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Ⅰ
しおりを挟む野中を吹く風に、静かな死臭がある。
ひとつの影が野を横切り、羅城門へと向かっていた。
月も星も青黒い雲の中に沈み、深野を浸す虫の音のみが空との境界をそれとしるした。影は闇にとけ、ゆるやかに進んだ。
水王、と影は呼ばれていた。人間が魔とみなすものたちの中で。
羅城門の前の葉叢が、ふいにざわめいた。
凍てついた獣の目が、丈高い草の間から覗いて消えた。
水王の気配をかぎとって、弾かれたように逃げ去ったのは、痩せた数匹の野犬だった。
そのとき雲が切れ、月が葉のそよぎを照らし出した。
狩衣をまとった、うら若い男の姿があらわになった。髪を後ろ背にたらし、青白い額には裂けたような傷跡がある。
人間でないものの妖しげな美しさが月光に冴えた。
野犬を引き寄せていた獲物は、無傷のままころがっていた。被衣にくるまれた乳飲み児である。
水王が足先でつつくと、乳飲み児はかすかに身動きした。
捨てられてからどれほどたつのか、泣き声を上げる力はないものの、まだ生きている。
このみじめな生きものの強靭さに、水王は皮肉な笑いをうかべた。
もう一度軽く蹴りやって、水王は羅城門の中に入って行った。
上層に登ると死臭は一段と強まった。
弔いもかなわなかった骸が、人間の名残をようやくにとどめて打ち捨てられている。
それらをこともなげに乗り越え、帳を開くようなしぐさをすると、闇が割れてほのかな光がさした。
おびただしい梅の木が光の中に匂い放ちながらつらなり、遥か果てに寝殿造りの館がある。
「これは常陸の殿」
雑色姿の鬼が水王を出迎えた。
「茨木はいるか」
「いえ、大江山に」
「酒呑童子のところだな」
急ぎの用事があるわけもない。
水王は茨木を待つことにした。一日だろうと十年だろうと、妖魔にはさして変わらぬ時なのだ。
茨木の館は、人界のものの豪奢な模倣だった。
庭園の広い池面に浮かぶのは、龍を形どったほっそりとした二艘の船。舟首の龍の目は紫水晶、きらめく鱗は一枚一枚が薄い貝細工だ。
築山には彩り豊かに四季の花々が咲きほこり、可憐に小さな蝶々が花びらのように舞っている。
屋根の瓦はすべらかな青磁、紫檀の柱、絹張りの壁、調度小物のひとつひとつ、贅の限り美の限り──これらすべて、創り出した時と同様、茨木が手を一振りすれば消え失せる幻だとしても。
水王は、酒を釣殿に運ばせた。
美麗な幻の女たちがかしずいて来たが、水王は無言で彼女らを消した。ひとり、玻璃の盃を傾ける。
が、思いのほか早く茨木は帰って来た。
水王は、彼が抱えるものに眼をとめた。
「それは?」
「人の子だ」
茨木はにっと笑って腰を下ろした。
烏帽子さえつけていれば、そして髪の間からのぞく角さえなければ、都の貴公子とも見まごう美丈夫である。
「羅城門の下で拾ってきた」
「わたしも見た。虫の息だろう」
「死なすにはおしい。愛らしい顔をしているぞ」
「どうするつもりだ」
「育てるさ」
「育てて稚児にでもするか」
「悪くなかろう」
水王は、興味なさそうに酒を口に含んだ。
「ものずきなことを」
「忘れたか、水王。わたしも酒呑童子の拾い子だった」
「鬼が一匹、また増えるわけだな」
「そう言うな」
茨木はくっくと笑い、ぐったりとした赤子をもう一度眺めやった。
「乳がいるな。どこぞから乳母をさらわせよう」
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