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Ⅱ
しおりを挟む異界の時は、ものやわらかによどんでいた。
梅の花は絶えず咲きつづけ、梅の紅に染まるかのような乳色の空は、にじむような光を含んだまま暮れることはなかった。
変化は、梅王と名付けられた子供にばかりおとずれた。
茨木が満足する可憐さで梅王は成長した。
茨木は梅王を連れ、好んで梅林の中を歩いた。
幼いころは肩に乗せ、少年となってからはその身を抱くようにして。
「ここは、そうだな、人間界のほころびのようなところかな」
梅の木を見上げながら茨木は言う。
「人が怖れ、嫌うところには、居心地のいいほころびができるよ。魔が巣食うにはちょうどいい、な」
「魔?」
「人に禍なすものだ」
梅王は、茨木をしげしげと眺めた。
「茨木は、そんなふうには見えないけれど」
「おまえにはな」
声をたてて茨木は笑った。
「だが、他の者たちには違うのさ。魔はあさましく恐ろしい。人の世におこる悪しきことは、すべてわれらの仕業らしいよ」
「本当に?」
「まさか。たまにちょっかいを出すくらいだ。退屈しのぎにな」
人の世は、梅王にも見ることができた。
梅林の中に小さな池があり、眼をこらすと澄んだ水面は望みの光景を映し出した。
茨木が側にいない時など、梅王はつれづれに池に身を乗り出し、人界を眺めた。
梅王にとっては、都路を横切る麗しげな牛車も、河原に倒れた疫病人も、めずらしさにかわりはなかった。
貴族らはしきりに物忌みし、そのあいまに官位を競った。
きらきらしい仏会が催され、典雅な恋歌がとりかわされ、たいていの夜は盗賊が横行し、野犬が死肉をむさぼった。
人界は大がかりな乱雑さで動いているようだった。
行ってみたいとは思わなかった。
梅王はここでの生活に充分満足していたのだ。
池は梅王とは無縁のうつろいを、ただ従順に映しつづけた。
その時までは。
その時も、梅王は池の端にいた。
水面はあいもかわらぬ人界のなりわいを見せていた。
それは、しごくささいな光景だった。
ひとりの女が家の庇に座り、赤子に乳を含ませている。女は下級官人の妻でもあるらしく、身なりも家屋も質素このうえないものだった。
が、赤子を抱いているそれだけの行為が、えもいえず美しく梅王には見えた。
記憶のどこかを、赤子の和毛のようなものがひとなでした。あわいやさしい感情が高まった。
「梅王」
茨木の声で我にかえった。
茨木の側に見慣れぬ姿があった。
青白い若者の顔は冷ややかに美しく、瞳ばかりに老人のような倦怠がある。
「これがそうだ」
茨木は水王に言った。
「つつがなく育ったものだろう」
「そのようだ」
ここに来るまで、水王は茨木が拾った赤子のことなどすっかり忘れていた。あの時と同じような気紛れで、ふらりと羅生門を訪れただけのこと。
時の流れには無頓着な妖魔も、赤子のしたたかな成長ぶりに、なかばあきれる思いがする。
梅王はしかし、水王へのとまどいよりも水面の光景の方に心を奪われていた。
「あれは?」
茨木は梅王の指先を見て眉を上げた。
「ただの母子だ」
「おやこ?」
「母親は子供をなす。それだけのものだ」
「わたしの母親は──」
言いかけて身をすくめた。
水王の、射るような視線が向けられていたのだ。
冷たい怒りをたぎらせたまま、水王はきびすをかえして歩み去った。
「おろかなことを、な」
茨木は梅王を引きよせ、ささやいた。
「水王には母という言葉が禁句なんだ」
「なぜ?」
「憎んでいる」
その昔、と茨木は言った。
その昔、常陸に住むひとりの娘が大地の気を受けて子を孕んだ。
生まれた子供は神の子として娘の一族にまつり育てられることになった。しかし、その育ち方は尋常でない。半年もしないうちに十才の童子ほどにも成長した。
母親はついにおそれをなし、息子に高杯を投げて追い払った。
「水王の額に傷があったろう、その時の傷だ。まだ消えない」
「……」
「母親にさえ捨てられらければ、水王は神霊のひとつになっていたはずだった。しかし、母親を殺し、魔に堕ちた」
「わたしの母は違う」
梅王は、必死で言った。
「わたしを追い払ったり、しないだろうし、わたしだって──」
「おまえとて捨て子だった。親に捨てられた子供が鬼になるのさ。ここにいれば、おまえにもいずれは角がはえる。このわたしと同様にな」
「違う! 憶えているんだ、確かに」
言っているうち、記憶は、溢れるようによみがえってきた。
かすかな子守歌の調べ。自分を眠らせてくれた、その温かい膝の上。やさしいひとの面影が。
「ああ。乳母だな、それは」
茨木は、ようやく思い出したように言った。
「乳母?」
「さらってきたのさ、おまえのためにな。まだ若かった、おまえが三つぐらいまでここにいた」
「それから?」
「おまえが育てば無用の女だ。京の街中に捨てさせた」
梅王は、茨木にすがりついた。
「会いたいんだ。会わせて」
「どこにいるかもわからんさ」
茨木は、あっさりと首を振った。
「生きているという保証もできん。あきらめるんだな」
だが、あきらめることはできなかった。
梅王はうつうつと日をおくった。
茨木の側にいても、彼の眷属たちと蹴鞠や舟遊びをしても、むかしのようには楽しめなかった。
梅王は池の端に佇み、様々な母子の姿を映し出しては嘆息をついた。
池に、水王の影がさした。
「それほど会いたいか」
水王は冷ややかに言った。
梅王は強くうなずき、一途な眼をまっすぐに水王にむけた。
黒ぐろとした美しい瞳がうるんでいた。
心をうたれたわけではない。
水王は、ただ残酷な好奇心にかられただけだった。
「この館を離れても、おまえの乳母を探し出したいか。二度と戻れなくとも?」
一呼吸間をおいて、梅王はこくりとうなずいた。
「よかろう」
水王は薄く笑い、片手をひらりと動かした。
空に濁った闇が開き、驚く間もなく梅王は闇の中に押しやられた。
帳はすぐに閉ざされた。
梅王は、闇と死臭のこもる羅城門にただひとり立っていた。
「哀れよな」
池を眺めながら茨木が言った。
「ふん」
水王は、冷たく答えた。
「連れもどしに行くほどの執心もあるまい」
「それがあればな、水王」
茨木は乾いた笑い声をたてた。
「これほど退屈を持てあましてはいないだろうよ」
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