3 / 8
黄昏幽霊
しおりを挟む
「黄昏どき」
笑みを浮かべたまま彼女は言った。
「この時間が一番好き」
「ぼくも、かな」
ぼくは、彼女の横顔を見やった。
長い睫毛がきわだつ、色白の綺麗な顔だ。
家の近くの公園だった。
池や芝生もあって結構広く、休日には家族連れで賑わうが、平日の夕方はジョギングする人や犬の散歩をする人をちらほら見かけるばかりだ。
近道なので、ぼくはいつも公園を横切って家へ帰る。
彼女を始めて見かけたのも、アルバイト帰りの夕方だった。
彼女は、池の周りの遊歩道を犬を連れて散歩をしていた。ぼくと同年代、二十歳くらいだろうか。細身のジーンズに臙脂色のパーカー、ポニーテールの長い髪。
でも、最初にぼくの目を引いたのは彼女の犬の方だった。真っ黒な毛並みの、すばらしく美しい大型犬だ。
短毛で鼻は細長く、両耳がぴんと尖っていた。長い足、長い尾、ほっそりとしてみごとに均整がとれた肢体。筋肉が動くたび漆黒の身体は光を含み、鋼めいた青みを帯びて見える。
毎日ほぼ同じ時間にすれ違うようになって、はじめて目礼を交わした時、ぼくは、ついに声をかけた。
「いい犬ですね。すごく綺麗だ」
「そう?」
彼女は微笑んだ。
「ほめられたわよ、ツヴァイ」
犬は、彼女を見上げ、尾を立てた。
「ツヴァイという名なんですか」
「ええ」
「さわって、いい?」
「どうぞ」
ぼくは犬が好きだ。自慢ではないが、これまで犬に吠えられたことは一度もない。
ツヴァイの前にかがみ込み、その頭をなでてやった。
漆黒といってもいい艶やかな毛はひんやりとして、あとからじんわりと温みが伝わってきた。
ツヴァイはぼくを見つめていた。黒々とした輝きを持つ、賢そうな眼差しだった。
「いいなあ」
「犬が好き?」
「うん。でもぼくの実家はマンションだから、大きな犬は飼えないんですよ」
「そうなの」
その日はそれで別れた。
次の日はもう少し長く話し、さらに次の日も。四日目には池の端のベンチに一緒に腰掛けるまでになった。
夕焼けは濃く、池の面は金色がかってさざ波をたてていた。
あたりはぼんやりと黄味を帯びている。
遊歩道から下りたところにあるので、通行人の邪魔にはならない。彼女はリードを長くしてツヴァイを好きにさせていた。
ツヴァイを見ているのは、まったく飽きなかった。流れるような筋肉の動き、鞭のようにしなる長い尻尾。
池の周りには桜の木が植えられ、そろそろ木の葉が色づきはじめていた。
ツヴァイは近くの桜の木の根元で、じゃらけるように両足を上げたり、飛び跳ねたりしている。
羽虫でも見つけて遊んでいるのだろうとぼくは思っていた。
ツヴァイは地面に伏せ、大きく口を開けた。何かを飲み込むような仕草をし、満足げに口の周りを舐めた。
「おいしかったわね」
「え?」
ぼくは、思わず彼女を見た。
彼女は、ぼくを見返した。
「ツヴァイは幽霊が好きなのよ。水辺にはたいていいるわ」
彼女の目はいたずらっぽく笑っている。
「黄昏どきのが一番いいって」
「へえ」
冗談かと思い、ぼくも笑う。
「水辺だけじゃなく、踏切や四つ角なんかにもいるよね」
「そうね。幽霊が、どうして生まれるか知ってる?」
「そりゃあ、死んだ人の未練が残って‥‥」
「それだけじゃないの」
彼女は楽しげに言葉を続ける。
「他の人の思いがかかわってくるのよ。身体が無くなった霊は、それは小さくて儚げなもので、いずれは掻き消えてしまう存在。でも、未練があっただろうとか、また会いたいだとか、恨みがあるだろうとか、そういった生者の思いを受けて成長していくの。もちろん、ここには幽霊が出そうだ、とかの期待や恐怖も糧」
