妖魔記

ginsui

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 京の街中に向かって歩きだしたものの、梅王にとっては、人間界こそが異界にちがいなかった。
 人々の眼に梅王は、捨てられた白痴の童子か物狂いのように映ったかもしれない。
 公卿の車の前を横切っては、牛飼いに殴られた。道の端に腰を下ろしては口さがない子供らに囃たてられ、石を投げられた。
 いつのまにか衣までもはぎとられ、半日もしないうちに乞食同様のありさまになっていた。
 空腹と傷ついた身体をひきずって、梅王は街の市に入って行った。
 市に人はあふれている。
 人さがしは容易なことではないようだった。人界は市よりはるかに広く、まして梅王は乳母の名すら憶えていない。
 市の片隅に、ふと梅王は眼を止めた。
 一様にみすぼらしい身なりの人々が、ひとかたまりになって立っている。誰もが寒々として生気ない。季節は、間もなく冬をむかえようとしているのだ。
 梅王は、むきだしの両腕をこすりあわせて彼らのところに歩みよった。梅王の姿は、いかにも彼らの中こそがふさわしかった。
「何をしている?」
 梅王は近くの男に声をかけた。
「見ればわかろう」
 男はどんより曇った眼を梅王に向けた。
「身を売るのよ」
 路頭に迷った者たちが、やむにやまれず自分を売ろうとしているのだ。自由を奪われた奴に堕ちても、餓死するよりはましというわけで。
 確かに、彼らの前には、品定めしているような連中がいた。
 見目好い女でもいたら、東国に売り飛ばそうと目論んでいる人買いや、近在の荘園から、使い惜しみする必要のない働き手を求めに来た者たち。
 その時、誰かが梅王の腕を乱暴に掴んだ。
「華奢だが、年寄よりは使えるだろう」
 いかつい顔つきの男が、梅王を横柄に見下ろしていた。
「ありがたくついて来い。飯だけは食えるからな」
 それが梅王の買手だった。
 大和の長者のやっこに梅王はなった。


 茨木が去った後も、水王は池の側を離れなかった。
 梅王の運命に、いつしか興味以上のものを感じている。
 何を期待しているのだろう。
 梅王が抱いているのは、母親の幻想でしかないというのに。
 これから先、梅王が乳母に会えるとは限るまい。たとえ再会できたとしても、彼女が梅王の想像通りのものかどうか。
 しかし、水王は梅王を見つめつづけた。
 口の端にうっすらと自嘲めいた笑みをうかべて。

 日々はおわりなくくりかえした。
 日の出から日の入りまで休みなく働き、わずかな食事を与えられ、下人頭の笞に脅える日々だった。
 何も考えないでいることが生きていく一番の方法だということを、梅王はとうに理解していた。
 しかし夜、ぐったりと疲れた身体を湿っぽい寝小屋の床に横たえる時など、人々が魔と呼びならわすものたちのことがたまらなく懐かしく思い出されてくる。
 なぜ、人界に来たりなどしたのだろう。
 茨木のもとにさえいればよかったのだ。捜し出せるはずのない者のことなど忘れて。
 人間は、闇を忌み嫌う。
 だが梅王は、闇にこそ手をさしのばして助けを求めたかった。魔が闇の底にひそんでいるものならば。
 大和に来て、一年が過ぎようとしていた。
 救いは、別のところから訪れた。
 その日、田仕事を終えて寝小屋に帰ろうとしていた梅王の前を、一台の牛車が通りかかった。おつきの者たちを従えた、品のよい女ものの車だった。
 仲間の奴たちとともに梅王は道を開けて頭を下げた。
 牛車はなぜか、その場を動こうとはしなかった。
 牛車の細く開いた物見窓から、すすり泣くような長いため息がもれた。梅王の耳にはとどかなかったけれど。
 翌日、あるじの長者が梅王を呼びよせた。
「つくづく運のいいやつよな、おぬしは」
 あるじは、あきれたように言った。
「おぬしを欲しいといわれるお方がおる」
 国守の北の方が、梅王の姿をかいま見た。梅王は、先年病いで亡くなった国守夫婦の息子にそっくりであるという。
 梅王は、その日のうちに国守の館の住人になった。
 奴時代の垢をおとし、真新しい水干に着替えた梅王は、館の誰もが眼をみはるほど涼やかな童になっていた。
「くる日もくる日も長谷の観音にお願いしていたのです」
 梅王を前にして、北の方ははらはらと涙を落とした。
「いま一度、あの子に会わせていただきたいと。おまえを見たのもその帰り。観音のお導きに違いない」
 北の方は、梅王をかたときも離さず側においた。
 まるで梅王が生きかえったわが子であり、眼を離せば再び消えてしまうとでもいうかのように。
 北の方は美しく、かぎりなく優しかった。
 これが母親というものなのだろう。
 北の方を見る度に、梅王はそう思うようになっていた。
 北の方の側にいると、いつか見た母子のように自分たちがやわらかな光の中につつまれているような気がする。
 乳母には会えなかったにせよ、梅王は幸福だった。
 自分が求めていたひとは、はじめからこの北の方ではなかったろうか。
 息子が死んで以来ふさぎがちだった妻の笑みを見て、国守もひとまず安心した。
 だが、時がたつにつれ、彼の胸にほの暗いものがよぎりはじめた。
 息子に似ているとはいえ、梅王はもはや子供といえる歳ではなかった。

 水王は、池から眼を放した。
 水王が見たいのは、梅王と乳母の再会だ。
 羅城門を出た水王は、大和に向かった。
 闇にまぎれ、梅王に姿を変えて北の方の寝所にしのんだ。
 翌朝、梅王は放逐された。
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