黒犬幻譚

ginsui

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その夏

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 夏休みが始まってまもなく、その子はやってきた。
 まぶしくよく晴れた日だった。
 ぼくたちは、河原で沢蟹をつかまえていた。
 岩を渡っていけば対岸まで行けそうな浅い流れの川だ。
 水しぶきは陽の光をはじいて、白くきらめいた。
 黄色のプラスチックバケツに入れた蟹が、かさかさと音をたてていた。
 土手から下りて来たその子は、かがんでバケツを覗き込んだ。
 ぼくたち──ぼくと同級生のマーくん、一つ年上の六年生のタクくん、タクくんの弟のミッちゃん──は、その子を見つめた。
 見たことのない子だった。
 ミッちゃんと同じくらい。一年生か二年生だろう。
 色白で、まつげの長さがいやに目立った。くせのある髪の毛は内側にくるくるまわり、ふんわりと可愛らしい顔を覆っている。ポロシャツと半ズボンの格好もどこかあか抜けていて、育ちの良さを感じさせた。
 ぼくたちが住んでいるのは、山あいの小さな田舎町だ。普段は静かなところなのだけれど、キャンプ場や貸別荘などがあるので、長い休みになるとよその人たちもけっこうやってくる。貸別荘は河原ぞいの白樺林の中にあるから、この子も貸別荘に来た子だと思った。
 ミッちゃんが、捕まえたばかりの蟹をその子の前に突き出した。驚いて目を見開いたその子に笑ってみせる。
「大丈夫だよ。はさまれてもいたくないよ」
 その子は、はにかみがちに笑い返し、指先でそっと蟹の甲羅をつついた。蟹は不満そうに足をうごめかした。
「レイ」
 その時、河原の上で声がした。土手に続いている階段のところに、男の人が立っていた。
 逆光で、顔はよく見えない。
 黒っぽい服を着ていた。背の高い、若そうな人であることはわかった。
「にいさん」
 男の子は彼を見上げた。
「待って、いま行くよ」
 男の子はにっこり笑ってぼくたちに言った。
「またね」
 階段を駆け上がると、にいさんと呼んだ人の手を取って林の向こうに消えてしまった。
 ぼくたちは、河原に突っ立ったまましばらく二人の後ろ姿を見送っていた。
 なにか綺麗なものが、ふわりと通り過ぎて行ったような気がした。
 ぼくたちはその時、レイくんにすっかり魅了されてしまったのだ。

 レイくんとは、次の日も会った。
 朝っぱらから、ぼくたちは白樺林で遊んでいた。
 みんな、レイくんのことが気になっていたにちがいない。貸別荘に向かう道はすぐそこだったから。
 虫捕り網でカラスアゲハをおいかけていると、木立の陰からやって来たのはレイくんだった。
 大きな黒い犬を連れていた。
 リードが細くて、レイくんが犬に引かれているようにも見えてしまう。
 種類はわからない。真っ黒で短い毛はつやつやとしていた。鼻は長く、両耳はぴんととがっている。すらりとした四本足、長い鞭のような尾。
 ぼくはなんだか、昨日ちらりと見たレイくんの年の離れたお兄さんを思い出した。
「こわくないよ」
 しりごみしているぼくたちにレイくんは言った。
「おとなしいんだ。生まれた時から、ぼくとずっといっしょにいるんだよ」
 レイくんは、かがみこんで犬の首に手をまわした。犬は、目を細めてレイくんの顔に鼻面を押しつけた。
 ミッちゃんが、おそるおそる犬の頭を撫でた。
「名前はなんていうの?」
「ヌル」
 レイくんはにっこり笑った。
「ああ、それからぼくの名前はね、咲良玲さくられい
 レイくんは、ぼくたちをみまわした。
「きみたちは?」
「ぼくは土田充つちだみつる
 ミッちゃんが言った。
「兄貴の拓真たくまだよ」
植村雅弘うえむらまさひろ
 と、マーくん。
 ちょっと黙り込んだぼくにレイくんは目をむけた。
「ぼくは、酒井英晶さかいひであき
「そう」
 レイくんは、にこにこ笑っていた。まつげで目が隠れてしまいそうだ。
「うれしいなあ。これで友だちだ。貸別荘のほうには子供がいないんだよ」
 ぼくたちは午前中いっぱい、虫捕りをした。
 木につながれたヌルは、おとなしくぼくたちを眺めていた。
 切れ長の目までもが黒々としたヌルだった。
 お昼ごはんをすませてからも、河原で落ち合った。
 レイくんは、ヌルを別荘に置いてきた。
 ミッちゃんが一番楽しそうだった。
 いつもタクくんといっしょだから、同じ年頃の子と遊ぶのが嬉しいのだろう。
 夕方、レイくんのおにいさんが迎えに来た。
 逆光で、やはりその姿はよく見えなかった。
「またね」
 ぼくたちは、ご機嫌で別れた。
 その夜、ミッちゃんが死んだ。