「おもしろい説だね」
「あら、ほんとよ」
にっこりして、彼女は言った。
「だから、おいしいの」
すっと、冷たいものを感じた。
彼女は立ち上がり、ツヴァイのリードをまいた。
だいぶ陽が落ちていた。
彼女とツヴァイは、夕闇の中に去って行った。
それきり、彼女とツヴァイには会わなかった。
公園で、彼らの姿を見ることはなかった。
いくぶん、ほっとしたことは確かだ。
ぼくは、大学を卒業し、就職し、結婚もした。
奇妙な彼らのことは、繰り返す生活の中で、記憶の底に沈んでしまった。
それなのに、なぜいま、こうして思い出しているのだろう。
この、ぼうぼうとたちこめるような黄昏のせいだろうか。
ぼくは、街角に立っていた。
目の前を、人々や車が行き交っていた。
かたわらに、ひしゃげた街路灯があった。
供えられた新しい花に気づき、はっとした。
ここに車がつっこんできたのだ。
しばらくは記憶がない。
やがて、ゆうらりとどこかを漂っているような感じとともに、ぼくは自分を意識したのだった。
そうか、ぼくは死んだのか。
家族の悲しみ、友人の同情、痛ましそうに、あるいは好奇心をもって花に目をやり通り過ぎる人たち。
彼らの思いが、希薄だった空気のようなぼくに密度を持たせていた。
ぼくの存在を形づくり、この場につなぎ止めているのは彼らなのだ。
彼らが忘れるまで、ありつづけるしかないらしい。
いや──。
ぼくは、こちらにやってくるものに気がついた。
しなやかに美しい一匹の黒犬だ。
後ろでは、変わらぬ彼女が微笑みを浮かべていた。
笑みを浮かべたまま彼女は言った。
「この時間が一番好き」
「ぼくも、かな」
ぼくは、彼女の横顔を見やった。
長い睫毛がきわだつ、色白の綺麗な顔だ。
家の近くの公園だった。
池や芝生もあって結構広く、休日には家族連れで賑わうが、平日の夕方はジョギングする人や犬の散歩をする人をちらほら見かけるばかりだ。
近道なので、ぼくはいつも公園を横切って家へ帰る。
彼女を始めて見かけたのも、アルバイト帰りの夕方だった。
彼女は、池の周りの遊歩道を犬を連れて散歩をしていた。ぼくと同年代、二十歳くらいだろうか。細身のジーンズに臙脂色のパーカー、ポニーテールの長い髪。
でも、最初にぼくの目を引いたのは彼女の犬の方だった。真っ黒な毛並みの、すばらしく美しい大型犬だ。
短毛で鼻は細長く、両耳がぴんと尖っていた。長い足、長い尾、ほっそりとしてみごとに均整がとれた肢体。筋肉が動くたび漆黒の身体は光を含み、鋼めいた青みを帯びて見える。
毎日ほぼ同じ時間にすれ違うようになって、はじめて目礼を交わした時、ぼくは、ついに声をかけた。
「いい犬ですね。すごく綺麗だ」
「そう?」
彼女は微笑んだ。
「ほめられたわよ、ツヴァイ」
犬は、彼女を見上げ、尾を立てた。
「ツヴァイという名なんですか」
「ええ」
「さわって、いい?」
「どうぞ」
ぼくは犬が好きだ。自慢ではないが、これまで犬に吠えられたことは一度もない。
ツヴァイの前にかがみ込み、その頭をなでてやった。
漆黒といってもいい艶やかな毛はひんやりとして、あとからじんわりと温みが伝わってきた。
ツヴァイはぼくを見つめていた。黒々とした輝きを持つ、賢そうな眼差しだった。
「いいなあ」
「犬が好き?」
「うん。でもぼくの実家はマンションだから、大きな犬は飼えないんですよ」
