鬼の谷

ginsui

文字の大きさ
13 / 14

12

しおりを挟む
 
 木立の枝を透かして、空を覆う薄灰色の雲が見えた。
 太陽はその奥で白い輪郭をにじませている。ほぼ中天にあるので、方角を知ることはできなかった。東西がわかったところで、自分がどちらに向かえばいいのか見当もつかなかったが。
 上へ上へと登りさえすれば〈谷〉を抜け出せると思ったのだが、いつのまにか斜面はなくなり、高い杉や檜の林の中を延々と彷徨っている。
 時折、木の枝から雪が落ちてきてびくりとした。きんと冷えた空気は、またすぐに雪が降ることを予感させた。
 立ち止まると寒さが身にしみるので、珀麻は闇雲に歩き続けた。しかし、ふと同じ場所を巡っているような気がしてきた。ためしに灌木の枝を一本折って印をつけ、ここぞと思う方角に向かって行った。
 しばらくして出くわしたのは、自分が折り取った灌木だった。
 珀麻はぐったりとその場にしゃがみ込んだ。
 何かが珀麻を〈谷〉から出すまいとしている.
  大聖たちが念を使っているのだろうか。
 珀麻には鬼が棲んでいるから、俗世に戻すわけにはいかないというわけか。
 だとしたら、対抗するしかない。
 珀麻は唇をかみしめた。自分には力があるのだ。彼らが怖れる鬼の力。
 大聖さえ打ち負かしてしまうほどの。
 かといって、鬼に支配されるのは嫌だった。自分の心を失って本当の化け物になるなら、死んだ方がましだとも思う。
 こちらが鬼の力を支配しなければ。
 どうすればいい?
 これまで鬼が現れたのは眠っている時と、無意識に自分の身を守ろうとした時だ。自分の意思がはっきりしていれば、鬼は現れないのか。
 珀麻は、意識を保ったまま鬼の力を引き出そうとした。足元の雪に半ば埋もれた一枚の枯葉を見つめ、念をこらしてみる。
 枯葉はふるふると振え、雪を払い落とした。空に舞い上がり、珀麻の前をただよった。他の枯葉も後に続いた。
 雪が飛び散り、目を開けていられなくなったので珀麻は風をおこした。風は渦を巻いて大きな球体を形作った。雪と枯葉は球体の中で激しく回転した。
 珀麻は球体をどんどん小さくしていった。中は圧縮され、空に浮かんでいるのは、もはや一握りの黒い氷にしか見えなくなった。珀麻はさらに念を込めた。
 氷の塊はみしりと音をたて、空気の振動ともに消え去った。
 珀麻は大きく息をした。
 鬼の力を意のままに動かせそうな気がする。〈谷〉の者たちに見つからないうちに、ここを抜け出すのだ。
 珀麻は立ち上がった。目を閉じ、深く念じた。
 外へ。
 〈谷〉の外へ。
 目を閉じたまま、一瞬、目眩のような感覚にとらわれた。珀麻は、開いた目をそのまま見開いた。
 何も見えない。
 闇でも利くようになった珀麻の目をしても、四方は闇だった。手足の感覚はなく、どちらが上か下かもわからず、ただ漆黒の闇につつまれている。
 そもそも自分に目があるのかも疑わしくなってきた。あるのは意識だけだ。それも、徐々に闇の中に吸い込まれていきそうな気がする。
 凄まじい恐怖を覚え、珀麻は闇に抗った。
 自分が望んでいるのは、こんな場所ではない。
 珀麻は再び思念をこらした。
 まぶしい光がはじけ、珀麻は両手で目を覆った。
 珀麻は、はっとして両手を見つめた。
 知覚が戻っている。
 再び、しっかりとした地面の上に立っている。
 珀麻は大きく息を吐き出した。
 あの闇は何だったのだろう。
 闇というより無に近かった。あのまま呑み込まれてしまえば、輪廻もない死に向かえたかもしれない。自分の中の鬼にとってはその方がよかったのだろうか。だが、珀麻はまだ生にこだわりたい。最期の最期まで、諦めたくはない。
 顔を上げた珀麻は、あたりを見まわし眉を寄せた。
 さっきとは違っている。 
 木立は若葉を茂らせ、頭上を覆っていた。空は明るく木漏れ日がふりそそぎ、暖かな空気はふくふくと土の香りを含んでいた。
 耳元で、羽虫の飛びまわる音がした。遠くの方で郭公の鳴き声が聞こえる。
 冬から初夏の山中に移動したのだ。
 あの闇を介して、草のように時を超えてしまったのか? 
 ここはまだ〈谷〉なのだろうか。
 〈谷〉の過去か未来なのか。
 未来から過去に向かえば、それまでの記憶は無くなってしまうのではなかったか。でも、珀麻はこれまでのことをはっきりと憶えていた。
 だとすれば、未来?
 珀麻はもう、どんなことにも驚かなくなっていた。とりあえず、いま追われる心配はなさそうだ。
 珀麻は、太い木の根元にぐったりと腰をおろした。
〈谷〉に来て、まだ二日足らずであることが信じられなかった。あまりにも多くの出来事があった。このまま、自分はどうなってしまうのか。
 柔らかい風が珀麻の髪をなぶった。
 陽の光はたっぷりと暖かで、溶けそうなほどに心地よかった。
 ひどく疲れた身体は、休息を求めた。いつしか珀麻は身体をまるめ、深い眠りに落ちていた。

 目ざめた時、陽はだいぶ傾いていた。
 木々の高い枝葉は、夕陽に赫き、赤く燃えるようだった。地面の方は影が深くなっている。
 人の気配を感じて、珀麻はぎょっと身を起こした。すぐ近くの木の下にうずくまり、こちらを眺めている人物がいた。
 伸ばしたままの髪と髭が顔をおおっているので、年の頃はわからなかった。粗末な筒袖の着物と裾を絞った袴を身につけている。行者の姿ではなかったが、髪を結っていないので普通の村人ではないだろう。
「起きたか。おどかせてしまったな」
 男は意外に若い声で言った。 
「行き倒れかと思ったが、ぐっすり眠っているようなので様子を見ていた。どこから来た?」
 珀麻は当惑して幾度も首を振った。なんと答えればいいのかわからない。
「その姿ではやっこだな。主のところから逃げてきたか」
 男の声は優しかったし、逃げてきたのは確かだ。珀麻はこくりとうなずいた。 
「近くに奴を置いているような館はないのだがな。よくここまで来たものだ」
 男は感心したように言った。   
「もう日が暮れるぞ。ひとまずおれのところに来い。こんな山の中に子ども一人置いていくわけにもいかん」
「ここは?」
 珀麻はようやく声を出した。
「深谷と呼ばれている。おれたち隠者ぐらいしか住んでいない」
 男は立ち上がった。
「俗世を払うにはいい場所だ」
 〈谷〉ではない場所にきたのか。それとも〈谷〉がなくなってしまった後の時代に? 
「弧宇という人をご存じですか?」
「ほう」
 男は目を細めた。
「江さまの名は、奴の子どもにまで知れ渡っているのだな」
「ここは、その人に関係ある谷?」
「ああ」
 男は心持ち、胸をそらした。
「江さまは、この谷のずっと奥で瞑想を続けておられる」
 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

近すぎて見えない物

あんど もあ
ファンタジー
エルリック王子と一夜を共にした男爵令嬢。エルリックの婚約者シルビアが、優しく彼女に言った一言とは。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

今更……助けてくれと……言われても……

#Daki-Makura
ファンタジー
出奔した息子から手紙が届いた…… 今更……助けてくれと……言われても……

処理中です...