り組み、ひとつにつながっているという。うまくいけば、他の出口を見つけ出せるかもしれなかった。
井月は細い枝を束ねて手早く松明を作った。羽白は不安げなひわを励ましながら荷物をとりまとめ、琵琶を前に抱えた。
穴を這うようにしてくぐると、すぐに広々とした空間に出た。
松明の光に照らされて橙色に輝いているのは、頭上高く、なだれ打つ滝が石化したような鍾乳石や林立する石筍。岩床を浅く、清い水の流れが横切っている。
自分たちが置かれた状況も忘れて、羽白はしばし鍾乳洞の美しさに見入ってしまった。
「羽白」
突然井月が羽白の腕を取って、松明の明かりをかたえの岩壁に向けた。
「ごらんなさい」
なめらかな岩肌に、何かの模様がついていた。
目を凝らしてさらによく見ると、茶色の線がはっきりとしてきた。
あきらかに人の手によるものらしい絵だ。
線と丸を組み合わせた稚拙なものだったが、壁一面、たくさんの四つ足の獣が描かれている。
その獣たちの頭からは、ことごとく一本の線が突き出していた。
羽白は指先で線をなぞり、ささやいた。
「麒麟の絵だ」
「かなり昔のものです」
昔どころか、大昔だ。
人々が家も作らずこんな洞で暮らしていた時代。
地霊があふれ、麒麟が大地に群れなしていた時代。
食い入るように絵を見つめる。
たしかに幼い描き方ではあったけれども、不思議な躍動感が絵にはあった。見ているうちに線の麒麟は血肉をつけ、蹄の音をとどろかすかに思われた。
この絵に出くわしただけでも、閉じ込められたかいがあったというものだ。
むろん、ここからうまく抜け出せればの話だが。
と、羽白は眉を上げた。
絵の中で、ひとつだけ四つ足でないものがいる。
群の真ん中あたり。二本足の人間のようだ。だが、角の生えた人間などいるわけがない。
「なんでしょうね、これは」
井月がつぶやいた。
「古代人の神でしょうか」
「神?」
羽白は聞き返した。
「ええ」
井月は考え深げに答えた。
「角は昔から神聖なものですから。彼らの神は角の生えた人間のかたちをしていたのかもしれません」
羽白はうなずき、ちょっと皮肉っぽく言った。
「神官の神はどんなかたちだ?」
「かたちはありません。この世界そのものですから」
生真面目に井月は答えた。
「世界の源は地霊です。地霊を保つことこそが絶対と教えられてきました」
そう、地霊のためには、幻曲師など葬って当然と言うのが神官の考えなのだろう。
羽白は、ふとひわに目を落とした。
ひわもまた、岩の絵に見入っていた。身動きせず、憑かれたように目を見開いて。
羽白は、思わずひわの肩を抱き寄せた。こんなところに閉じ込められて、どんなに恐ろしいことだろう。
早くここを抜け出さなければ。
壁画には未練があったが、羽白はひわの肩に手を乗せたまま先を進んだ。
水の流れは、洞を横切るとまた地の中に潜っていた。
その近くに、裂け目のような横穴が続いていた。一列になって歩けるはどの横穴は、やがて三人が肩を並べて歩ける幅になった。
羽白は、たびたびひわに目をやった。
ひわは目をいっぱいに見開いて、たえずあたりを見まわしている。
洞の出口を探そうとしているのか。それにしてもその顔はもっと別の何かを追い求めているような一途さで、羽白が手を離せばひとりで先に進みかねない勢いだった。
どうしたというのだろう。恐怖で気がおかしくなったとも思えないが。
井月が松明を振り落とした。にわか作りの松明の火は、すでに井月の手にまで届いていたのだ。
足下の炎はすぐに燃え尽き、真の闇が訪れた。
その時、ひわがかん高い叫びを上げた。
長く尾を引く、悲しげな声だった。
井月は、焚き火の炎をかきたてた。
互いの顔は明るく照らし出されたが、明かりの届かない闇はいっそう密度を増し、閉ざされた空間を嫌でも思い知らされた。
羽白は、ふと耳をそばだてた。
かすかな、せせらぎのような音が聞こえてくる。
雨の音ではなかった。眠る前までは気づかなかったものだ。たしかに──。
「水」
「え?」
井月は、静かにまわりを見まわした。そしてつと立ち上がり、洞の奥に近づいた。
燃えている焚き火の一本を手にし、羽白も彼女の後ろに続いた。
