妖魔記

ginsui

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 何が起こったのかまるで見当のつかないままに、梅王はとぼとぼと京への道を歩きだした。
 知らず知らずのうちに北の方の勘気をこうむったのなら、どんなつぐないでもしたかった。しかし北の方は梅王に会おうともしないのだ。
 あまりに深くしずみこんでいたので、その男がいつから自分と並んで歩いていたのか梅王は気づかなかった。
「いやにふさぎこんでいるじゃないか、若いの」
 その声でようやく男の顔を見た。
 梅王とさして背丈の変わらぬ中年の小男だった。にやつきながら値踏みするようにこちらを眺めまわしている。
「おれは、鬼童丸きどうまるだ。あんたは?」
「梅王」
「もうすぐ日が暮れる。行くあてはあるのかい?」
 梅王は、首を振った。
「じゃあ、ついて来ればいい。泊めてやるぜ」
 このとらえどころのない男を信用したわけではなかったが、心細さには勝てなかった。梅王は彼の誘いに従った。
 鬼童丸は梅王を、京の街はずれにあるひなびた家へと導いた。
 三十路を少し過ぎたほどの、あでやかに美しい女がひとり、二人を出迎えた。
白鷺しらさぎだ」
 鬼童丸はささやいた。
「いい女だろう」
 白鷺は、梅王ににっこりと笑いかけた。
「いらっしゃい。きれいなお客さまだこと」
 鬼童丸の妻だろうか。ちらりと梅王は考えたが、どうもそうではないらしい。
 白鷺は酒膳をはこび、かいがいしく梅王をもてなした。
 彼女の艶冶な笑みに誘われて慣れない盃を重ねるうち、梅王はいつしか不覚に陥った。鬼童丸の姿はとうになかった。
 夜半、鋭い痛みで目が覚めた。
 身を起こそうとしたが動くことはできなかった。
 手足をきつく縛られている。
 閨をともにしたはずの白鷺はかたわらにいなかった。かわりに水干姿となった彼女が笞を手にして梅王を見下ろしていた。
 燈台の火明かりが、不思議な笑みをたたえた彼女の顔をゆらめかせた。細められた瞳の奥が、妖しげに燃えていた。
 白鷺はむきだしになった梅王の背に再び笞を振り上げた。
「痛いかい?」
 白鷺は高らかに笑った。
「この痛みで俗世をはらいおとすと思ってごらん。そうしたら、あたしの仲間にしてやろう」
 梅王は、言葉も出なかった。
 肉が裂け、血がほとばしった。苦痛は脳髄を貫き、快楽にも似た空白がおとずれた。

 白鷺は、京の街を暗躍する盗賊の首領だった。
 彼女には鬼童丸をはじめ、数十人の配下がいた。
 鬼童丸は、白鷺のもとに若い男をつれて来る。
 白鷺との一夜で、あえなく命を落とす者もいた。彼女に服従を誓わない者も、即座に殺される。
 梅王は、白鷺の前にひれふした。
 他の男たちと同様、白鷺の命令ならばどんなことにも従った。
 白鷺は闇に君臨した。
 彼女は絢爛たる色彩の氾濫だった。
 物を盗み、火を放ち、やがてこともなく人を殺せる男に梅王はなった。
 時おり、羅城門の前を通りかかった。
 羅城門は野ざらしの風をうけ、何事にも無頓着にそびえたっているだけだった。
 淡い光に満たされた梅林を思い出すのはまれだった。
 夢の中に追いもとめていた優しいひとが、顔もさだかではないその人が現れ、胸に鈍い痛みを覚えることはあった。
 だが、そんな時、目覚めればいつでも白鷺の豊かな肉体が待っていた。
 梅王はもはや白鷺の不在を考えることはできなかった。
 気がついた時には鬼童丸をしのぎ、白鷺の片腕となっていた。
 鬼童丸がそれをこころよく思わないのは当然だ。
 いずれは決着をつけねばなるまい、と梅王は密かに考えていた。
 その時はじきに訪れた。
 京にいくつかある隠れ家のひとつだった。鬼童丸がついに白鷺に刃を向けたのだ。
「このごろのあんたは、公平とはいえないぜ」
 鬼童丸は、一瞬の隙をついて白鷺を背後から押さえこんだ。刀のきっさきを彼女の鼻先にちらつかせながら、
「そりゃあまあ、若いのがお好みなのはわかるがね」
 数人の盗賊が、下卑た笑い声をたてて鬼童丸方についていることを示した。あとの者たちはどちらにつくべきか決めかね、なりゆきを見守っている様子だった。
 梅王は歯噛みしたが、白鷺が鬼童丸の手にある以上どうすることもできはしない。
 鬼童丸は仲間に顎をしゃくって合図した。彼らは梅王を捕らえようと、せせら笑いながら近づいて来た。
 と、鬼童丸の腕の中で白鷺の身がひるがえった。
 白鷺は、鬼童丸が突きつけていた刀の刃をしっかりと握っていた。
 ふいをつかれた鬼童丸は力を抜いた。白鷺はすばやく刀を奪い取った。
 「あたしを誰だと思っているんだい」
 盗賊たちを眺めまわし、白鷺は艶然と笑った。
 刀を握ったままの白い指の間から、ようしゃなく血がしたたっていた。
「おまえたちなど、ちっとも怖くはないね」
 白鷺は誇らかに言った。
「あたしはね、鬼と暮らしたこともあるんだよ。羅城門の鬼とさ。人でありながら人の棲めないところに行って来たんだ。それからはもう、怖いものなしさ」
 白鷺は刀を持ち直し、血にまみれた手でゆっくりと鬼童丸の頬を撫で上げた。
 鬼童丸は憑かれたようにうっとりと立ちつくし、白鷺のなすがままになっていた。
 笑みをたたえたまま、白鷺は鬼童丸の胸に深々と刀を突き刺した。
 梅王は喰い入るように見つめ続けていた。白鷺の、その顔を。

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