                   †
  
 
 ミッちゃんは、心不全で亡くなったのだと母さんが教えてくれた。
 その夜、ミッちゃんはいつものようにタクくんと子供部屋で寝についた。二段ベッドの上がタクくん、下がミッちゃんだ。
 夜更け、ミッちゃんが苦しそうな叫び声を上げたのだという。
 目が覚めたタクくんは、驚いて下の寝床をのぞきこんだ。ミッちゃんは目を見開いたままこときれていた。
 ぼくは、母さんに連れられてお通夜に行った。
 タクくんにどう言葉をかけていいかわからなかった。
 マーくんも同じだったにちがいない。大人たちはまだ家の中で語り合っていたので、ぼくたちは庭先をうろうろしていた。土田家は平屋の大きな家だ。
「まだ夏休みはたくさん残ってたのにな」
 マーくんがうなだれてつぶやいた。
「うん」
「かわいそうに」
 ふと、マーくんが地面を見つめた。
 ひまわりがいっぱい咲いている花壇の前だった。土が乾いているのでうっすらとしか見えなかったが、動物の足跡のようなものが残っている。
 ミッちゃんの家で飼っているのは猫ばかりだ。
 これは、猫より大きな動物。
 犬?
 どこかの犬が迷い込んだのだろうか。
 その足跡は、子供部屋の方に向かって消えていた。

 三日ほど、ぼくは外で遊ばなかった。
 ミッちゃんのお葬式があったし、なによりその気にはなれなかった。
 じいちゃんもばあちゃんも家で健在だ。自分が知っている人が死んでしまうのは、初めての経験だったのだ。
 レイくんは、ミッちゃんが死んだことをどこかで知っただろうか。
 だとしたら、がっかりしただろうな。せっかく友だちになれたのに。
 マーくんと、貸別荘の方に行ってみようか。
 そう考えていたやさきだった。
 マーくんも死んだ。

 マーくんが死んだのも夜だった。
 ミッちゃんと同じ、急性心不全だった。
 町は、ちょっとした騒ぎになった。一週間もおかず、子供が二人死んだのだ。しかも、同じ死因で。
 何かの伝染病ではないかと言い出す者がいた。悲しい偶然だと首を振る人がいた。ぼくのばあちゃんは、お祓いを頼むとまで言い出した。二人ともぼくの友だちだと知っていたから。
 ぼくは、マーくんの家に足を向けた。商店街の一角にあって、文房具屋さんをしている。
 もちろん店は閉まっていた。お通夜は斎場でするので、家の中はひっそりしている。留守番の人がいるくらいなのだろう。
 ぼくは店とは反対側の玄関にまわった。玄関の前の細長い庭に目をこらした。
 そして見つけた。
 うっすらとついた大きな犬の足跡を。
 マーくんの家も犬は飼っていない。
 迷い犬?。
 それとも──。
「ヒデ」
 ぼくはぎょっとして振り向いた。
 タクくんが立っていた。
「なに見てた?」
「ああ‥‥」
「足跡、あるだろ。おれの家にもあった」
 ぼくは、タクくんを見つめた。
 タクくんはやつれて、目が血走っているように見えた。
 無理もない、可愛がっていた弟と、友だちをあいついで亡くしてしまったのだ。
「おれ、一番はじめに死んだミツの顔を見たんだ」
 タクくんは、ささやくような声でいった。
「すごい顔だった。死んでいるのに目を見ひらいて、両こぶしをあんぐり開いた口に押しつけているんだ。叫んだまんまの顔だった。なにか、とてつもなく怖ろしいものを見たような」
 ぼくは、何も言えなかった。
「マサも同じだったって」
 タクくんは、もう一度庭に目をむけた。
「なんでここにも足跡があるんだろう」
「うん」
「あいつらに会ってから、いやなことばかりだ」
 あいつら、がレイくんとヌルだということはわかった。
 ぼくも、足跡を見てどう言うわけかヌルを連想してしまっていた。
 ただ、ミッちゃんとマーくんの死にどう結びつくというのだろう。
「寝るのが、怖いんだ」
 別れる時にタクくんは言った。
「ヒデも、気をつけてな」

