麒麟

ginsui

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 ひわが、ゆっくりと身を起こした。
 木の下の麒麟は、哀しげな顔を上げてひわと目を合わせた。
 ひわと幼獣の口から、同じ声がもれた。澄んだ鈴の音のような、高い歓喜の声だった。
 ひわは顔を輝かせ、両手を広げて麒麟に駆け寄った。
 麒麟も首を振り立てて、ひわを迎えた。
 ひわがしっかりと麒麟を抱きしめた瞬間を、羽白は確かに見た。
 と同時に、麒麟たちの姿は薄らいでいった。
 羽白は、琵琶を弾く手を止めた。
 ひわと麒麟の幼獣は消えていた。
 残っているのは、枯れ葉の積もる寒々とした景色と、崩れるように倒れている井月の姿だった。

 羽白は、井月に駆け寄った。
 ぐったりと動かない井月の、首筋の脈をとってみて愕然とした。
 脈も呼吸も止まっている。
 過去を呼び出すには、想像以上の呪力が必要だったに違いない。
 井月は、生命さえも使い果たしてしまったのだ。
 会ってからまだ一日と過ぎていないのに、ずいぶん長い間ともに過ごしてきたような気がした。
 井月は、何も求めなかった。神官でありながら幻曲師である羽白を抹殺しようともしなかった。
 〈霊喰い〉から自分たちを助け、ひわと麒麟のためにただただ力を尽くしてくれた。
 羽白は、しばらくの間うつむいていた。
「羽白」
 その声に耳を疑った。
 井月が目を開いてこちらを見上げている。
「神官……」
 羽白は、ようやく言った。
「生きていたのか」
「少しの間、心臓が止まっていたようです」
 顔色は蒼白だったが、にこりと笑って井月は言った。
「成功したようですね」
「だといいが」
 羽白は、安堵の息を吐き出した。
「あっという間に消えてしまった。ひわが本当に過去に行ったとしても、あの麒麟は成獣になれるのだろうか。かたや人間の身体だというのに」
「他の麒麟とはちがうでしょう」
 疲れ切ったように横たわったまま、井月は言った。
「憶えているでしょう、羽白。洞窟の壁の、角のはえた人間の絵を」
「あれが──」
「ひわと麒麟が、ひとつになった姿だとは思いませんか」
「ああ」
 羽白は目を閉じ、うなずいた。
 瞼にはっきりと浮かんでくる。
 すらりとした少女に成長したひわ。その額に輝く、細く美しい真珠色の角。
 もう片方の自分を見つけたひわは、すばらしく幸福な一生をおくったことだろうと思う。人間であった時にはけして満たされなかった心をたっぷりと満たし、地霊あふれる大地を仲間とともに駆けまわりながら。
「みんな、神官のおかげだ」
 羽白は、頭を下げた。
「感謝している」
 井月が身を起こそうとしたので、羽白は手を貸した。ふっとため息をついて、
「〈霊喰い〉のことといい、だいぶ地霊を消費したな。神官仲間に知れたら、まずいだろうに」
「〈霊喰い〉については、使ったぶんの地霊は戻りましたよ。〈霊喰い〉は地霊に還り、もうあれが生きるために地霊が失われることはないのですから。麒麟のことは」
 井月は、ちょっと考えこんだ。
「まあ、よしとしましょう。私はもう神官とは言えないのですから。呪力を使い果たしてしまったようです」
 羽白は、はっと井月を見た。
「これで、さっぱりしました」
 くすりと井月は笑った。
「あなたも言ったでしょう。私はもともと、神官には不向きなのです」
 井月は、羽白の前に座り直した。
「琵琶が、幻曲が、あれほどすばらしいものだとは思いませんでした。地霊の無駄使いなどでは決してありません。人の心に残り続けますから」
「そういってもらえると、ありがたいが」
 羽白は、つくづくと井月を見つめた。
「これから、どうする」
「そうですね」
 井月は、静かに言った。
「一度、故郷に帰りましょう。親兄弟がいます。それから、自分に本当に必要なものを探してみるつもりです。あなたにとっての琵琶、ひわにとっての麒麟のような」
 井月は微笑んだ。
「それを探すだけの一生になるかもしれませんが」
 羽白は小さく頷き、空を見上げた。
 どんよりと曇った空から、ひとひらふたひら白いものが落ちてくる。
 今年はじめての雪だった。
 羽白は、まつげについた雪をはらった。
「故郷は?」
遠海とおみです」
「南の方角だな」
 羽白はつぶやき、立ち上がった。
「ともあれ、山を下りるとしよう。雪が積もらないうちに」
 雪は、風にのって小やみなく降りつづく。
 二人は、肩を並べて歩き出した。
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