鬼の谷

ginsui

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 さっきの男は何者なのだろう。
 横たわったまま珀麻は考えた。 
 昼間にすれちがった過去の人間。 
 時を越えて現れたって?
 そんなことが起こりえるのだろうか。 
 夢とは打って変わって、風ひとつない静かな夜だ。
 目を閉じて考える。考えながら、別のことに思い当たった。
 〈谷〉を抜け出すまたとない機会だ。
 大聖の所に行ったのなら尽はまだ帰らないだろう。
 もうひとりの行者は珀麻が寝入ったと思い込み、戸を閉めた隣の部屋で熱心に仕事を続けている。
 これからの一生を、この暗い谷間で暮らすのはまっぴらだった。
 自由を得るのは今しかない。 
  珀麻は息を殺して立ち上がった。まだ熱っぽかったが、歩けないほどではない。
 寒さをしのぐために上掛けを身体に巻き付けた。燈台の上部を取り外し、燭台代わりにした。
 土間にあった草履をそっと掃き、耳をそばだてる。
 薬部屋では替わらぬ作業の音がする。
 珀麻は静かに戸を開けた。雪がしんしんと降っていた。これなら足跡を隠してくれる。
 珀麻は細い戸の隙間から、夜の中に足を踏み出した。
 鬼はしばらく現れていない。心配ないと尽が断言した。
 とはいえ。闇は不気味だった。 
 珀麻は蝋燭の明かりを頼りに、足早に歩いた。もう少し行ったら身を潜める場所を見つけ、明るくなるまで待つとしよう。朝になれば〈谷〉を抜け出す道も見つけられるだろう。
 遠くの方で獣の遠吠えが聞こえ、どきりとした。
 鬼は現れないが、このあたりは狼が多い。
 珀麻を連れてきた武人たちが、夜、そんな話をしながら焚き火の炎をかき立てていたことを思い出した。ささやかな蝋燭くらいでは、何の役にもたたないかも。
 いっそうあたりに気を配りながら、珀麻は歩き続けた。おかげで足下がおろそかになった。急に地面がぐらついて、 珀麻はあやうく転びかけた。
 踏みとどまって下を見ると、土むきだしの斜面が細い沢へと続いている。もう少しで転がり落ちてしまうところだったのだ。
 胸をなで下ろす。気をつけなくては。
 このまま沢づたいに山を上っていくことにした。いずれ谷を越える道が見つかるかもしれない。再び歩き出し、数歩も行かないその時、茂みの中から何かがのそりと現れた。
 大きな黒い塊。
 それは珀麻の前に立ちふさがった。珀麻は息を呑み、後ずさりしようとした瞬間、今度こそ斜面を転がり落ちた。
 灯りはどこかに消えてしまった。真の闇だ。
 仰向けに倒れたまま、 珀麻は恐怖で身動きできなかった。すぐ耳元で沢の水音。そして、生臭い獣の臭い。どう猛な息づかいとともに、それは珀麻に近づいて来た。
 石が背中に食い込んだが、痛みも感じなかった。身体の感覚はほとんど麻痺していた。
 狼だ。
 熱い息が顔にかかった。そいつが、牙をむき出すのが感じられた。
 〈谷〉に残っていればよかったのかな。ほんの少し後悔して目を閉じた。
 と、狼があえぐようなうなり声を上げ、ぴたりと動きを止めた。
 どうしたことだろう。 
 珀麻はしばらく身動きできなかった。すぐ側に狼の気配はある。低いうなり声が聞こえる。
 このままじっとしていれば、どこかに行ってくれるだろうか。
(おまえ)
 ふいに頭の中で声が響いた。
(何者だ?)
 珀麻は、思わず身を起こした。驚きで言葉も出なかった。
(わたしはおまえを知っている。大聖の所に行く途中、時をへだてておまえを見た)
 珀麻が大聖と面会したのはつい今日のことだ。
 帰り道、違う時空の男とすれ違った。狼では決してない。
(おまえの顔を見て思い出した)
 狼はぶるっと身震いした。
(なにもかも)
「わたしが会ったのは」
 珀麻はようやく口を開いた。
「草という人だ」
(ああ)
 狼は言った。         
(私は草だった)
 狼の息遣いが、再び間近で感じられた。
(元の時空に戻り、そして死んだ。幾度も輪廻した。獣や虫や、人間も一度あったな。子供のうちに命を落としたが)
 狼は独り言のように語り続けた。
(おまえのおかげで、様々なことを思い出した。あの時、忘れていたことまで)
 珀麻には理解できないことだった。狼の言っていることが本当だとしたら、草の魂は同時に二つ存在していることになる。
 現在の狼と、過去の草と。 
 けれど、自分に何の関係がある?
 ただあの時、草とすれ違っただけなのだ。
「行っていいですか」
 珀麻はおそるおそる尋ねた。
(どこへ行く?)
 狼は、前足を珀麻の両肩にかけた。冷たい鼻先が頬に触れた。
(鬼が出たのを知っているか)
 珀麻は夢中で首を振った。
「鬼はずっと現れていないと」
(さっき毛が逆立つほどの妙な気配がした。狼のわたしは、それが何か理解できなかった。今なら分かる。あれは鬼だ。山を下り、都を燃やした)
「都を…」
 珀麻ははっとした。熱にうなされて見た夢を思い出した。
(杜とわたしは、おまえに関係あると思っている) 
「なぜわたしが!」 
 叫んだものの、夢を追い払うことはできなかった。憎しみにだけ支配されていた夢。
(不思議だ。おまえに鬼の力は感じられない)
「わたしは、ただの人間だ」
(卓我も不思議な子供だった)
 狼は鼻をならした。
(わからない。いま、鬼の気配はまったくしない。どこに潜んでいるのか)
 偶然だ、と 珀麻は自分に言い聞かせた。あれは熱が生み出したただの夢。誰にも言うことはない。
(確かなことが一つある。ここにいれば、じきに追っ手が来るぞ)
「わかるのですか?」   
(おまえが逃げた後すぐに、わたしたちは手分けしておまえを探した。見つけたのは尽で、わたしも駆けつけた。狼と目があった時、わたしはもうもとの時代に戻っていた。同じ魂は、近づくことができないらしい)
 狼は珀麻に身を押しつけた。
(ついてこい) 
「なぜ?」
 珀麻は思わず声を上げた。
「ここにいれば、あなたは昔に帰れるのでしょう」
「そしてまた殺されて輪廻を繰り返す」
「殺される?」
(そうだ。戻った次の年だ。毒を盛られた。誰が、なぜ?)
 珀麻は唖然として狼を見つめた。狼は鼻先に皺を寄せた。
(わたしが知りたいのはそれだけだ。杜ならおそらく知っている)
 珀麻は混乱した。この狼が存在しているのは草が過去に戻ったからだ。狼は、その機会を自ら投げだそうとしている。
 草は別のきっかけで帰還したということなのか?
(おまえは役に立つ)
 狼は、さらに身体を押しつけてきた。
(背中に乗れ。かみ殺されたくなかったら)
 
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