                   †

               
 タクくんの言葉のせいか、ぼくも眠れない日がつづいた。
 夜の庭に、ヌルがうずくまっているような気がした。
 どうしてこんなに不安になるのだろう。あの足跡はただの偶然だ。レイくんの犬がミッちゃんたちの死に関係あるはずがない。
 ちょっとした物音にも怯えるぼくを見かねたらしく、母さんが子供部屋に自分の布団をもってきた。
「隣で寝てあげる。だったら怖くないでしょ」
 母さんは、とても心配そうだ。
 ぼくはうなずくしかなかった。
 その夜の夢には、レイくんが出てきた。
 広い河原にレイくんはいた。
 隣にはお兄さんが立っている。
 夢の中で、ぼくははっきりとレイくんのお兄さんの顔を見ることが出来た。
 レイくんとよく似た、きれいな顔だ。十年くらいたったら、きっとレイくんもこんなふうになるのだろう。色白で、彫り深く、頬に影を落とすほどまつげが長い。巻き毛の髪型まで同じだった。
 ぼくは、河原の対岸にいた。
 レイくんは、ぼくに手を振った。
「酒井英晶くん!」
 ぼくは応えようとした。すると、レイくんのお兄さんがうずくまった。
 うずくまり、黒ぐろとした影に形をかえた。
 顔が前に突き出し、両耳が立った。手足は細く長い四つ足に。しなやかな胴体に筋肉が浮かび上がった。
 尾を立てて、そいつは大きく伸びをした。
 牙をむきだしたヌルがそこにいた。
 ヌルはすばやく岩場を跳ねて、川を渡ってこようとした。
 ぼくは、悲鳴を上げて逃げ出した。
 河原の向こうは、一面のすすき野だ。隠れる場所はどこにもない。
 ぼくは、必死で逃げた。
 逃げながら、ミッちゃんとマーくんがどうして死んだかわかった気がした。
 夢の中で、ヌルに襲われたんだ。
 ヌルのうなり声が、すぐ後ろで聞こえた。
 ぼくは、訳のわからない叫び声を上げつづけた。
 背中に強く体当たりされて、どっと倒れた。
 もう、声もでない。
 身を起こそうとしても、ヌルのがっちりした前足が、ぼくの両肩を押さえ込んでいた。
 いつのまにかレイくんも側に来ていた。
「この子もきっとおいしいよ、ヌル」
 レイくんは楽しげだった。
「いただこうか」
 ヌルは大きく口を開け、ぼくの首もとに牙を突き立てた。

 ぼくは、長い悲鳴を上げて目を醒ました。
「ヒデ、ヒデ!」
 母さんが、ぼくをしっかりと抱きしめていた。
「大丈夫? しっかりして」
 ぼくは大きく息をしながらあたりを見まわした。
 ぼくの部屋だ。
 あいつらはいない。
 ぼくは、自分の首に手を伸ばした。びっしょりと汗をかいていた。
 鈍い、しびれのようなものが残っていたけれど、傷のようなものはない。
「すごく怖い夢だったのね」
 母さんが言った。
「うん」
 ぼくは、やっとうなずいた。
「怖かった」
 正直ぼくにはわからなかった。
 本当に、ヌルとレイくんがぼくの夢に入り込んで来たのか。
 ミッちゃんとマーくんは、あのままヌルに喰われたから死んでしまったのだろうか。
 それとも、ぼくの不安が創りだした、ただの夢なのだろうか。

 母さんが、気分転換に街へ遊びに行こうと言い出した。
 ぼくは、家の門の前で母さんが車を出してくるのを待っていた。
 蝉が鳴いていた。
 ゆっくりと近づいてきて止まった車は、母さんのものではなかった。
 黒い車で、助手席にレイくんが乗っている。
 運転しているのはお兄さんだ。
 夢で見たのと同じ顔の。
 レイくんは、窓を開けてぼくを見た。
 およそ子供らしくない皮肉っぽい笑みを浮かべて、ひとこと言った。
「うそつき」
 窓はぴしゃりと閉じ、車は速度を上げて走り去った。
 貸別荘を引き払ったのだろう。
 ぼくは、ぼんやり考えた。
 こんどは、どこに行くつもりなのか。
 昨日の夢が、ただの夢でないことがはっきりした。
 あいつらは、名前を知った子供の魂を喰って生きているのだ。
 ぼくは、うそをついたわけじゃない。
 言い出しにくかっただけだ。
 みんなには、学校が始まったら話そうと思っていた。ずっと別居していた両親が、夏休み前に離婚したこと。
 ぼくは酒井と名のったが、本当は母方の姓に変わっている。
 あいつらは、ぼくの名前を完全に捕らえることができなかった。
 だから、ぼくは逃げ出すことができたのだ。
 ぼくは、深く息を吐き出した。
 あたりの蝉の声が、いちだんと高く聞こえてきた。
 母さんの車がやってくるのが見えた。

 
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