大きな石が崩れ落ちている場所があり、その側を照らすと細長い穴が開いている。人ひとり、ようやく入り込めそうな穴だ。
井月がためらいもせずに穴の中をのぞき込んだ。そして、
「向こうはかなり広い鍾乳洞です。奥に深くなっているようですよ、羽白」
「鍾乳洞……」
羽白はくり返した。
わずかながら希望が生まれたのだ。
小夜叉のあたりは鍾乳洞が少なくない。それらは迷路のように入り組み、ひとつにつながっているという。うまくいけば、他の出口を見つけ出せるかもしれなかった。
井月は細い枝を束ねて手早く松明を作った。羽白は不安げなひわを励ましながら荷物をとりまとめ、琵琶を前に抱えた。
穴を這うようにしてくぐると、すぐに広々とした空間に出た。
松明の光に照らされて橙色に輝いているのは、頭上高く、なだれ打つ滝が石化したような鍾乳石や林立する石筍。岩床を浅く、清い水の流れが横切っている。
自分たちが置かれた状況も忘れて、羽白はしばし鍾乳洞の美しさに見入ってしまった。
「羽白」
突然井月が羽白の腕を取って、松明の明かりをかたえの岩壁に向けた。
「ごらんなさい」
なめらかな岩肌に、何かの模様がついていた。
目を凝らしてさらによく見ると、茶色の線がはっきりとしてきた。
あきらかに人の手によるものらしい絵だ。
線と丸を組み合わせた稚拙なものだったが、壁一面、たくさんの四つ足の獣が描かれている。
その獣たちの頭からは、ことごとく一本の線が突き出していた。
羽白は指先で線をなぞり、ささやいた。
「麒麟の絵だ」
「かなり昔のものです」
昔どころか、大昔だ。
人々が家も作らずこんな洞で暮らしていた時代。
地霊があふれ、麒麟が大地に群れなしていた時代。
食い入るように絵を見つめる。
たしかに幼い描き方ではあったけれども、不思議な躍動感が絵にはあった。見ているうちに線の麒麟は血肉をつけ、蹄の音をとどろかすかに思われた。
この絵に出くわしただけでも、閉じ込められたかいがあったというものだ。
むろん、ここからうまく抜け出せればの話だが。
と、羽白は眉を上げた。
絵の中で、ひとつだけ四つ足でないものがいる。
群の真ん中あたり。二本足の人間のようだ。だが、角の生えた人間などいるわけがない。
「なんでしょうね、これは」
井月がつぶやいた。
「古代人の神でしょうか」
「神?」
羽白は聞き返した。
「ええ」
井月は考え深げに答えた。
「角は昔から神聖なものですから。彼らの神は角の生えた人間のかたちをしていたのかもしれません」
羽白はうなずき、ちょっと皮肉っぽく言った。
「神官の神はどんなかたちだ?」
「かたちはありません。この世界そのものですから」
生真面目に井月は答えた。
「世界の源は地霊です。地霊を保つことこそが絶対と教えられてきました」
そう、地霊のためには、幻曲師など葬って当然と言うのが神官の考えなのだろう。
羽白は、ふとひわに目を落とした。
ひわもまた、岩の絵に見入っていた。身動きせず、憑かれたように目を見開いて。
羽白は、思わずひわの肩を抱き寄せた。こんなところに閉じ込められて、どんなに恐ろしいことだろう。
早くここを抜け出さなければ。
壁画には未練があったが、羽白はひわの肩に手を乗せたまま先を進んだ。
水の流れは、洞を横切るとまた地の中に潜っていた。
その近くに、裂け目のような横穴が続いていた。一列になって歩けるはどの横穴は、やがて三人が肩を並べて歩ける幅になった。
羽白は、たびたびひわに目をやった。
ひわは目をいっぱいに見開いて、たえずあたりを見まわしている。
洞の出口を探そうとしているのか。それにしてもその顔はもっと別の何かを追い求めているような一途さで、羽白が手を離せばひとりで先に進みかねない勢いだった。
どうしたというのだろう。恐怖で気がおかしくなったとも思えないが。
井月が松明を振り落とした。にわか作りの松明の火は、すでに井月の手にまで届いていたのだ。
足下の炎はすぐに燃え尽き、真の闇が訪れた。
その時、ひわがかん高い叫びを上げた。
長く尾を引く、悲しげな声だった。
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