鬼の谷

ginsui

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 木立の枝を透かして、空を覆う薄灰色の雲が見えた。
 太陽はその奥で白い輪郭をにじませている。ほぼ中天にあるので、方角を知ることはできなかった。東西がわかったところで、自分がどちらに向かえばいいのか見当もつかなかったが。
 上へ上へと登りさえすれば〈谷〉を抜け出せると思ったのだが、いつのまにか斜面はなくなり、高い杉や檜の林の中を延々と彷徨っている。
 時折、木の枝から雪が落ちてきてびくりとした。きんと冷えた空気は、またすぐに雪が降ることを予感させた。
 立ち止まると寒さが身にしみるので、珀麻は闇雲に歩き続けた。しかし、ふと同じ場所を巡っているような気がしてきた。ためしに灌木の枝を一本折って印をつけ、ここぞと思う方角に向かって行った。
 しばらくして出くわしたのは、自分が折り取った灌木だった。
 珀麻はぐったりとその場にしゃがみ込んだ。
 何かが珀麻を〈谷〉から出すまいとしている.
  大聖たちが念を使っているのだろうか。
 珀麻には鬼が棲んでいるから、俗世に戻すわけにはいかないというわけか。
 だとしたら、対抗するしかない。
 珀麻は唇をかみしめた。自分には力があるのだ。彼らが怖れる鬼の力。
 大聖さえ打ち負かしてしまうほどの。
 かといって、鬼に支配されるのは嫌だった。自分の心を失って本当の化け物になるなら、死んだ方がましだとも思う。
 こちらが鬼の力を支配しなければ。
 どうすればいい?
 これまで鬼が現れたのは眠っている時と、無意識に自分の身を守ろうとした時だ。自分の意思がはっきりしていれば、鬼は現れないのか。
 珀麻は、意識を保ったまま鬼の力を引き出そうとした。足元の雪に半ば埋もれた一枚の枯葉を見つめ、念をこらしてみる。
 枯葉はふるふると振え、雪を払い落とした。空に舞い上がり、珀麻の前をただよった。他の枯葉も後に続いた。
 雪が飛び散り、目を開けていられなくなったので珀麻は風をおこした。風は渦を巻いて大きな球体を形作った。雪と枯葉は球体の中で激しく回転した。
 珀麻は球体をどんどん小さくしていった。中は圧縮され、空に浮かんでいるのは、もはや一握りの黒い氷にしか見えなくなった。珀麻はさらに念を込めた。
 氷の塊はみしりと音をたて、空気の振動ともに消え去った。
 珀麻は大きく息をした。
 鬼の力を意のままに動かせそうな気がする。〈谷〉の者たちに見つからないうちに、ここを抜け出すのだ。
 珀麻は立ち上がった。目を閉じ、深く念じた。
 外へ。
 〈谷〉の外へ。
 目を閉じたまま、一瞬、目眩のような感覚にとらわれた。珀麻は、開いた目をそのまま見開いた。
 何も見えない。
 闇でも利くようになった珀麻の目をしても、四方は闇だった。手足の感覚はなく、どちらが上か下かもわからず、ただ漆黒の闇につつまれている。
 そもそも自分に目があるのかも疑わしくなってきた。あるのは意識だけだ。それも、徐々に闇の中に吸い込まれていきそうな気がする。
 凄まじい恐怖を覚え、珀麻は闇に抗った。
 自分が望んでいるのは、こんな場所ではない。
 珀麻は再び思念をこらした。
 まぶしい光がはじけ、珀麻は両手で目を覆った。
 珀麻は、はっとして両手を見つめた。
 知覚が戻っている。
 再び、しっかりとした地面の上に立っている。
 珀麻は大きく息を吐き出した。
 あの闇は何だったのだろう。
 闇というより無に近かった。あのまま呑み込まれてしまえば、輪廻もない死に向かえたかもしれない。自分の中の鬼にとってはその方がよかったのだろうか。だが、珀麻はまだ生にこだわりたい。最期の最期まで、諦めたくはない。
 顔を上げた珀麻は、あたりを見まわし眉を寄せた。
 さっきとは違っている。 
 木立は若葉を茂らせ、頭上を覆っていた。空は明るく木漏れ日がふりそそぎ、暖かな空気はふくふくと土の香りを含んでいた。
 耳元で、羽虫の飛びまわる音がした。遠くの方で郭公の鳴き声が聞こえる。
 冬から初夏の山中に移動したのだ。
 あの闇を介して、草のように時を超えてしまったのか? 
 ここはまだ〈谷〉なのだろうか。
 〈谷〉の過去か未来なのか。
 未来から過去に向かえば、それまでの記憶は無くなってしまうのではなかったか。でも、珀麻はこれまでのことをはっきりと憶えていた。
 だとすれば、未来?
 珀麻はもう、どんなことにも驚かなくなっていた。とりあえず、いま追われる心配はなさそうだ。
 珀麻は、太い木の根元にぐったりと腰をおろした。
〈谷〉に来て、まだ二日足らずであることが信じられなかった。あまりにも多くの出来事があった。このまま、自分はどうなってしまうのか。
 柔らかい風が珀麻の髪をなぶった。
 陽の光はたっぷりと暖かで、溶けそうなほどに心地よかった。
 ひどく疲れた身体は、休息を求めた。いつしか珀麻は身体をまるめ、深い眠りに落ちていた。

 目ざめた時、陽はだいぶ傾いていた。
 木々の高い枝葉は、夕陽に赫き、赤く燃えるようだった。地面の方は影が深くなっている。
 人の気配を感じて、珀麻はぎょっと身を起こした。すぐ近くの木の下にうずくまり、こちらを眺めている人物がいた。
 伸ばしたままの髪と髭が顔をおおっているので、年の頃はわからなかった。粗末な筒袖の着物と裾を絞った袴を身につけている。行者の姿ではなかったが、髪を結っていないので普通の村人ではないだろう。
「起きたか。おどかせてしまったな」
 男は意外に若い声で言った。 
「行き倒れかと思ったが、ぐっすり眠っているようなので様子を見ていた。どこから来た?」
 珀麻は当惑して幾度も首を振った。なんと答えればいいのかわからない。
「その姿ではやっこだな。主のところから逃げてきたか」
 男の声は優しかったし、逃げてきたのは確かだ。珀麻はこくりとうなずいた。 
「近くに奴を置いているような館はないのだがな。よくここまで来たものだ」
 男は感心したように言った。   
「もう日が暮れるぞ。ひとまずおれのところに来い。こんな山の中に子ども一人置いていくわけにもいかん」
「ここは?」
 珀麻はようやく声を出した。
「深谷と呼ばれている。おれたち隠者ぐらいしか住んでいない」
 男は立ち上がった。
「俗世を払うにはいい場所だ」
 〈谷〉ではない場所にきたのか。それとも〈谷〉がなくなってしまった後の時代に? 
「弧宇という人をご存じですか?」
「ほう」
 男は目を細めた。
「江さまの名は、奴の子どもにまで知れ渡っているのだな」
「ここは、その人に関係ある谷?」
「ああ」
 男は心持ち、胸をそらした。
「江さまは、この谷のずっと奥で瞑想を続けておられる」
 
 
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