「そうなの」
その日はそれで別れた。
次の日はもう少し長く話し、さらに次の日も。四日目には池の端のベンチに一緒に腰掛けるまでになった。
夕焼けは濃く、池の面は金色がかってさざ波をたてていた。
あたりはぼんやりと黄味を帯びている。
遊歩道から下りたところにあるので、通行人の邪魔にはならない。彼女はリードを長くしてツヴァイを好きにさせていた。
ツヴァイを見ているのは、まったく飽きなかった。流れるような筋肉の動き、鞭のようにしなる長い尻尾。
池の周りには桜の木が植えられ、そろそろ木の葉が色づきはじめていた。
ツヴァイは近くの桜の木の根元で、じゃらけるように両足を上げたり、飛び跳ねたりしている。
羽虫でも見つけて遊んでいるのだろうとぼくは思っていた。
ツヴァイは地面に伏せ、大きく口を開けた。何かを飲み込むような仕草をし、満足げに口の周りを舐めた。
「おいしかったわね」
「え?」
ぼくは、思わず彼女を見た。
彼女は、ぼくを見返した。
「ツヴァイは幽霊が好きなのよ。水辺にはたいていいるわ」
彼女の目はいたずらっぽく笑っている。
「黄昏どきのが一番いいって」
「へえ」
冗談かと思い、ぼくも笑う。
「水辺だけじゃなく、踏切や四つ角なんかにもいるよね」
「そうね。幽霊が、どうして生まれるか知ってる?」
「そりゃあ、死んだ人の未練が残って‥‥」
「それだけじゃないの」
彼女は楽しげに言葉を続ける。
「他の人の思いがかかわってくるのよ。身体が無くなった霊は、それは小さくて儚げなもので、いずれは掻き消えてしまう存在。でも、未練があっただろうとか、また会いたいだとか、恨みがあるだろうとか、そういった生者の思いを受けて成長していくの。もちろん、ここには幽霊が出そうだ、とかの期待や恐怖も糧」
「おもしろい説だね」
「あら、ほんとよ」
にっこりして、彼女は言った。
「だから、おいしいの」
すっと、冷たいものを感じた。
彼女は立ち上がり、ツヴァイのリードをまいた。
だいぶ陽が落ちていた。
彼女とツヴァイは、夕闇の中に去って行った。
それきり、彼女とツヴァイには会わなかった。
公園で、彼らの姿を見ることはなかった。
いくぶん、ほっとしたことは確かだ。
ぼくは、大学を卒業し、就職し、結婚もした。
奇妙な彼らのことは、繰り返す生活の中で、記憶の底に沈んでしまった。
それなのに、なぜいま、こうして思い出しているのだろう。
この、ぼうぼうとたちこめるような黄昏のせいだろうか。
ぼくは、街角に立っていた。
目の前を、人々や車が行き交っていた。
かたわらに、ひしゃげた街路灯があった。
供えられた新しい花に気づき、はっとした。
ここに車がつっこんできたのだ。
しばらくは記憶がない。
やがて、ゆうらりとどこかを漂っているような感じとともに、ぼくは自分を意識したのだった。
そうか、ぼくは死んだのか。
家族の悲しみ、友人の同情、痛ましそうに、あるいは好奇心をもって花に目をやり通り過ぎる人たち。
彼らの思いが、希薄だった空気のようなぼくに密度を持たせていた。
ぼくの存在を形づくり、この場につなぎ止めているのは彼らなのだ。
彼らが忘れるまで、ありつづけるしかないらしい。
いや──。
ぼくは、こちらにやってくるものに気がついた。
しなやかに美しい一匹の黒犬だ。
後ろでは、変わらぬ彼女が微笑みを浮かべていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる